歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

桃木先生の編著を読んで その4

2009-03-21 22:56:05 | 日記
《桃木先生の編著を読んで その4》

第16章「18世紀の東南アジアと世界経済」
東南アジアの18世紀は従来「停滞」の時代と捉えられてきたが、近年では「展開」の側面が強調され始めた。すなわち18世紀に北西ヨーロッパでコーヒーや紅茶の喫飲する習慣の大衆化により東南アジアで増産され、またヨーロッパの貿易会社が中国茶葉の購入目的で東南アジアの産品との交換を促進し、物流が拡大された。そのため広域商業ネットワークが東南アジアで構築された。そして18世紀は、華人がそのコミュニティーを各地に発達させ、ヨーロッパ人は貿易・海運・プランテーション開発を進めて、植民地政策の基礎を築いた時代であった(148-149頁)。

そこで本章では、清朝が海外貿易を再開した1684年からシンガポールを中心とした貿易システムが発達する1830年代頃までを対象として東南アジアの貿易と政治のダイナミズムを、世界経済とのつながりに焦点を当てて概観する(148-149頁)。
18世紀の人口増加と経済的安定により大衆社会が発達した結果、中国市場で求められる東南アジア産品も、香料などの奢侈品から嗜好食品(ナマコ、フカヒレ、燕巣、胡椒)や米などの基本食糧に重心が移った。こうした需要の変化により、香料を中心とするヨーロッパ向け産品を独占していたオランダ東インド会社(VOC)の貿易システムは、17世紀末から行き詰まりを示し始めた。そして絹織物と磁器を輸出し、香料を輸入するバタヴィア向けのジャンク貿易(中国式帆船)が18世紀中葉以降衰退した。これらに代わり、ブギス人、イギリスのカントリートレーダー、華人による新たな広域商業ネットワークが発達した。すなわち、航海技術と戦闘能力に優れたブギス人は、強力な貿易/軍事集団となり、マレー半島などの貿易を活性化させ、東南アジア各地の貿易と政治体制に変動をもたらした。そして、イギリスのカントリートレーダーが、東南アジア貿易の重要なプレーヤーとなったのは、次のような歴史的背景があった。つまり、18世紀を通じて、北西ヨーロッパで喫茶の習慣が広がると、ヨーロッパの貿易会社は茶葉を求めて広東にやってきたが、新大陸の銀の流出を避けたいイギリスは中国で需要の強い産品を東南アジアで入手して、広東で茶と交換した。その際に東南アジア向けの商品はインド綿布、武器弾薬、ベンガル産アヘンであり、これらを扱ったのがイギリス東インド会社本体ではなく、カントリートレーダーであった。イギリスは、18世紀末から19世紀初めにかけて、マレー半島のペナンとシンガポールを得たことにより、アジア貿易に支配的地位を確立した。

島嶼部では華人商人やカントリートレーダーは海賊行為や奴隷貿易に依存していたスールーと取引し、ここで集めた真珠・燕巣・蜜蝋・ナマコを中国に運んだ。1760年代には、現在のシンガポール南方に位置するリアウ諸島が東南アジア大陸部と島嶼部を結ぶ貿易センターとして発展した。しかし1780年代になると、VOCとの抗争で荒廃し、マレー海峡一帯はブギス人などによる「海賊」と「密輸」が頻発した。こうした「海賊」と手を結んだスマトラ東岸のシアク王国が台頭したが、イギリスは海軍によって「海賊」を取り締まり、シアクを取引から排除し、オランダのスマトラ支配により、シアクは没落した。一方、大陸部では、アユタヤは18世紀に清との貿易関係を強め、宮廷官僚にも華人が進出したが、ビルマ軍による王朝の滅亡後も、潮州系華人の父を持つターク・シンが実権を掌握し、チャオプラヤ川下流に設立した都トンブリーは、在地華人商人による中国貿易の拠点として繁栄した。続く王朝ラタナコーシン朝も清朝との貿易を強化した。ベトナムは1770年代のタイソン反乱により、広南阮氏政権が倒れたが、阮氏の生き残り阮福暎はサイゴンに政権を確立し、華人を中心とする商業勢力の支援を受けて勢力を強め、タイソン勢力を破り、1802年にベトナム全域を支配した。一方、タウングー朝ビルマは、バゴー(ペグー)など沿岸部がカントリートレーダーの拠点となり、貿易が進められた。首都インワ(アヴァ)が沿岸部の経済活動に干渉すると、モン人と華人が反インワ勢力となり、1752年に王朝を滅亡させた。上ビルマ出身のアラウンパヤーがこの勢力を追放し、コンバウン朝を設立したが、この王朝は内陸に興ったため、対外貿易よりも地方支配システムの整備を重視した。ただ雲南――ビルマルートやヤンゴン港を中心とした貿易には積極的であった(152-154頁)。

18世紀には主として広東、福建、海南島を出身地とする華人の移民が東南アジアに進出したが、客家は優れた鉱山技術を持っていたので、プランテーションや鉱山労働に従事した。フロンティアのプランテーションや鉱山における華人社会の成立には、以前から都市部に形成されていた華人商人のコミュニティーが重要な役割を果たした。この移民社会は、商人が労働者を組織し、兄弟愛に基づく秘密結社としての性格をもつ公司(コンス)と呼ばれる組織を構成した。そして20世紀には反清ナショナリズムを財政的に支援するものもあった(155頁)。

第17章「近世から近代へ――近世後期の世界システム」
時代的には、1600―1840年代という近世から近代への移行期を扱い、主題的にはウォーラーステインが提唱した近代世界システムと近世海域アジア世界との関係を論(158頁)。
その近代世界システムが安定的に機能するためには、ヘゲモニー国家が必要であるが、17世紀のオランダが最初の近代的経済国家として商業的覇権を握った。その繁栄は、バルト海貿易・大西洋貿易・東インド貿易が結びついた海外通商網や海運業の隆盛、強大な海軍力などに支えられた流通、および為替手形発行、国際決済機構の整備にみられる国際金融といった両面での優位に依拠していた(159頁)。

このオランダに代わり、イギリスが財政=軍事国家(fiscal-military state)・重商主義帝国として、近代世界システムの「中核」地域で台頭してきた。例えば18世紀イギリスは、1780年までの100年間で陸海軍力が3倍に、国家歳出は15倍に膨張し、歳出の75-80%が軍事費と債務利払いに充てられる財政=軍事国家であった。その際に、ヨーロッパの金融センターであり、先行したヘゲモニー国家であったオランダの資金が流入し、イギリスを資金面から支えたという。同時期にイギリスは、大西洋貿易を拡大し、環大西洋経済圏を展開したが、これはイギリス東インド会社を中心とするアジア物産(ベンガルのキャラコ・モスリン、中国の茶)の輸入を通じた、対アジア貿易の拡大と結びついていた。このように、イギリスの旧植民地体制は、金融面でのオランダへの依存と、植民地貿易をイギリス船が独占する航海法によって支えられた保護貿易主義体制であった(160頁)。

18世紀のイギリス東インド会社は、本国の商業・財政革命を担う資本主義的な企業体であり、後の多国籍企業の原型とみなせる。ただその独占が不完全であったので、カントリートレーダー(インド在住のイギリス系商人)がアジア間交易に参入できたという(161頁)。

グローバルヒストリー研究(例えばフランク)は、ウォーラーステイン流の西洋中心史観に基づく世界システム論を批判した。すなわち18世紀まで世界経済の中心は、東アジアの中国を中核とするアジア世界にあり、ヨーロッパは新大陸の銀を利用して、中国を中心とした当時の世界経済に参加できたのだと主張した。いわばアジア中心の世界システム論を提示したのである(163頁)。

またアメリカのポメランツの研究によれば、1750年頃まで世界の中核地域(core regions)であった中国の長江流域、日本、西ヨーロッパの経済は、その発展の程度はほぼ同じで、「スミス的成長」(商業的農業とプロト工業に支えられた市場経済の発展)が見られた。これらの地域は、18世紀半ばまでに人口増加に対する土地の制約(マルサスの罠)問題に直面したが、西ヨーロッパだけは、石炭の利用と新大陸との貿易の拡張という2つの「偶然的要因」によりこの危機を克服して、「資源集約的・労働節約的」な工業化の径路を歩み、「スミス的成長」からの「大いなる逸脱」(the great divergence)に成功したのだという(164頁)。

この議論は、近世東アジアの比較経済史研究で注目されている「勤勉革命」(industrious revolution)論と重なる。つまり16-18世紀の東アジアのうちで、徳川日本や中国(ただし長江の周辺地域)は、土地の制約にもかかわらず、労働集約的技術などを通じて、生産量の増大と労働生産性の上昇が可能だったとし、これを東アジア型勤勉革命による発展径路と規定している。この日本発のグローバルヒストリー研究は今後の発展が期待されている。こうしたアジアから見た世界システム論の見直しなどにより、19世紀後半以降のアジア地域間貿易の形成・発展および世界経済全体の成長との関連を考えることが可能となった(165頁)。

第2篇各論
第18章「海陸の互市貿易と国家――宋元時代を中心として」
沿海部における対外貿易は、その貿易を管理する役所である市舶司が設置された。唐代、南方海上交易センターであった広州に、玄宗時代(在位712-756)の初期に初めてこの市舶司が登場する。最初のうちは宦官が任じられ、中央の関与が強かったようであるが、ただ広州は都の長安から遠く離れており、その統制は容易ではなく、現地の節度使が関与した。続く宋代は、香料薬品を中心とする南海貿易の最も盛大な時代であり、香料は宋政府の専売品となった。市舶司の置かれた泉州が南海貿易の中心となり、南宋末期にはアラブ系かペルシャ系の外来商人とみられる蒲寿庚が泉州の海外貿易を握り、1276年に彼が元に投降すると、元はすぐに泉州に市舶司を置いた。その後、杭州に分司の行泉府司を置き、大都――杭州――諸港を結ぶ都市システムは財政上の物流システムともなった。この交易支配のシステムを解明するためには、市舶司のみならず、行泉府司・行省などの官府を総合的に考察することが今後の課題であるという(170頁)。

第19章「港市社会論――長崎と広州」
海域アジアにおいて、人間・商品・貨幣、そして情報の流動を集中的にコントロールする装置として、港市(Port City)が特別の意味を有し、とりわけ長崎と広州という2つの港市を「港市社会論」として比較検討することは、アジア比較港市論の最初のステップ(ひとつの尺度)として有効性をもつものと考えて以下、論が展開される(173頁)。
鎖国・出島や唐人屋敷といった教科書的イメージで長崎を見ると、「誤解」が生じる場合があることをまず指摘する。従来の長崎研究の蓄積としては、貿易史研究やキリシタン研究があるが、新しい視点からの研究として港市としての長崎を捉えて、他の港市との比較を通じて、その性格や変遷を表現するといった海域史的視点による長崎研究を提唱する(174頁)。

長崎の場合、強制改宗を行い、「貿易」に特化され、居留地が成立し、港市空間が「雑居」から「分離」へと転換してゆく。分散していた遊女屋は丸山町・寄合町へ集め、遊女すらも都市空間の中に位置づけている。それに対して、広州の場合、西洋民間商人などは、澳門に滞留し、広州ファクトリー(商館)に一時滞在して貿易を行い、終ると澳門へ帰るというスタイルをとるので、都市機能の中に居留地としての広州は想定されておらず、遊女のような存在は水上居民として広州の外に位置している点で長崎とは異なる。また長崎における近年の考古学的発掘調査により、旧六町から出土した陶磁器のうち、95%以上が中国陶磁で占めることなどから、長崎が旧六町を中心として発展した港市であることが明らかにされつつあるという(176頁)。

 1757年、外国商船の来航を「広州」一港に制限することが乾隆帝によって決定され、「広東システム(Canton System)」とよばれる体制ができあがった。この港市空間は、広州以外にも、広州城外西の「珠江」、澳門をも含む広域の空間を利用した貿易体制であった。しかしこの空間の秩序には、天子の徳の「光被」と「中外一統」を表象した「朝貢の空間」としての広州、「中外の大防」と意識され、宣教師・外国商人が滞留する澳門、そして水上居民、「艇盗(海賊)」などが輻輳するアナーキーとしての「珠江」という明確な差異化が行われた。広州・「珠江」・澳門を1つの港市空間と考えるとき、先の1757年の「広州」一港集中の決定は、従来、フリント(James Flint)の寧波来航によってたまたま引き起こされたかのように理解されてきたが、実は清朝がこの広域港市空間を半世紀にわたってデザインしていく一連のプロセスの1トピックスであったと捉え直し、この空間をデザインするモメントとなったのは、清朝によるカトリック宣教師の排除運動であったとする。そして通常のイメージとは逆に、港市の空間のあり方としては長崎と「広東システム」との間に大きな相違を見出すことができる。また共通点としては、ともにキリスト教の排除に関連して形成された港市であり、長崎と広州はその排除における出口の役割を果たしたという点があげられる。ただ時代的に見た場合、その排除が1世紀ほど清朝が遅れるが、日本の禁教や長崎の港市空間などが、中国へ与えた具体的な影響は今後の課題とする(179頁)。

第20章「貿易陶磁」
貿易陶磁は、海域アジアの歴史を物語る考古資料として脚光を浴びている。例えば、1323年直後に韓国の新安沖で中国から日本へ向かう途中で沈没した船は、18000点の陶磁器の中で1万点強が竜泉窯青磁であり、陶磁器以外にコショウなどの東南アジア産品を積んでいた。12世紀に浙江省南部で勃興したこの竜泉窯青磁は、16世紀まで大規模に輸出され、マクロな海上交流が成立し、エジプトのフスタート出土の中国陶磁総数の75%を占めた(183-184頁)。

青磁や白磁が宋代に最高点にまで達したのに対して、白磁に鮮やかな青で自由に絵を描き透明釉をかけた青花(染付)は、至正様式青花に代表されるように元代に完成した。14世紀前半に江西省景徳鎮窯に出現したこの青花は、その原料のコバルトはイラン産であり、その他美意識や形態の点から見ても、モンゴル帝国の流れの中でしか、誕生しえなかった。その出土は、トルコのトプカプ宮殿などの西アジアで濃厚な分布があり、またジャワや琉球でも元青花の破片が発見されるのも、元と西アジアとの交流への関与で説明づけられるという(184-185頁)。

明代に入っても、景徳鎮の官窯生産の中心は青花であったが、明朝は消極的貿易政策をとったので、15世紀末までその輸出は激減した。この好機に、チューダウ窯など紅河(ホン川)デルタで生産されたベトナム青花などの東南アジア陶磁が大きな役割を果たした。このベトナム青花の頂点は、イスタンブールのトプカプ宮殿にある1450年の黎朝年号を記した瓶である。また15世紀後半のフィリピンのパンダナン島沖沈没船の積荷には、元青花と共にベトナム青花が見られ、特にベトナム中部のチャンパ王国のビンディン地方で生産されたチャンパ青磁がこの沈没船の最も多い積荷であった(185-186頁)。

第21章「海産物交易――「竜涎香」をめぐって」
本章は、海域アジア史の視点から、焦点を、麝香と並ぶ「香りの王者」といわれた竜涎香(竜が飛翔するとき涎を吐き出し、そのしずくが海面に芳香が漂うイメージに由来。Ambergris「灰色の琥珀」。その正体はマッコウクジラの腸内にできる結石の一種といわれる)に絞り、交易状況を述べたものである(191頁)。

13世紀のマルコ・ポーロは、インド洋のソコトラ島の竜涎香を、14世紀のイブン・バットゥータ、15世紀鄭和に随行したイスラム教徒の馬歓は、モルディブ産のそれについて記述している。また16世紀ポルトガル人がアジア交易圏に参入すると、彼らがマカオに入居するための「護身符」ともいうべき重要な交易品が竜涎香であった。マカオのポルトガル貿易が発展した背景には、中国人のこれに対する需要が存在したからという。さらに日本へも輸出した。秘薬、長寿薬として重宝され、その官能的な香りに魅了された。その需要は王権・貴族層だけでなく、宗教的な世界とも関わった。また17世紀イギリス東インド会社の平戸商館長リチャード・コックスの日記に表された琉球産の竜涎香の記述を詳しく紹介している(192-195頁)。 

また、1628年、琉球の王府が公布した「掟」には、「くちら(鯨)のふん(糞)、白ふん一斤ニ付米五石、黒ふん一斤ニ付米五斗ツゝさん用(算用)にて国元(薩摩)ニ而相渡申事」(『八重山島年来記』)とあり、近世では鯨の糞と称された竜涎香と、米との換算レートを公示してあり、「鯨糞」1斤につき米5石、そして白い竜涎香は黒より10倍も高い価値をもったことが知られる。このように竜涎香は高額で取引されたので自由売買が禁止され、密売を厳しく規制し、法令も発布された。例えば、薩摩潘では、「鯨糞」を発見した者には売り上げ、代銀のうち長崎で手数料を払い代価の3分の1を与えるので、隠さずに申し出るよう命じている。また海外から輸入品が多く集まる長崎は竜涎香の密売市場であり、『犯科帳』によれば、1779年には「竜涎香二百匁」の密売事件で、唐人に密売した日本人の稽古通事は死刑に処せられた(198頁)。

ところでクジラは竜涎香と深い関わりがあるが、その捕鯨業は、17世紀の日本にとって、「近世随一のビッグビジネス」(西鶴の『日本永代蔵』に「一つの浦で一頭の鯨を捕れば、七浦が賑わう」といわれたほど、捕鯨の経済的な波及効果が大きかった)ともいわれ、ヨーロッパのそれとは、捕鯨方法も、鯨の利用も相異なっていたらしい。すなわち、ヨーロッパは鯨の生息海域まで出かけてゆき、鯨油と鯨ヒゲを採取する目的であったのに対し、日本は回遊する鯨を待ち構えて捕り、捨てるところがないほど利用した。クジラの腹から取り出した竜涎香は黒く柔らかいが、体外に排出され、海上浮遊中に蠟状に固まり、灰色や灰白色となり、海辺の人々は、この漂着した竜涎香を採取・売買した(197頁)。

琉球海域に漂着した竜涎香は一般に琉球王府のもとに集められ、薩摩潘に送るよう命じられた。しかしすべて独占化されたわけではなく、民衆にも売却利益の一部が還元されたことは、竜糞(竜涎香)を拾って金持ちになったという伝承・民話が沖縄に残っていることから推測できる。この点では沿海住民にとって漂着してきた竜涎香は「海からの贈り物」であったと真栄平氏はいう(199頁)。


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