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混凝土に咲く花のように


海外旅行記や国内旅行記など、数々の旅行記を連載中!
        HP『我道旅人』で更新内容をまとめて掲載

ペルー旅行記 番外編

2007年03月21日 | ペルー旅行記
番外編~ペルーから帰国して~

ペルーから日本に帰ってきて、数日間本来の体調に回復するまでかなりの時間を要した。

昼間はフワフワしている感じがするし、夜は19時くらいに眠くなる。
ペルーにいるときは「昼間眠くて、夜眠れない」という雅に時差ぼけ状態だったから日本に帰ってきたら元に戻ると思ったのに駄目だった。

そして帰国した次の日に受けた健康診断での尿検査で潜血が陽性となり、精密検査を受けさせられた。
結果からいうと問題なかったが、ちょっとビビッてしまった…

やはり帰国直後の健康診断だったため、体調が悪かったのが原因だろう。
実際帰国時には鼻血やら切れ痔やら充血やらで体調悪かったもんな。


そしてもうひとつペルーから帰ってきて、携帯電話をなくしたことに気づいた。
成田空港に落し物がないか電話をする。

すると係員に「ない」と言われた後、「他の場所に届いている可能性があるから、税関・航空会社・空港警察に問い合わせてくれ」と言われた。
しょうがないので電話を掛けまくった。

空港第一ターミナルと第二ターミナルで落し物係が違うみたいで、統一しろよとぼやきながらも、結局たらいまわしにされ、5件問い合わせた。
だがなかった…

車に轢かれ携帯が壊れてから買い換えた後、まだ半年も経ってない…
買い替え高いだろうな…
それにただでさえ友達少ないのに、アドレス帳がなくなってさらに減るだろうな…


だけれどもそんなボクシングのジャブを受けているような小さなダメージよりも、それこそストレートを顔面で受け止めるような、とんでもない話を後日教えてもらった。

俺がクスコからプーノにバスで向かった夜、その街の間で未明爆発があったらしい…

えっ早く教えてくれよ…
こえぇぇぇぇぇ…
旅は無事帰ってくることが一番だなと心底思う。
携帯をなくしたことなど一気に吹っ飛んでしまった…

ペルー旅行記 まとめ

2007年03月17日 | ペルー旅行記
初の南米、初のアジアの外。
正直行くまでビビリっぱなしだった。

ガイドブックには危険情報の掲載が多いし、言葉はスペイン語が中心で英語は全く通じないと言うし、こんなところ一人で旅できるのかよと思っていた。
なんせスペイン語はおろか、俺は英語すら全く話せない。

さらには10日間という限られた時間で行くのに、ピーク時には込んで乗れないというマチュピチュ行き列車の予約もしていなかった。

旅の主たる目的であるマチュピチュにすら行けないかもしれないと不安が頭をよぎった。
俺は何しにペルーまで来たんだ…

だが現地に行って改めて気づいた。
そういえば本当の目的は、マチュピチュに行くためでも、ナスカに行くためでもなかったのかもしれない。
行きたい場所へ行けるよう、もがきながら旅をすることだったのではないだろうか。

海外は未知な部分が多く、怖気付くけれど行ってみればなんとかなる。
考えているよりも物事は単純であり、そして思っているよりも世界は狭い。

今回も無事マチュピチュに辿りつき、素晴らしい光景を眺めることができた。
もがいた分だけ、自分の世界観が広がるのかもしれない。

ペルー旅行記 帰国

2007年03月15日 | ペルー旅行記
とりあえず小腹が空いたので、黒い看板のケンタッキーに入ることにした。
ケンタッキーは庶民が食べるには、少し値段がお高い。

しかし店の中はそんなこと関係なさそうに平気で食べているペルー人で一杯だ。
彼らいったい何者なのかと思う。
食べている最中物乞いが店の中に入って来たが、このギャップが時々旅をしている時の金銭感覚をおかしくするのだ。

太陽も沈み始めた頃、ようやくお年寄り2人が経営する小さなTシャツ屋を見つけた。
これで綺麗な服を着て日本に帰ることができる。

今回の旅では、洗濯を全くしていなかった。
洗濯物はカバンの中に詰め込まれたまま、ほったらかしである。
移動ばかりの旅では、一箇所に腰を下ろして洗濯などしている余裕など皆無だったのだ。

お店の老人は壁に掛かったTシャツを下ろしてくれて、ゆっくりと選ぶことができた。
ナスカの地上絵のTシャツを2枚購入した。

さて日も暮れてきたし、そろそろ宿へ帰らなくてはならない。
宿への帰り道、タクシーを停め交渉しながら帰る。

「2ソルでいいか?」

「いや8ソルだ!」

行きは5ソルで来た距離を8ソルも掛かると言って譲らない。
かなり宿に近づいているため、2ソルくらいの料金だと思ったのだが、これは誤算だ。
予想よりも高いのと少し腹立たしかったので、タクシーには乗らずひたすら歩いた。
時々何で俺は歩いているのだろうと自問自答しながら、何とか宿まで戻ってくることができた。
近くのスーパーでお土産を買い宿に戻った時はすでに20時を回っていた。

宿のオーナーはそんな遅い時間まで、一人で道を歩いて危ないと注意したが、特別そんな雰囲気など感じなかった。
ペルーに来た当初は結構治安が悪い場所なのかと思っていたものだったが、旅を終えた今となっては幸運にも全く危険な目に合うことなどなかった。

旅の疲れをシャワーで洗い流す。
水が少しピリピリした。
昔もこんなようなことがあったな。
インドのアーグラーで漏電していたことを思い出した。
今回ペルーに来て一番危険な目に合ったのは、このシャワーだったかもしれない(笑)。
そんなことを考えていたら少し噴出してしまった。

ロビーにはクスコで部屋をシェアしたサイトウくんがいた。
これまた偶然だ。

今回の旅では多くの人達と出会い、別れ、また再会した。
ペルーは広いようで実に狭かった。

彼らとまたどこかこの先、旅の中で再び会える気がした。
宿の住人達と一緒に写真を撮ると、宿を出て空港へと向かうタクシーに乗った。

ペルー旅行記 リマ再び

2007年03月14日 | ペルー旅行記
飛行機はクスコを経由して、リマへと到着した。
今回の旅を始めた地へと再び帰ってきたのだ。
旅の終わりを感じ始め少し寂しさを覚える。

空港周りは一度来ているため良く知っている。
空港内にいるタクシーは全て断り、駐車場を経由して外へと出た。
そして近づいてきたタクシーに希望の値段を言い交渉を始めた。

宿の住所は分かっていたのだが看板が出ていなかったので、人に道を聞くこともできない。
タクシーを降りて歩いて探すことにした。

考えて見れば宿に着いた時は夜だったし、ナスカを訪れた日も暗い時間帯に出入りしただけだった。
まだリマの街を全く歩いていないことに今更ながら気付かされた。
記憶と地図だけを頼りに、苦労の末宿に辿り着いたのだった。

オーナーのご好意に甘え、荷物をロビーの隅に置かせてもらった。
さて夜まで、リマ市内を観光しよう。
特別行きたい場所があるわけではなかったので、適当にプラプラすることにした。

タクシーに乗り、アルマス広場を訪れた。
何だか今日はとても体が軽く感じる。
プーノやクスコではちょっと歩いただけで息切れしていたため、疲労ばかりが体に溜まったものだったが、今日は歩くのがとても楽しい。
太陽の日差しを浴びながら、アルマス広場からサン・マルティン広場へと続く、ラ・ウニオン通りを店を眺めながら歩き続けた。

今夜リマを発つため自分へのお土産を兼ねて、着替えのTシャツを買おうと考えていた。
しかし「地上絵」や「マチュピチュ」が描かれたTシャツはどこの店でも扱っていない。

観光地では観光客向けのTシャツをたくさん売っていたのだが、リマに帰ってくると本当に売ってない。
地元の人達が着ているような服や、セールで売られているドイツワールドカップのTシャツを我慢して買おうかと思ったが、それでは何の意味もないと思い留まった。
最終日に買えばいいと考えていたのが、失敗だったと気づかされた。

ペルー旅行記 リマへ向けて

2007年03月09日 | ペルー旅行記
9月1日

目が覚めると、頭の痛みがなくなっていた。
ベッドでぐっすり眠れたのが良かったのだろう。
痛みの余韻を残すように、額が少し熱を帯びているようで少し動くのが気だるい。
何はともあれ、体調が良くなったことにほっと胸を撫で下ろした。

エアポートバスの時間までまだ少し時間があるのだが起きることに決めた。
荷物を整理し、早々にロビーに下りる。
熱いコカチャを頂きながらバスを待った。

エアポートバスは遅れてきただけでなく、様々なホテルで客を乗せるためプーノの街を出発するまで非常に時間が掛かった。
確かにプーノから空港まで45分掛かる距離を15ソルで行ってくれるのは嬉しいのだが、こんなに時間が掛かると分かっていたなら始めからタクシーで行けば良かったと後悔する。

リマ行きのフライト時間ギリギリにようやく空港に到着した。
急いでバスを降りると建物内へと駆け込む。

ところがある意味予想していたとおりにDELAYの文字が案内板に表示されていた。
フライトスケジュールが遅れているのだった。
ペルーは標高が高くガスが掛かりやすいため、晴れるまで少し出発を延ばすのだろう。

時間が余ってしまったので、旅の始めに利用したリマの宿に電話をすることにした。
日本への帰国フライトが深夜だったため、それまでの間荷物を置かせてほしいと思ったのだ。

電話を終え、プラスチックのイスに座る。
一人でポテトチップスを食べていると日本人が近づいてきた。

「どうも飛行機遅れているようですね。」

彼は社会人でクスコとプーノを観光したようだった。
俺がどこを訪れたのか興味があるようなので、「リマ、ナスカ、クスコ、プーノを日本から10日間で行った」と答えると驚いていた。

「それは学生じゃなきゃ、そんな無謀なこと無理ですよ。」

「いや一応社会人やってます…」

確かに今回の旅は時間のゆとりがほとんどなかった。
ただそれはいつもの旅にも言えることで、ひたすら動いている方が自分に合っているのかもしれない。

ペルー旅行記 頭痛…

2007年03月05日 | ペルー旅行記
プーノの桟橋に帰り着くと、いよいよ頭痛が本格的なものになってきた。
頭が割れるような痛みが周期的に響き渡る。
俺はフラフラとしながら宿に戻り、ベッドに倒れ込んだ。

だがここで眠ってしまっては駄目だ。
明日は早朝エアポートバスに乗って、空港へと向かうのである。
残りのお金が寂しくなってきたので、今日中に両替をしておかなければならない。
かろうじてベッドから起き上がると、朦朧とした意識の中街を歩き回った。

今夜でこのプーノの街を去らねばならないと考えると、本当は散策してどこか美味しい店で夕食を取りたかった。
しかし今の俺にはそんな余裕などあるはずがない。

銀行を見つけると、すぐさま中へと入る。
しかし夕暮れ時の銀行には人々が殺到し、カウンターの前には大行列ができていた。

「勘弁してくれ…」

本当に泣きそうになった。
しかし並び始めるとすぐに俺の後ろに人が並ぶような状態であったから、諦めて他の銀行を探したとしても込んでいることだろう。
この場で耐えるのが一番いいと思うしかない。

頭痛と気持ち悪さで今にも気が狂いそうだ。
両替を終えると、スーパーでオレンジジュースを買い宿に戻った。

旅も終盤を迎え、無理をしすぎたツケがここに来て回ってきたのだ。
体力が落ちていることを感じ、テーブルの上に置きっ放しだったパンをジュースと一緒に口に流し込んだ。

ついには寒気も感じ始め、体が震え始める。
薬を飲むと毛布に包まって丸まりながら眠った。

ペルー旅行記 ウロス島

2007年03月02日 | ペルー旅行記
船は再び陸地を離れ、トトラと呼ばれる葦の生い茂る水面を走る。
しばらくするとちらほら家が見え始め、ウロス島へと到着した。

特別これといって見るべきものはないのだが、この島には他の島とは明らかに異なった点があった。
船や家だけでなくこの島自体が驚くべきことにトトラでできているのである。

足を一歩島へ踏み出すと、僅かながら沈んだような錯覚に囚われたのだが、そんなはずはない。
島は腐って沈まないように常に新しいトトラを積み重ね長年もの間生活してきたのである。

ウロス島はひとつの大きな島だと思っていたが、考えて見れば浮島なのだ。
そんなに大きな島を作る必要がない。
40近くある島を全て総称してウロス島と呼ぶのだろう。

母親は昼飯を作り、子供達はその周りを元気よく走り回っていた。
時折近づいてきては、首飾りや葉書を買わないかと声を掛けてくる。
その無邪気な様子を見ているととても微笑ましいのだが、少し残念なのは家の中にテレビがあったことだった。

彼らもまた伝統的な生活をしている訳ではなく、現代の文明社会の中にいるのだ。
人々の生活は豊かになったのだが、結局この島も観光のための手段になってしまっているのだなと感じる。
我々は世界中の至るところへ旅行することができるようになったが、そのことが彼らの生活に少なからず変化を与えていると考えると何だか虚しかった。

ペルー旅行記 タキーレ島その2

2007年02月26日 | ペルー旅行記
村から更に上に登りこの島の頂上に到着した。
頂上は大きな土産物屋や売店があり、この島一番の盛り場となっていた。

アルパカの手袋でも買おうかなと眺めていると、マッキーとアユちゃんに出会った。
今朝はノビタ君に出会ったし、意外とペルーは狭いものだ。

自由時間も終わると坂を下り、島の反対側に移してあるボートへ向かう。
下りはガイドと話ながら降りた。

ガイドは英語、スペイン語、島の言葉と多くの言語を操ることができるらしい。
俺は英語すら十分に話せやしないというのに…
時々このような場面で日本人というものについて考えさせられてしまう。
世界では英語が共通語として当然のように使われているのだが、日本人は母国語しか話せない人が非常に多い。

もちろん母国語として利用している国以外では、観光を生業にしている人達くらいしか話せないかもしれない。
だけれども日本人は海外に出る人達が多いにも関わらず、現地の人達とほとんどコミュニケーションを取る事ができないのだ。

自分もその一人なのだが、その孤独にも似た寂しさを海外にいると時々感じる。
思う気持ちのひとかけらも伝えられやしない。

ガイドはゆっくりとした英語で、島のことやプーノのこと、家族や恋人のことについて話してくれた。
ツアーでは孤立気味だったので、話しかけてくれてとても嬉しかった。

ペルー旅行記 タキーレ島

2007年02月23日 | ペルー旅行記
タキーレ島に到着した。
船着場周辺は何もなく、赤い台地の急斜面が待ち構えていた。
村に行くには階段をひたすら登らなければならない。
ただでさえプーノ周辺は富士山より高いというのに、この登りは相当体に堪える…
息を切らしながら何とか村まで到着した。

「もうこれ以上歩けねぇ…」

丸太でできた椅子に座り込み呼吸が落ち着くのを待つ。
村人はリャマやアルパカの毛を使って手袋や帽子などを織っていた。

ツアー客全員が揃うと、笛を陽気に吹きながら伝統的なダンスを見せてくれた。
見ている分には楽しいのだが、村中の人達が俺達の手を取り一緒に踊ろうと誘い始めた。

マジですか…
へばった体を何とか動かし踊った。

昼飯になると白身の魚のフライを食べた。
疲れの方が勝り腹は減っていないのだが、無理してスープを口に流し込む。

何やら村人がお金を徴収し始めたのだが、みんなビールを飲んでいたのでその代金を払っているのかと思い無視していると、俺に対しても払えと言ってきた。

このツアーは昼飯込みだって言ってたから食べたのに、それだったら始めから食わなかったよ。
宿の主人に騙されたことに気づかされ、渋々払うことにした。

ペルー旅行記 ツアースタート

2007年02月19日 | ペルー旅行記
運賃として高額紙幣を運転手が受け取ってくれなかったので、通りのパン屋で菓子パンを買い込みお金を崩した。
パンとジュースを抱えながら、宿を目指す。

宿はトイレシャワー共同であるのだが、20ソルと安かった。
しかしタキーレ島・ウロス島ツアーが35ソルと予想より5ソル高い。
しぶとく楯突くのだが、全然値下げしてくれない。
昼飯が付くから高いのだと説得されたので渋々了解した。

「あと5分でツアーバスが来る。荷物を置いてすぐに来い。」

「えっ!そんなにすぐ!!」

料金交渉などしている時間などなかったのだ。
急いで部屋に入り、トイレを済ませ、パンを持ってワゴンバスに乗り込んだ。
パンは移動する狭いバス内で食べることになった。

桟橋に到着すると、モーターボートに乗り換える。
ここから3時間掛けて、タキーレ島へと向かう。

小銭を稼ごうと乗り込んで来たサンポーニャ吹きによる「コンドルは飛んでいく」の独唱が始まった。
疲れていたこともあり、曲を聴くよりも早く出発してほしい。
船が岸を離れると太陽の温かい光を浴びながらぐっすりと眠った。