歴史だより

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《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その4

2009-06-25 19:31:02 | 日記
《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その4


井上にとって、1960年代と1970年代は、試練の時代であった。
井上は、評議員として、大学紛争と対決し、その善後処置をとった。大学がマンモス化し、その機能が麻痺していることが大学紛争の改革問題の一つであったのである。
また学問的にも、大化改新や古代日朝関係について挑戦をうけ、応戦し反駁した。
例えば、大化改新の問題については、こうである。井上は、「大化改新詔の信憑性」(1951年)という発表において、詔の信憑性に疑問をかかげた。ただ、この時は、詔がフィクションで造作されたものであるとも、原詔を後に修飾したものであるとも井上は明言しなかった。その後「大化改新の詔の研究」(1964年)では、原詔に対して、現行法(大宝令)による修飾をほどこしたのが書紀の詔文であるとした。

これに対して、原秀三郎と門脇禎二から大化改新否定論が提起されたのである。原秀三郎「大化改新論批判序説」(1966年)、門脇禎二「大化改新は存在したのか」(1967年)がそれである。両氏は、クーデターの事実は否定しないが、詔にあるような政治改革は、日本書紀の編纂者が造作したとする。その理由は、藤原不比等におもねて、その父の中臣鎌足を律令国家の創始者にみせかけるためだという。
しかし、その後、1976年に木簡が発見され、大化年間の政治改革がフィクションでなかった有力な証拠となったと井上は見ている。

次に古代日朝関係については、こうである。井上の古代朝鮮への関心は、1961年~1962年のハーヴァード大学への赴任時代に端を発する。つまり、日本古代史を、中国・朝鮮・日本といった東アジア全体の動きの中で探究する大きな視野を痛感したのである。そこで朝鮮の三国史記の職官志を読んだり、朝鮮語の授業をうけたりしたという。
そして帰国後、7世紀の国制研究を進め、位階制や仏教統制機関の発達において、朝鮮の国制の影響が強かったことを井上は論じた。また、井上は通説『日本国家の起源』(1960年)において、大和政権は広開土王碑にみるように4世紀末には、朝鮮南部に進出し、武の上表文もこの地に版図が及んでいたと記した。

これに対して、金錫亨は『古代朝日関係史―大和政権と任那』(1966年/1969年翻訳)が出版され、井上の通説を批判し、“分国論”を展開した。それは百済、任那、新羅の移住者が西日本の各地に朝鮮の“分国”をつくったという説である。井上は、この“分国論”を実証的手続きが全く無謀であると、反批判した。

もう1つの朝鮮古代史家の挑戦として、広開土王碑に関する批判があった。この碑は、5世紀初めに亡くなった高句麗の大王の功績をたたえ、倭が392年以降、百済、新羅を侵したのに対して、大王が反撃したことを伝えたものである。
在日朝鮮人の考古学者、李進熙は、碑文改竄説を唱えた。つまり、碑の字面に石灰が施してある事実に着目し、碑文の文面には明治時代の軍部が朝鮮支配の史的根拠をつくるために改竄したもので、信用できないとした。

これに対して井上は、碑文の表面に石灰を塗布したのは、腐蝕のはげしい石面をきれいに拓出するためであり、軍部の作為的作業でなかったこと、また李が文字を書きかえたとする文字は総計1802字の10字にも満たず、その他にも倭の進攻に関わる記載の分量はかなりあると、井上は反批判した(その後、今日では、中国で墨本が発見されたことにより、日本陸軍の改竄説が成立せず、当時、倭が朝鮮半島に勢力を伸ばしていたことが証明された)。

このように、1960年代と70年代は、井上にとって、学問上でも、試練の時代であった。
また1968年に勃発した東大紛争から数年の間に、井上の私生活の上でも、大きな出来事が起こっている。そのうちの1つが、心筋梗塞のため、心臓の大手術をうけたことである。

心臓発作のきっかけは、冒頭にも記した岩波書店の日本思想体系『律令』の編集であったという。思想体系の編集は、1968年から、吉川幸次郎、丸山眞男、家永三郎と井上が編集委員の中心となって進められてきた。井上が日本古代の政治思想史の1つとして『律令』を加えることを主張し、青木和夫、吉田孝などとともに、1969年5月から進めていた。この『律令』は、1976年12月に刊行されるにいたるのだが、その途中の1976年2月の編集会議の直後に、井上は心臓発作に倒れてしまう。夕食後、急に寒い街路に出たのが直接のきっかけとなった。
その真の原因について、井上は大学運営面で東大紛争に対処するとともに、文学部長という要職にあったこと、また学問上では、大化改新否定論や古代日朝関係の論争、そして娘の家庭生活上の悩みなど、“ストレス”が積み重なったためと述べている。

以上のように、井上は、戦前から戦後への激動期に生きた歴史学者であった。
そのような人物の自伝を読むことは、“生きた現代史”を学ぶに等しいことがわかる。
とりわけ、井上のようなリベラルな価値観のもとに人生を送った学者が叙述した著作には学ぶべき点が多々ある。

出自、生い立ちからして、あの明治の外交史では必ず登場する井上馨を祖父にもち、交流した人物も、当時の超一流の学者ばかりである。
師と仰いだ坂本太郎、和辻哲郎をはじめ、駐日大使であったライシャワー、丸山眞男、石母田正など興味深い逸話に満ちている。
とりわけ、『風土』や『古寺巡礼』といった名著で知られる和辻が寡黙な人柄であり、その文章から受けるイメージと異なるのは、意外であった。恩師として身近にいた井上だからこそ知りえたことである。
こうした多彩な人間模様を描き出し、井上の人生を織り上げて完成したこの自叙伝は、内容的に充実している。そして、われわれ学問、とりわけ歴史学を志す者にとって、知的刺激を大いに満足させてくれるという意味において、この自叙伝は、成功であったといえよう。

最後にお断りしておきたいことは、私は日本史を専門としたことのない門外漢であるので、井上光貞の研究業績が現在の研究史整理において、いかなる位置づけになるのかを、正確に論じることはできない。記して、自らの課題とする。本書の内容をできるだけ忠実に紹介することを心がけたにすぎない。後学のアジア史研究者に、何らかの刺激と指針になれば、筆者の目的は達成されたことになる。

本書の初版本が出版されてから、随分と時が既に過ぎているが、日本古代史の一里塚を築いた一流の歴史学者が辿った軌跡を知っておくことは、歴史を志す者に、様々な示唆を与え、有意義なことと考え、多少詳細に内容を紹介した次第である。




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