新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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雨の首長 日和見の王

2011年11月23日 | 革命のディスクール・断章
きょうは勤労感謝の日(Labor Thanksgiving Day)。

 1948年公布・施行の「祝日法」で制定。

 「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう国民の祝日」

 しかし、勤労感謝って、いったい誰のどんな「勤労」に感謝するのだろう?


 この祝日の前身は、戦前の「新嘗祭」(にいなめさい)。新嘗祭も1873(明治6)年から1947(昭和22)年までは祭日でした。

 「新嘗」とは、その年に収穫された新しい穀物のこと。要するに、農作物の恵みに感謝する収穫祭ですね。

 新嘗祭のうち、天皇が即位してから最初に行うものを特に大嘗祭(おおにえのまつり、だいじょうさい)といいます。この大嘗祭こそ本来の儀式だったという折口説は、ここでは割愛。その年の新米は、新嘗祭が終わるまでは誰も食べないのが習わしだったとされています。源氏物語「少女」帖の五節の舞姫のシーンは、新嘗会の翌日、臣下も新穀を賜る儀式にちなんだものです。

 今年の新嘗祭は、明仁天皇の入院により、皇太子が代行するそうです。これはかなり異例です。新嘗祭が初めて文献に登場するのは、日本書紀で皇極天皇元年の11月16日といわれます。この日は西暦では642年12月12日(ユリウス暦)にあたります。それだけ天皇家にとっては大事な儀式です。

 1873年(明治6年)から太陽暦が導入されたわけですが、そのままでは新嘗祭が翌年1月になってしまう。そこで新暦11月の2回目の卯の日に行うことにしたわけです。その年にはそれが11月23日でした。以後、11月23日に行われるようになったわけです。あんがい適当です。

 さて、この勤労感謝の日は、亡国の記念日と同様に、天皇制イデオロギーの復活なのだ! と、極左の私は糾弾しなければならないわけですが、保守反動のエッセイスト福田恆存によると、むしろ反対なのです。

 「ところが、戦後は、皇室中心主義も神道もいけないといふことになつた。農耕生活も非合理でばかばかしいといふことになつた。そこで過去の祭日は全部否定してしまつて、さつきのやうな奇妙な祭日をでつちあげたのわけです。『勤労感謝の日』といふことばからは、なにか工場労働者の顔が浮かんでくる。下手をすると戦争中の勤労動員をおもひだします。官僚的、ないしは階級闘争的です。百姓仕事や商売は勤労といふことばとはぜんぜん結びつきません。」
(福田恆存「文化とはなにか」)

 皇室中心主義も神道も、近代ブルジョアジーのイデオロギーの産物にすぎない、とは思います。明治の神仏分離まで、神仏習合の考えは衰えることなく、現代でも残っているわけですから。

 しかし、福田のいう通り、「勤労」はそのまま読みくだせば、「勤めて働く」。この勤労者イデオロギーこそ、戦前の左翼が産業報国会の勤労動員を推進した社会ファシストに転向し、戦後には社会党や共産党に鞍替えして自らを疑うことも恥じることもなかったカラクリでもあるでしょう。

 『園芸家12ヵ月』のカレル・チャペックがメーデーについて、痛快なエッセイを書いていたのも思い出します。主義のための労働、道徳のための労働なんて、つまらない考えです。http://gold.ap.teacup.com/multitud0/273.html


 さて、かつて左翼運動が盛んだった頃、「この日和見主義め!」「おまえこそ冒険主義者だ!」という論戦があったりしました。

 日和見とは、天気模様をうかがうこと、特に、船の舳(へさき)で天候を観測することです。
      
 「神」から「人間」への転向をなしとげた天皇こそ、日本史上最大の日和見主義者だったといえるかもしれない。古代天皇制の重要な仕事が、日奉武や日置部などの「日読みの技術」でした。この日読みの技術は、たんなる天候の観察から、時間・暦の測定・管理、天文道・陰陽道・暦道などに体系化されていきました。やがて天皇の権威とともにこの技術は廃れますが、江戸時代まで日和見は農漁村に伝承された技術でした。日和見は気象のみならず、暦として人事全般にわたるものであり、農耕社会の秩序維持装置として作用していたのです。

 「日和見」の最高トップとして、祭司王としての天皇がいた。しかしこの王権モデルは、日本だけに固有なものではありません。

 アフリカ社会には、「雨の首長」をいただく王国があります。天候不順のために不作になると、王が責任を問われて暗殺されてしまうんですね。国立民族学博物館研究報告に栗本英世さんの「雨と紛争―ナイル系パリ社会における首長殺しの事例研究―」という研究があります(1986年11巻1号)。ただし私は小松和彦さんの『悪霊論』(ちくま学芸文庫)からの孫引きです。

 この雨の王国は、王国といっても、6つの集落の連合の小さな社会です。そして降雨師が王様であるわけですが、この「雨の首長」は西欧モデルの「首長」とはひどく異なります。世俗的な政治を行うのは、壮年によって構成される年齢階梯のメンバーの会議です。首長はその会議には必ず出席しますが、会議ではほとんど発言することはありません。「最後のひとこと」を発して、会議の決定を承認するだけです。

 しかし雨の首長には、社会の存亡を支配する天候のコントロールというもっと重大な任務が課されているのです。天候不順のとき、壮年階梯のメンバーは原因を追求して告発を行います。先の調査では、1982年から84年の間に、雨の首長や長老が追放されたり、殺害されたりしています。

 この雨の首長こそ、日和見の王としての「天皇」の最古層にあるものです。天皇は「ヒヨリミビト」として暦を支配する。秦の始皇帝を持ち出すまでもなく、暦が、その時代と社会生活を支配するための権力の道具であることはいうまでもありません。

 稲作農耕と人身御供がつながってきたことは、民話や伝承などからうかがい知ることができます。古事記には稲・麦・粟・大豆・小豆の五穀の起源が出てきますが、新嘗祭とは神を喰い、また神に喰われる死と再生の儀式でもあります。

 生け贄としての王。無責任の体系とは、スケープゴートを不断につくり出していく、無意識のレベルまでパターン化された「責任転嫁の体系」なのかもしれませんね。

(初掲 2005年11月23日 2011年11月21日追記)

【参考文献】
『日本を思ふ』 福田恆存(文春文庫)
『悪霊論』 小松和彦(ちくま学芸文庫)
『日本王権論』 網野善彦・上野千鶴子・宮田登(春秋社)

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