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ジョージィのおとなりさんたち

【個人史】「人生って、とっても楽しいもの」
そんな風に感じている今日この頃。Blogでメモっておきたい。

聖書から見る古代(11) - 執行権限と責任

2008年07月16日 11時32分40秒 | Weblog
[個人史]: 日記 思想・信条・(宗教 聖書) 終末観
※ 【非学術的】 天地創造 罪と罰 契約の民

ユダの記録(旧約聖書)には、 将来 イスラエルの民を救いに導く 救世主 の降誕が預言されているが、 ユダにとっては いまだに成就していない預言だ。

<ピラト>
新約聖書にある イエスキリストの時代は ローマに支配されており、 たとえユダヤ人であっても 互いが ”罪の宣告や処刑を決定する権限” が無かった。

そのような中、
イエスは ユダヤ人から訴えられ 当時 総督であった ローマ人ピラトの前に突き出された。
ピラトに ”裁判と処刑に関する権限” が与えられていたからである。

<”イエスを架けよ!!”>
神を畏(おそ)れたピラトは、 ユダヤ人たちに  「(イエスを)許してやれ」 と、繰り返し勧めるが、 悪事(意)の中にあるユダヤ人は

「その人(イエス)の流す ”血の責任” は我らが負う」 と、云って 聞かず、 ついには ピラトも 処刑判決を言い渡すしかなかった。

<”処刑” の責任>
イエスの処刑宣告の前に ピラトは手を清め、「イエスが処刑される責任は ”自分には無い”」 と宣言したことは 興味深い。

自分(ピラト)は 最高権限者であって、 その故に、 決定と執行に関する全ての責任が 自分にあること。 また、 生命を奪うことの意味を十二分に理解していたからである。

そして、
ピラトが受けるべき責任を 「我ら(ユダヤ人)が負う」 と云ったイスラエルは まもなく 国を追われ 流浪の民 となった。

(続)

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