
図書館に行った時、返却本スペースに偶然この本があって、面白そうな気がして借りて来ました。
この絵は知っていても俵屋宗達については全然知らない状態でした。
ただ俵屋宗達というよりは、天正遣欧少年使節(原マルティノ、中浦ジュリアン、伊東マンショ、千々石ミゲル)にも半分くらい重きを置いて書かれている本でした。
壮大なファンタジー(実際には多分あり得ない創作なんだろうけれど)でした。
私は面白かったですが、歴史に詳しい方だと、このありえなさから、どうなんだろう・・という気持ちが湧いて来てしまう作品だったかも。
天正遣欧少年使節のメンバーについても詳しく知らなかったのですが、特にマルティノは何ヵ国語も喋れたり、短期間にそれらを習得出来たり、とても優秀でした。
彼と宗達が特に親しくなるストーリーは微笑ましかったです。
そもそも、ギリシャ物語等からヨーロッパでも風神雷神(ユピテル・アイオロス)という神様がいて、それを描いた絵があった、というのにビックリ。
★以下ネタバレ★
これらを関連させるアイディアが浮かんだのかしら。そもそも俵屋宗達には謎が多く、天正遣欧少年使節がイタリアに滞在していて(一緒に旅に出たかも?という)、当時ミラノにはカラヴァッジオがいたから偶然出会っていたかも?というのを合体させたのですね。
カラヴァッジオのことは知っていたし、上巻の早い段階で発見された絵がカラヴァッジオ風の絵だとは語られていたけれど。まさか一晩だけだけど、ダヴィンチの有名な絵のある処で偶然出会い友達になり、彼の描いたユピテル~の絵をもらう事になるとは。
その絵が日本に持ち帰られた後マルティノと共にマカオに渡り、後々Xという男に持ち帰られ・・・という展開に・・・。
私は図書館で借りた本のため、帯がついてなかったので、その秘密(カラヴァッジオと宗達がつながる)を知らずに読めたけど、ネタバレを帯に書いて販売するのは辞めた方が良いのになあー。
彼らがイタリアに行った後は、ダヴィンチとかミケランジェロとか、各地有名な人物たちが登場してきます。
こういう知識を持った状態で、フィレンツェとかミラノとかをもう一度観光したかったなあ。以上
それと、信長が謙信に贈った洛中洛外図は今も山形にあるそうで、その絵が非常に価値が高くて国宝で・・っていうのは知っていたけど、なぜその絵がそんなに凄い作品なのか?の理由も今回解りました。当時は写真という技術がなかったから、こういう絵でその土地の様子や暮らしぶりが一目でわかるという意味でも貴重な情報を知れる物だったんですね。
この作品って、長期で新聞に掲載されいた小説だったそうで、そのため、説明的な部分が何度も登場したりするのはしょうがないのでしょうけれど、再編する時にカットするとか出来たら、更に良かったのになー。
以下、天正遣欧少年使節のメンバーが帰国後どういう人生を送ったのか?
前半に悲しい末路を触れられていたので知ってはいたものの、読書後にもうちょっと詳しく知りたくてウィキで調べてしまいました。幼少時代のまっすぐな彼らと華々しい南欧での歓迎ぶりを読んだ後だととても物悲しいです・・・。
1590年、日本に戻ってきたマルティノらは翌年、聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、みなそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。1593年7月25日イエズス会に入会した。
マルティノは1601年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている)
1614年、江戸幕府によるキリシタン追放令を受けて11月7日マカオにむかって出発。マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行った。
1629年10月23日に死去。遺骸はマカオの大聖堂の地下に生涯の師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。
ジュリアン
約20年間にわたりキリシタン禁教・弾圧下で潜伏して布教活動をしていたが、1632年ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られて拷問により棄教を迫られたが、かたくなに拒絶した。そして翌1633年穴吊るしの刑に処せられた。穴吊るしの刑では全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずにもがき苦しむという惨刑であった
クリストヴァン・フェレイラ(この方って、確か遠藤周作さんの「沈黙」のフェレイラさんですよね?)が棄教し、ほかの受刑者は棄教せずにすべて殉教した。最初に死亡したのは中浦ジュリアンで、穴吊るしにされて4日目の10月21日(寛永10年9月19日)であった。65歳没
インドのゴアに残ったヴァリニャーノはその後どうなったのか?
何度も日本に来ていたんですね。
1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。この時は1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。
1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。
1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されたが、その後天主堂の焼失・荒廃により地下聖堂ごと所在不明となった。しかし1990年から1995年の発掘により発見され、現在は博物館として観光用に整備されている。
ちなみに俵屋宗達は帰国後、成功して恵まれた人生を送られた模様。
風神雷神 Juppiter,Aeolus(上・下) 原田マハ 2019/10/29
あと、そもそもこの有名な絵って、俵谷宗達だけじゃなく他の有名画家さんも、そっくりなのを描いていたと昨日初めて知りましたよー。こんなの、良いのかな?
原田マハ
ハグとナガラ
リボルバー「たゆたえども沈まず」感想
この絵は知っていても俵屋宗達については全然知らない状態でした。
ただ俵屋宗達というよりは、天正遣欧少年使節(原マルティノ、中浦ジュリアン、伊東マンショ、千々石ミゲル)にも半分くらい重きを置いて書かれている本でした。
壮大なファンタジー(実際には多分あり得ない創作なんだろうけれど)でした。
私は面白かったですが、歴史に詳しい方だと、このありえなさから、どうなんだろう・・という気持ちが湧いて来てしまう作品だったかも。
天正遣欧少年使節のメンバーについても詳しく知らなかったのですが、特にマルティノは何ヵ国語も喋れたり、短期間にそれらを習得出来たり、とても優秀でした。
彼と宗達が特に親しくなるストーリーは微笑ましかったです。
そもそも、ギリシャ物語等からヨーロッパでも風神雷神(ユピテル・アイオロス)という神様がいて、それを描いた絵があった、というのにビックリ。
★以下ネタバレ★
これらを関連させるアイディアが浮かんだのかしら。そもそも俵屋宗達には謎が多く、天正遣欧少年使節がイタリアに滞在していて(一緒に旅に出たかも?という)、当時ミラノにはカラヴァッジオがいたから偶然出会っていたかも?というのを合体させたのですね。
カラヴァッジオのことは知っていたし、上巻の早い段階で発見された絵がカラヴァッジオ風の絵だとは語られていたけれど。まさか一晩だけだけど、ダヴィンチの有名な絵のある処で偶然出会い友達になり、彼の描いたユピテル~の絵をもらう事になるとは。
その絵が日本に持ち帰られた後マルティノと共にマカオに渡り、後々Xという男に持ち帰られ・・・という展開に・・・。
私は図書館で借りた本のため、帯がついてなかったので、その秘密(カラヴァッジオと宗達がつながる)を知らずに読めたけど、ネタバレを帯に書いて販売するのは辞めた方が良いのになあー。
彼らがイタリアに行った後は、ダヴィンチとかミケランジェロとか、各地有名な人物たちが登場してきます。
こういう知識を持った状態で、フィレンツェとかミラノとかをもう一度観光したかったなあ。以上
それと、信長が謙信に贈った洛中洛外図は今も山形にあるそうで、その絵が非常に価値が高くて国宝で・・っていうのは知っていたけど、なぜその絵がそんなに凄い作品なのか?の理由も今回解りました。当時は写真という技術がなかったから、こういう絵でその土地の様子や暮らしぶりが一目でわかるという意味でも貴重な情報を知れる物だったんですね。
この作品って、長期で新聞に掲載されいた小説だったそうで、そのため、説明的な部分が何度も登場したりするのはしょうがないのでしょうけれど、再編する時にカットするとか出来たら、更に良かったのになー。
以下、天正遣欧少年使節のメンバーが帰国後どういう人生を送ったのか?
前半に悲しい末路を触れられていたので知ってはいたものの、読書後にもうちょっと詳しく知りたくてウィキで調べてしまいました。幼少時代のまっすぐな彼らと華々しい南欧での歓迎ぶりを読んだ後だととても物悲しいです・・・。
1590年、日本に戻ってきたマルティノらは翌年、聚楽第で豊臣秀吉と謁見した。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めたが、みなそれを断った。その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けた。1593年7月25日イエズス会に入会した。
マルティノは1601年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移った(この時点で千々石ミゲルは退会。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている)
1614年、江戸幕府によるキリシタン追放令を受けて11月7日マカオにむかって出発。マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行った。
1629年10月23日に死去。遺骸はマカオの大聖堂の地下に生涯の師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られた。
ジュリアン
約20年間にわたりキリシタン禁教・弾圧下で潜伏して布教活動をしていたが、1632年ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られて拷問により棄教を迫られたが、かたくなに拒絶した。そして翌1633年穴吊るしの刑に処せられた。穴吊るしの刑では全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずにもがき苦しむという惨刑であった
クリストヴァン・フェレイラ(この方って、確か遠藤周作さんの「沈黙」のフェレイラさんですよね?)が棄教し、ほかの受刑者は棄教せずにすべて殉教した。最初に死亡したのは中浦ジュリアンで、穴吊るしにされて4日目の10月21日(寛永10年9月19日)であった。65歳没
インドのゴアに残ったヴァリニャーノはその後どうなったのか?
何度も日本に来ていたんですね。
1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。この時は1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。
1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。
1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されたが、その後天主堂の焼失・荒廃により地下聖堂ごと所在不明となった。しかし1990年から1995年の発掘により発見され、現在は博物館として観光用に整備されている。
ちなみに俵屋宗達は帰国後、成功して恵まれた人生を送られた模様。
風神雷神 Juppiter,Aeolus(上・下) 原田マハ 2019/10/29
あと、そもそもこの有名な絵って、俵谷宗達だけじゃなく他の有名画家さんも、そっくりなのを描いていたと昨日初めて知りましたよー。こんなの、良いのかな?
原田マハ
ハグとナガラ
リボルバー「たゆたえども沈まず」感想
>私は面白かったですが、歴史に詳しい方だと、このありえなさから、どうなんだろう・・
>という気持ちが湧いて来てしまう作品だったかも。
はい、実は私もその中の一人です。この時代の歴史に詳しいわけではないけれど。
というよりも、もしかしたら、信仰、というものに対する僕自身のスタンスが、この作品とは合わなかったのか、とも思います。
暑いですねー。
コメントありがとうございました。
これ、予備知識無く読んで、読み終わった後すぐyoriさんちにかけつけたんです(マハさんのファンだから、きっと読まれていらっしゃるだろうと思って)
そうしたら、イマイチだったっぽくて、あらー
>信仰、というものに対する僕自身のスタンスが、この作品とは合わなかったのかも
そうなんですか。あんまりズバッと書きにくい処なんですね・・・。
またマハさんの別の本、近く読む予定なので、読んだらyoriさんちお邪魔します