1926年11月22日、コミンテルン第7回大会執行委員会総会。
故・中西正和教授の歴史データベースでは、この日に「スターリンが一国社会主義建設を説く」とある。
しかしトロツキーは10月に政治局を追放され、ジノヴィエフもコミンテルン議長を解任されている。史料を見る限り、これに先立つ10月26日からの第15回党協議大会における一国社会主義論争の間違いではないだろうか。
スターリンが一国社会主義理論を初めて提唱したのは、1924年12月とされている。これは党と国家に対する試金石だった。
そしてこの年の1月に刊行した『レーニン主義の基礎』第一版を、「非公式なもの」として販売網から回収・廃棄した。第一版では一国内のプロレタリアートが権力を奪取できたとしても、一国内で社会主義経済を樹立することはできないというレーニン主義の原則も強調されていたのだ。レーニンが死んだのはこの年の1月のことである。
党のある会議で理論的討議にスターリンが巻き込まれたとき、古参の学者党員リャザノフは、こうヤジをとばしたという。
「コーパ(スターリンの愛称)、やめろ。馬鹿な真似はするな。理論的なことがお前の持ち場でないことはだれでも知っているぞ」
マルクス・エンゲルス研究所の初代所長だったリャザノフから見れば、スターリン理論は、粗雑で、陳腐で、紋切り型で、常套句の繰り返しにすぎなかっただろう。スターリンの理論に欠陥があることは、教育ある党員には自明のことであった。
しかしそのことは、一国社会主義が国民的信条になることを妨げることはできなかった。
「1920年のロシア社会の真に悲劇的な特徴は安定へのあこがれであった。……一方、トロツキーの“永続革命”論はその名称からして、生きている間に平和と平穏を期待してはならないという不吉な警告のように、疲れた世代の人々に響いた。」(ドイッチャー『スターリン』)
スターリンの一国社会主義は、トロツキーの永久革命論の対抗物としてスタートしている。この意味では双子の兄弟である。
時代認識そのものは、そう大きく異なっていたわけではない。スターリンもトロツキーも、階級のない社会主義は、一世代、二世代にわたっても実現されないという点では同意見だった。スターリンは批判者と同じように、西ヨーロッパで革命が起こって社会主義ロシアは孤立から解放されるから、この問題そのものが解消すると公言した。
しかし現実には、世界革命への期待は次々と粉砕された。1923年のドイツ動乱が期待外れに終わると、党員たちはいらだった。ヨーロッパの労働者はロシアを見捨てつつあった。彼らは社会民主党の指導者に耳をかたむけ、資本主義の美味な食事を失うまいとしている。それでもなお、終局的には、ロシア共産主義の運命は、ヨーロッパ共産主義の勝敗に依存しなければならないとは!
スターリンはこの危機感に直接訴えることで、トロツキーに対して、革命をもてあそぶ「冒険家」というレッテルを貼り付けることに成功した。
これは不当な言いがかりである。しかしスターリンの一国社会主義は、革命の孤立化に対するボリシェヴィキの怒りを代弁し、安定の見通しを与えるものだった。
もちろん、世界革命といっても、国民国家、民族国家を単位に考えるしかない。しかし一国社会主義は、ほんとうの社会主義ではありえない。そこには、国家を廃滅するという社会主義のビジョンが否定されてしまっているからだ。
スターリンの「大改革」は、『資本論』のマルクスが暴いた本源的蓄積を思い起こさせる。
マルクスはイギリスの自由な農民を賃金労働者に変えた「囲い込み」と、資本の蓄積を増進させるための呪うべき警察国家行動を考察している。
イギリス産業革命の暗黒面に匹敵するのが、スターリンの集団農場であった。これはたんなる比喩ではない。スターリンによるソヴィエト法では、集団農場が地続きの土地を確保するため、所有地を「囲い込み」「整理」することが認められていた。個人農は集団農場に参加するか、さもなければ事実上収奪されるのかのどちらかを選ばざるをえなかった。
「かくして、暴力的に土地を収奪され、追放され、浮浪民とされた農民は、グロテスクでテロ的な法律によって鞭打たれ、烙印され、拷問されて、賃労働制度に必要な訓練を仕込まれた。……資本は、頭からつま先まで、あらゆる毛穴から血と汚物とを滴らしながらこの世に生まれ出るのである」(マルクス)
スターリン主義もまさに、頭からつま先まで、あらゆる毛穴から血と汚物とを滴らしながらこの世に生まれ出てきたのだ。
(初掲 2005年11月22日)
【参考文献】
『スターリン』 ドイッチャー(みすず書房)
『ロシア共産党党内闘争史』 ダニエルズ(現代思潮社)