クリスチャンであることと自分のセクシャリティが相容れないとずっと感じていた自分。
そして自分のセクシャリティを押し殺して過ごしてきた約1年半。
ある日、自分らしさを押し殺してとっても窮屈になっていたことに気づいた。
それはまったく自分らしくなくて、ありのままの自分でいいのではないかと思ったとたん、
とっても気持ちが軽くなって、心が自由になった。なんて気持ちいいんだろう。
私はただありのままの自分で生きたいだけなんだな~
そう思ったら、社会の偏見や差別がおかしいんじゃないのか、あたりまえの人間として生きる権利
が侵害されているんだということに気づいた。
だからこのブログを通じてクリスチャンであることと自分のセクシャリティをどのように共存させていくかを考え、
いろいろ調べていこうと思う。
私はもちろん牧師でもなんでもない。
ただ信仰を持ってこれからの人生を歩んで生きたいと思うし、なおかつ生まれ持ったこのセクシャリティも自分なのだから。
すべての人間は神様のもとではみな平等であるはず。人種、性別、年齢に関係なくみんな平等なんだ。そしてもちろん同性愛者であっても。
そして自分のセクシャリティを押し殺して過ごしてきた約1年半。
ある日、自分らしさを押し殺してとっても窮屈になっていたことに気づいた。
それはまったく自分らしくなくて、ありのままの自分でいいのではないかと思ったとたん、
とっても気持ちが軽くなって、心が自由になった。なんて気持ちいいんだろう。
私はただありのままの自分で生きたいだけなんだな~
そう思ったら、社会の偏見や差別がおかしいんじゃないのか、あたりまえの人間として生きる権利
が侵害されているんだということに気づいた。
だからこのブログを通じてクリスチャンであることと自分のセクシャリティをどのように共存させていくかを考え、
いろいろ調べていこうと思う。
私はもちろん牧師でもなんでもない。
ただ信仰を持ってこれからの人生を歩んで生きたいと思うし、なおかつ生まれ持ったこのセクシャリティも自分なのだから。
すべての人間は神様のもとではみな平等であるはず。人種、性別、年齢に関係なくみんな平等なんだ。そしてもちろん同性愛者であっても。