写真で綴る想い出

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海外体験(44)

2014年05月03日 | 海外体験

 


南米のワインで美味しいのはチリ産とアルゼンチン産でしょう。アルコールに弱い者がワインに就いて書くはおかしいのですが、両国の宣伝の為に思い出しながら一言。どう言う根拠があったのか知りませんが、「アルゼンチン・ワインは赤が、チリ・ワインは白が美味い」と良く聞かされました。然し、赤・白共アルゼンチンにもチリにも美味しいワインはあります。さて今日はアルゼンチン・ワインの紹介です。

1981年に初めてアルゼンチンに出張した頃はインフレにも拘わらず為替切り下げを全くしなかった為、ドルの価値が無く、出張手当は朝食(コンチネンタル)と昼食時のスープで無くなってしまう状況でしたので、出張期間が長くなると赤字額は個人補てんせねばならず、ワインなどとても飲める状況ではありませんでした。途中で呼び戻され帰国した際の部長会で、副社長から「ご苦労だが、もう一度行って呉れ」と言われた際に「こんなに赤字が出る様な出張手当では、お断りします」と拒否した場面もありました。副社長からは「君は酒を飲まなかった筈だが、それでも足りないか?」と言うので、「酒などトンデモナイ。出張手当は昼食の途中で無くなります」と応じると、人事部に掛け合って呉れたのですが、対応はありませんでした。人事部が「ヒトゴト部」と言われる所以です。

 その頃、見つけたのがボトルと言い、ラベルと言い魅力的に見えたNavarro CorreasColección privadaでした。何時か、このワインを試飲して見ようと思うほど魅力的なボトルでした。Y君の後任として駐在に切り替わった時には、必然的に為替の切り下げがなされたので、ドル価値も復元し、飲めるようになりましたが、その頃、気が付いたのはこのワイナリーはフランスのシャトー・ムートン・ロートシールトの真似をして、毎年ラベルを著名な画家の絵に替えていることでした。Colección privadaを未だ日本で見掛けた事がありませんが、このワインはカベルネ・ソービニオンとメルローを混ぜたものでした。

個人的に気に入って良く飲んでいたのはフランスのMoët et Chandonと提携していたProviar社のClos du Moulinでしたが、これも未だ日本では見つけていません。

Weinert社のワインがルフト・ハンザ航空のファースト・クラスで供される様になったとのニュースを耳にしたのも駐在中でした。Cavas de WeinertCarrascalと言うワインがありました。

日本で一番手に入るのはTrapicheでしょうか。

 日本酒も同じなのかも知れませんがワインは多種で、アルコールに弱い者としては数を飲めませんので、効率良く美味しいワインを見つけねばと考えガイドブックを探しました。その結果、Hachette社から出版されていたGuia de los Vinos Finos Argentinosと言う本を見つけ推薦されているワインを飲むようにしたのですが、勿論、上記のワインは何れも掲載されていました。また、スペイン語が得意でなかったのでアルゼンチンの英語新聞を購読していましたが、The Waorld of Wineと言うコラムがあり、切り抜きしていたものが出て来ました。Clos du Moulinに就いてはこうあります。

The Clos du Moulin is equally delicate but with an underlying strata of strength which makes it stand up to most foods.

 

Navarro CorreasColección Privadaです。美味しいワインでしたが、もう何十年も飲んでいません。

 

アルゼンチン駐在中に好んで飲んだClos du Moulinですが、名前からフランス風ですね。

 

Weinert社のCarrascalです。


 

Trapicheのワインは近所のスーパーでも販売されていますが、これを見た事は未だありません。

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海外体験(43)

2014年05月02日 | 海外体験

アルゼンチン日産としても覚悟を決める必要がありました。そこで全販売店を招集して状況説明を行いました。「アルゼンチン経済情勢から、少なくとも向こう5年は完成車の輸入が再開される事はないだろう。幸い部品の輸入許可は下りるので、部品供給は続けるが車は入って来ない。貴方達も生きて行かねばならないが、残された一つの道はいち早く、国産メーカーの販売店になる事だ。幸い輸入車の販売店が国産メーカーの販売店になったと言うニュースは耳にしていない。他社に先駆けて行動する事を勧める。或いは中古車販売やサービス工場として生き残る方法もあるかも知れない。日産側からのお願いは、何れの場合も部品供給はするので、販売済みの車に対するサービスだけはして欲しい」 説明が終わった途端、怒号の渦でした。楽天的なラテンの人達ですから、余り深刻に考えて居なかったのかも知れません。言い方を考えれば良かったのかとも思いました。

こう言う状況を金儲けの種にしようとした弁護士団がいました。彼等は販売店に声を掛け、「アルゼンチン日産は供給義務を果たさないのだから補償金を取れる」と焚き付け、アルゼンチン日産販売店協会を設立、集団訴訟を起こすと通達して来たのです。輸入許可が出ないのだから、供給責任はないだろうと判断しましたが、こちらも弁護士をたてて応じました。アルゼンチンには「下手な示談は、上手な訴訟に勝る」と言う諺があります。従って、先方の弁護士団も直ぐに訴訟を起こさず、話し合いを求めて来ました。

一方、社内的にも人員削減をせねばなりません。130人ほど居た社員を部品部と経理部を中心に20名程度まで減らす作業を始めました。本社からの駐在員も一名減らして2名にしました。関係先への就職斡旋もしましたが、アルゼンチン自体が危機的状況だったので容易ではなく数名しか実現しませんでした。 中には解雇通告すると「妻が妊娠中で、解雇されたら生活して行けない。何をするか判りませんよ。貴方も覚悟はあるでしょうね」と5時間以上粘られ脅されたケースもありました。解雇された社員が販売店側に組みし、社内情報を漏らす事も起りました。

販売店に納得して貰うには団体交渉は無理と判断したので、部品部長を連れて一店ずつ訪問して廻りました。中にはこちらの説明を理解し、素早く国産メーカーと交渉、販売権を取得する店も現れました。こうして販売店訪問は2年半ほど行い、中心的な販売店には納得して貰い、最終的には販売店協会は結束力が無くなり、訴訟には至らず、社長に任命した部品部長に後事は託し、1984年12月末のフライトで帰国する事が出来ました。

これにはチョッとした後日談があります。輸入禁止になって10年ほどが経過した頃でした。アルゼンチンでは再び完成車輸入を認めようとする動きが出て来ました。但し、クォータ制で一つのブランドに認める台数を制限する事で、大量の完成車が流入することのない方法でした。その頃、チリ日産に出向していたのですが、昔の販売店主が所用でサンチャゴに来ていて、小生を見掛けたというのです。彼はアルゼンチンに戻り、部品供給を続けていたアルゼンチン日産に「米田はサンチャゴに居るのではないか? あれから10年だから、現在どんなモデルが日産にあるのか判らないから、皆で訪ねて試乗させて貰えないだろうか?」と言って来たそうです。要請を受け、「喜んで歓迎する。現在、販売している車は全て社用車として使っているので、自由に試乗して貰って結構」と回答し、10余名が訪ねて来ました。席上、販売店の代表が「我々はセニョール米田に謝らねばならない。あの時、我々は責任回避の発言と受け取り、訴訟等々の動きをしたが、貴方の言った事は全て正しかった。現実はその通りになった。それだけでなく、今回、快く我々を受け入れて呉れて感謝に耐えない」と言ってくれたのは嬉しく思いました。

 ブエノス・アイレスのダウンタウンにあるサン・マルティン広場です。独立の英雄、サン・マルティン将軍の記念碑があります。顧問弁護士事務所はこの広場に面してありました。

 

サン・マルティン将軍の記念碑です。

 

咲いているのはハカらンダです。事務所はこの辺りだったでしょうか。

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海外体験(42)

2014年05月01日 | 海外体験

1981年6月に着任して、直ぐに連れて行かれたのは「三水会」と称する進出企業の会合でした。俗にメーカー会とも称し、商社等は除外して、自動車、家電で進出した企業の集まりでした。既にアルゼンチンはインフレと切り下げに続く切り下げで危機的状況にあり、進出企業は何れも破綻状況でしたから、愚痴を聞く会でした。1981年末には販売台数だけは計画レベルに戻っていたので、採算の改善を計らねばならず、再建策を策定した頃でした、BMWアルゼンチンの社長と話す機会があり、「このインフレと切り下げの状況で、長期計画などの策定が難しいのは判るだろう? にも拘わらず本社からは一年間の計画を提出せよと言って頭を抱えている」と言うと、彼は「日本人の方が、物わかりが良いな。俺の処など向こう4年間の計画を出せと言われている。二週間先も読めないと言うのに・・・」との反応でした。

月間インフレ率以上の値上げをして、採算の改善を計るしかなく、毎月30%ほどの値上げを続けました。然し、何故か販売台数は落ちないのです。多分、ペソで持っているより、換物して置いた方が良いとの考えだったのかも知れません。1982年2月には損益分岐点に近い価格になっており、あと一息と期待していた時に起こったのが「フォークランド島紛争」でした。3月19日のことでした。一般的にはフォークランド島紛争ですが、アルゼンチンでは「マルビーナス島紛争」です。

このお蔭で、僅か数ヶ月でしたが、順調に推移していた再建策は完全に行詰まりました。輸入許可が下りなくなったのですから手の打ちようもありませんでした。アルゼンチン政府は実に姑息な手段を取りました。輸入禁止令は出さず、提出された輸入申請書を積み上げて置くだけで許可を出さないのです。毎日の様に担当者を経済省に赴かせ申請書がどうなっているかチェックさせたのですが、山積になっていたので、その中から引き出して一番上に乗せて来たというのですが全く効果などありません。

フォークランド島紛争はご承知の通り、鉄の女、サッチャー首相が艦隊を派遣して2ヶ月ほどで決着が付いてしまいました。1981年末に大統領に就任したレオポルド・ガルティエリ将軍は82年6月には辞任に追い込まれました。元々、ハイパー・インフレで立ち行かなくなっていたアルゼンチン経済は一挙に奈落の底に突き落とされました。対外債務と外貨準備高などから考え、完成車の輸入が再開される見通しは全くないとの判断に至りました。この頃、アルゼンチンの新聞に「アルゼンチンは対外債務を払えるか?」と言う自虐的な記事が出たのを覚えています。要するに、何もないアルゼンチンに残されたのは、国土と人口の2倍居る牛だけだ。国土と牛を時価で売っても、とても追いつかない、と言った内容でした。

ガルティエリ将軍の私宅は我が家の並びにありました。それ程、高級なアパートではありませんでした。我がアパートとの違いは歩哨が立っていたことでしょう。

 

フォークランド諸島の位置関係はこの図の通りです。

 

大統領公邸はこの緑の区画全てで大きさは1Km X 300m 程度です。

 

一方、大統領官邸はダウンタウンにあり、Casa Rosada (ホワイトハウスではなく、バラ色の家)と呼ばれています。この辺りのビルの壁面は1976年のクーデターの名残で銃痕が多数ありました。

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