国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

法治議会制と徳治独裁制

2011年04月24日 | Weblog

    緊急時にはリーダーの即決即断と現場のリーダーの即決即断が求められる。それができるのは日頃の意思統一とリーダーの意思を汲み取ってうごける部下がいるかどうか。また意思が正義や仁愛という人間の本性に基づいているかどうか。
 わが国の政府が非常時に頼りにならないのはへたれ人物しか政治家になれない選挙制度をつくり、民が誠の人物よりも知名度と口先広告で人を判断してしまうからだ。
 賢明な人物を引き抜くには三国志の劉備のように三顧の礼を尽くして側近として迎えねばならないが、日頃から徳の高い人物が賢者を推挙できるシステムをつくらねばならない。とはいえ、そういう人を選定する基準をろくでもない学者が議論して決めるようでは仕方がないし。
 民の意思は重要だが陛下の意思は最重要でそれを実現できる議会と憲法は明治にもできていない。

 権利主張の集合体たる国民が選んだ責任が問われている。

 常識を疑うは今日の課題の一つで、宗教を疑うと同じ程度に民主主義や社会主義という制度のメリットとデメリットを考えるべきだろう。

 それらが理想的な組織の一部を切り取って作られたと考えたことは有るだろうか。

 太古に理想的形態があった。たとえば共産主義では太古の状態を原始的とみなし、原始共産性と名づけた。

 ところが実は太古には進んだ文明がありシャーマニズムを中心とした原始共産性は太古の政治形態の名残だとしたらどうだろう。

 全世界の政治学がひっくり返り、学者は太古の政治を学び始めるだろう。なぜ太古にはそのような政治形態が存在したのか。なぜそのような政治形態で機能したのか。それがうまくゆくためには何が必要か。何が間違っていたのか。

 民主主義というのは、君主主義の反対語で、君主主義に対抗して作られた。共産主義というのは経済体制で資本主義の対語で、資本主義は労働搾取からなりたっているという視点からはじまった。だから中国でも北朝鮮でも独裁といわれても民主主義をうたっっているし、アメリカは自由な民主主義国と歌っているが、攻撃されている国からみれば大統領を頂点とした帝国主義として映ることもある。

 日本人としては自明の話であるが、庶民としては時々言葉の意味が混乱してとらえられる。

 実態が変化しつつあるからだ。それでもアメリカは選挙や議論を基本としてなんとか国を動かしている。ただ、この形態の弱点はスピードと少数意見の排除にある。故に軍を強くするためには帝国主義的な大統領判断による統制を行わざるを得ない。

 だがそれがいきすぎると、イラク侵攻のようになる。

 

 

 

 

 

 

 


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