新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

ある原爆忌

2019年08月06日 | 革命のディスクール・断章
 ある年の原爆忌、川に立つ白鷺を見て、

 原爆忌 同志は潜伏十二年

 という句が、自然と口をついてきた。あの夏から幾星霜。

 「ヒロシマ・ナガサキをたたかうあなたが、なぜ『殲滅』という言葉を恥ずかしげもなく使用するのですか。それはジェノサイドの肯定ではないのですか。それは帝国主義やスターリン主義と同じではないですか」 

 被爆者三世の知人に、そう批判されたことを思い出す。

 革命のために、暴力は不可避だと私は思う。しかし多くの革命が、民衆を裏切り、民衆に敵対してきた。そうではない、革命的暴力、ジェノサイドでない解放戦争は可能なのか。今でも答えはわからない。サパティスタのたたかいは希望を与えてくれたが、私自身が、何か生み出せたというわけでない。

 『夕凪の街 桜の国』は、若い頃受けた糾弾を思い出させるものだった。原爆症に倒れた皆美は、「嬉しい?十年経ったけど、原爆を落とした人はわたしを見て、『やった! またひとり殺せた』とちゃんと思うてくれとる?」と言い残して死んでいく。このモノローグが、心をえぐるのは、それが原爆を落としたアメリカにだけ向けられているからではない。この作品を「反戦作品」「反核作品」に仕立てた人びとを含む、全ての日本人に向けられているからだ。若く美しいヒロインが筋書き通りに戦争の犠牲になって死ぬのが「嬉しい?」と。このモノローグの場面は、人物や背景が次第にぼやけていき、最後には完全に消えてしまい、フキダシのセリフだけが残るが、それは皆美が視力を失っていく様子を暗示する見事な漫画表現だった。『この世界の片隅に』については、ここでは繰り返さない。

 けさ、『聲の形』のメイキングブックを手に取った。本作の作画監督を務めた西尾太志さんの死が告げられた。美しい作画にいたたまれず、すぐに本棚に返した。

 『聲の形』の少年少女は、もがき、あらがい、お互い傷つけ合うけれど、彼らがパッと見上げる空だけはいつも必ず美しい。「水だったり空気だったり生命だったり根源的なものは、前向きな感情を持って描きたかったので『ちゃんと綺麗なものとして描こう』と思っていました」という山田監督のコメントに、私は「光のなかに埋葬されている」というバタイユのことばを思い出さずにいられない。
 最近大火災に遭ったノートル・ダム大聖堂は、第一次世界大戦でも戦災に遭った。当時は敬虔なカトリックだった青年バタイユはこう書いた。

 〈崩壊し、空虚になり、醜くなっても、大聖堂は今なおランスのものである。……大聖堂の石のなかに過去と死に属するものを探し求めてはならなかったのだ。大聖堂のあまりに偉大な沈黙のなかにはその悲惨な眺めを変容させる力がある。この光こそ希望の光なのである。……大聖堂は自分の周囲の死者たちに向け、あなた方は光のなかに埋葬されている、と叫んでいる。〉

 爆心地の原爆ドームも、京アニ第一スタジオも、「あなた方は光のなかに埋葬されている」と叫んでいる。今年の原爆忌も、川に立つ鷺に旧友を幻視したあの夏のように眩しかった。

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