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《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その3

2009-06-25 19:24:15 | 日記
《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その3

アメリカから帰国した井上にとって、研究テーマとして、2つの焦点が絞り込めてきたらしい。
①「令集解の研究」に象徴される律令研究
1958年末にインドから帰国後、1959年から令集解の注釈研究を思い立った。そして1962年アメリカから帰国後、大学院で「令集解の研究」という演習を17年間続け、1978年3月に停年退官したことを回顧している。停年の少し前、1976年に共同製作された岩波思想体系の『律令』は、こうした律令研究の成果であった。ここで井上は「日本律令の成立とその注釈書」という解説を寄稿している。

②インドやアメリカの滞在など国外の空気を吸ったことにより、日本古代史を東アジアという広い視野から研究すること
井上が帰国した1962年には、東アジアと古代日本をテーマとした2つの論文が学界に問われた。石母田正「日本古代における国際的意識について」(『思想』454号)と、西嶋定生「6―8世紀の東アジア」(『岩波講座 日本歴史 古代2』)がそれである。両論文は、中国を宗主国、古代朝鮮と日本とを朝貢国とする東アジアの国際的政治構造の実在を想定した。そしてその枠組の中で日本古代の王権や国家が推移していく経緯を把握しようとしたのである。この問題提起をうけて、東アジアの会というサークルができ、井上も参加した。

こうして井上は、「令集解の研究」の演習と、東アジアの会という2つの研究の場を通じて、「7世紀を軸とする古代国家の形成過程において、固有法的世界がどのようにして、中国大陸の律令法をとりいれていったか」というテーマが熟してきたという。つまりここで、“固有法から律令法へ”という井上の研究にとって重要な観点が打ち出されることになった。

1963年に書かれた2つの論文「冠位十二階とその史的意義」と「日本における仏教統制機関の確立過程」(1965年の論文集に収録)は、その最初のトレンチだった。これらは、7世紀初頭の推古朝に確認される国制の歴史が、中葉の大化改新を経て、末期の天武・持統期にいたる1世紀間に、固有法から律令法へと、どのように展開したのかを辿っている。

前者は、選叙令、考課令に考察を進めた結果、中国の官品制は官を九品に、人もまた門地・才能によって九品にわかち、両者を相い照らして人材登用をはかったが、推古朝の冠位十二階は、これとは系統を異にし、人そのものを門地を主として階等づける古代朝鮮三国(ここでは百済)の官位制の影響を受けたことを明らかにした。日本の冠位制は、大化を転機として唐の官品制の影響を受けはするが、大宝・養老令の位階制においても、固有法が深く内在し、本質を変えることはなかったという。

また後者は、僧尼令にみえる仏教統制機構を分析した結果、次の2点の特質を解明した。
①推古朝に定まった機関は、ⓐ僧正・僧都制(僧侶の半自治的機関)とⓑ法頭制(寺院財産の国家的管理機関)の二元的であった。ⓐは百済を介して中国南朝に学んだものであり、ⓑは北斉にうまれた鴻臚寺所管の寺院財産の管理機関、典寺曹をおそらく隋から学んだものとする。そして大化改新の時点では、ⓐをやめて、唐の十大徳をまねた十師制にかえたが、ⓑの法頭制は存続し、機関が二元制であることに変わりはなかった。

②大宝・養老令では、全く唐制にきりかえて、俗官が監督することになった。つまり中央の僧尼・寺院は、治部省玄蕃寮、地方のそれは国司のもとにおく。しかし細かくみると、中央は玄蕃寮の下の、僧正・僧都・律師からなる僧綱の所管であり、地方も、国師とよぶ僧官が担当している。このように、日本律令法の深部にみられる僧尼の自治を尊重する僧伽の精神は、唐以前、特に南朝以来の伝統と井上はみる。

また、7世紀の国制の展開で、“固有法から律令法へ”という観点でみていくと、興味深い問題があるという。7世紀は女帝(推古、皇極、斉明、持統)や皇太子(聖徳太子、中大兄皇子[なかのおおえのみこ])が活躍した時代である。その背後には、古代の皇位継承に固有法上の2つの要素があるとみる。つまり①兄弟相続、②大兄(おおえ)制である。大兄とは、天皇の長子で、兄弟相続とは原則的に異なる長子相続的観念である。天皇のあとは兄弟がつぎ、その世代が終わると天皇の大兄に皇統はかえっていくという。①、②の2要素をあわせた固有法上の継承法であった。

このような皇位継承の慣習であると、天皇の兄弟、その嫡妻ないし庶妻の大兄などが皇位を競いあうことになり、天皇が生前に皇嗣(ひつぎのみこ)を選定する必要性から、皇太子制が誕生したのだという。固有法上の皇太子には、6世紀以後、天皇の政治補佐の役割が期待されたが、推古女帝の皇太子である厩戸皇子や、大化改新を断行した中大兄皇子は、この法制から理解できる。

しかし律令法が継承されると、これらの皇位継承法と皇太子制が変容する。近江令をつくった天智は、一人で国政を総攬する太政大臣を設置し、皇太子はあとつぎ(皇嗣)とし、中国的な嫡子相続を皇位継承の原則とした。そして皇太弟大海人皇子(おおあまのみこ)を嫌って、新置した太政大臣に寵愛の大友皇子をたてた結果、天智の崩御後、壬申の乱が起こったのだという。

天武は、高市皇子(たけちのみこ)を太政大臣にし、寵愛する草壁皇子を皇太子に選び、その嫡系(→文武→聖武)に皇位を伝えようとした。こうして8世紀半ばまでには、固有の皇位継承法も皇太子制も終ったのだと理解する。

古代の女帝についても、“固有法から律令法へ”という観点からみて、井上は3つの時期区分を提唱する。
① シャーマン的存在~倭人伝の卑弥呼
② 前帝または先帝の皇后が即位~推古(敏達皇后)、皇極=斉明(舒明皇后)、倭姫(天智皇后)、持統(天武皇后)
これらの女帝が即位したのは、皇位継承の争いがおこるのを防ぐためであり、①シャーマンとみるのは誤りである。
③ 律令法的女帝~元明、元正、孝謙=称徳
元明、元正は、文武の嫡子の聖武がまだ年が幼いので、長ずるまで、天皇の位についた。また孝謙は聖武の唯一の嫡系であったので、女子であるのに即位した。③には、律令法的な嫡系相続の観念が貫かれているとみる。

そして井上は、固有法から律令法へ”という観点から、統治機構の変遷についても具体的に跡づけた。つまり大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)が政治をした固有法の統治機構から、近江令、浄御原令を経て、唐の三省制を学んで、太政官―八省という大宝・養老令にみられる律令的統治形態に変わってゆく過程を探究したのである(「固有法と律令制―太政官制の成立―」[1965年]、「太政官成立過程における唐制と固有法との交渉」[1967年])。

天智朝にできた近江令の政治機構については、次のように井上は考えた。太政官は、太政大臣、左右大臣、御史大夫からなる一種の合議体である。太政大臣は皇太子執政を制度化したもの、左右大臣は大臣・大連制を唐の尚書省の左右僕射に模して左右にわかったもの、御史大夫は大臣・大連を助けて国事を議してきた大夫(だいふ)を中国風にあらわしたものである。また大弁官は、太政官と六官の間にあるもので、唐の尚書省内に事務局にあたる。その大弁官のもとに唐の尚書省の六部を模して、六官を置いた。
尚書省の六部→近江令の六官(→浄御原令の八省)の具体的な対応関係は次のようになる。
① 吏部→法官(→式部省)
② 礼部→理官(→治部省)
③ 工部→大蔵(→大蔵省)
④ 兵部→兵政官(→兵部省)
⑤ 刑部→刑官(→刑部省)
⑥ 戸部→民官(民部省)
といった具合いである(ただし法官は百済の制が加味され、大蔵は固有法が根強いという)
このように近江令は、唐の中央行政機関である尚書省を全面的に学んで大きな行政機構を作ろうとした。

そして持統朝にできた浄御原令では、尚書系の太政官に、唐の門下省の系統も加味し充実させた。つまり、近江令の御史大夫は、国政参議官にすぎなかったが、壬申の乱の直後、納言と改め、浄御原令では、その納言を、大(中)納言と少納言とした。大(中)納言の職掌は、①国政参議官、②侍奉官(天皇に近侍してその意志を下にくだし、大臣の意志を天皇に伝える)である。少納言は、大(中)納言の②の役割を補佐した。大(中)納言の役割は、唐の門下省の侍中、少納言のそれは、その下の給事中に相当した。付言すれば、唐の門下省は、門閥貴族の意志を代表して皇帝の詔勅と下からの上奏をチェックする機関であった。門下省の侍中は納言とよばれたこともあるから、日本の納言も、その官名にならったものである。

また、浄御原令では、近江令の六官に、中務(なかつかさ)・宮内の2つを加えて八省とした。その中務省は、詔勅の起草機関である唐の中書省を模したものである。この機関を新設した理由は、古来、口頭で伝えられた天皇の命令が律令制により、詔勅という文書行政の形態に変わったからだという。天皇の家政機関については、固有法や近江令では、国政機関の外に置かれていたが、浄御原令では宮内省として国家機関に包摂された。
このようにして、大宝令・養老令の統治機構の骨組みは、浄御原令で定まったと井上は見ている。

律令研究のうちで、律に関した井上の研究も、1960年代に存在する。律令の律は刑法であるが、古代史家は令に関してはよく論じるが、この律を扱うことは少ない。もっとも日本の律は、令とちがって、唐律の直訳に近い。しかもどれだけ実施されたか疑わしいところもある。

しかし日本の古代国家の形成という問題をとりあげる際に、国家の刑罰権の成立と様態の考察も欠かせない。そこで井上は、帰国後、「古典における罪と制裁」(1964年)を書いた。ここでは、律の継受の前提としての固有法的な刑罰と裁判を扱った。法制史家は、“神法から俗法へ”という観念のもとに、7世紀以前の国制はまだ神法の時代と見る。つまり7世紀以前の国制はまだ神意によって裁判をおこない、制裁も宗教的贖罪であるような時代として捉えていた。

ここに井上は疑問を投じた。神法の時代の設定についての可否は保留するとしても、6世紀には、国家的刑罰が成立しており、神法的な裁判や宗教的贖罪は刑罰に随伴するものにすぎないと井上はする。6世紀中葉に原型ができていたと考えられる国家神話の中に公的団体に対する犯罪と刑罰が見られるという。例えば、記紀神話の天岩戸の段には、スサノヲが高天原で犯した犯罪内容と制裁が描かれている。つまり、犯罪内容は、公共的な灌漑施設に対する妨害等であり、これらは公共団体の利益損害である。そして刑罰は、祓物(はらえつもの)の貢進と、神夜良比(かむやらひ)、すなわち追放である。前者は附加刑であり、後者は俗刑とみなすことができる。
一般的に神判的な裁判とみなされる盟神探湯(くがたち)は、5世紀中葉に在位した允恭朝の氏姓の裁判にも、6世紀中葉の継体朝の記載にも、また7世紀初頭をえがいた隋書倭国伝にもみえる。井上は、この盟神探湯を裁判そのものではなく、世俗的裁判にともなう一種の証拠法と推測する。

さて、この論文の続篇として「隋書倭国伝と古代刑罰」(1976年)を発表した。隋書倭国伝にある「其俗殺人、強盗及姦皆死。盗者計贓酬物、無財者没身為奴。自余軽重、或流或杖」という刑罰の記載をもとにして、“固有法から律令法へ”という観点から、推古朝ごろの刑罰体系の位相を考えてみたものである。石母田正は、この一節により中国律の五刑(死、流、徒[ず]、杖、笞)が推古朝には知られていたとするが、井上もこの石母田説に賛成する。この記述に見えない労役刑の徒は、天武ごろに取り入れられたと解している。

ところで、中国法制史の仁井田陞は「東アジア古刑法の発達と賠償制」という論文で、中国周辺諸民族が、中国律を継受していく経緯を大観した。中国では、国家的刑罰を定めた刑法典は周代末期には成立し、そこでは血讐――賠償制は、ほとんどその影をとどめていない。しかし公権力が充分確立されていない中国周辺諸民族の習俗の中には、その血讐――賠償制が色濃く存在していると説く。

この観点から、先の倭国伝をみると、「盗者計贓酬物」とあり、盗犯の場合は、贓(盗んだもの)の量に随って被害者に物をあがなうという形で賠償制の習俗が記されており、またこの習俗は、履中紀の類例と対応している。したがって、日本でも6世紀から7世紀前半にかけて賠償制が残っていたことがわかる。しかし大化2年3月の詔では、この習俗を禁止していることから、7世紀中葉には、中国の律の定める国家的刑罰が根づき、賠償制が後退していったことが確認できるという。

また倭国伝に「無財者没身為奴」(犯人が贓をかえす財がない時、身を没して奴とする)とあるのは、債権者が債務を返済できないとき、として労役を提供されるという債務奴隷制の法的慣習をさす。これは浄御原令時代の持統紀の詔にみえる「負債に因りて強いて財に充てられる」という習俗と一致し、この詔により、唐律を全面的に摂取して、債務奴隷の旧習を禁じた。倭国伝にみえる法的習俗は、この持統紀の詔によって禁止されるにいたる。律令では役身折酬(えきしんせっしゅう)(負債を返し得ない者が自由民の身柄のまま、労役に従事すること)は認められたが、自由民が債務によって身分におとされることは認めないという様に変わっていった。

このように隋書倭国伝の記述から、7世紀前半の倭国は、中国律の五刑をもう継受していたが、賠償制や債務奴隷の習俗は色濃く残っていたことが知られる。しかし大化以後、特に浄御原令時代になると、中国律の全面的施行によって禁止されるにいたった(ただし、これらの旧習は後に復活するという)。

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