新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

太宰を知った日…太宰治は中二病? フランス流日本文学入門(8)

2021年02月05日 | 文学少女 五十鈴れんの冒険
[今回のテクスト]
『こう読めば面白い! フランス流日本文学 -子規から太宰まで-』柏木隆雄(阪大リーブル)
第8章 太宰治はフランス文学をどう読んだか?

[登場人物]
水樹塁
高校1年生。御園かりんのオタ友、五十鈴れんのメル友。一見するとクールでミステリアスだが、『終末聖書シリーズ』の影響で、自身を数千年前の大戦を勝利に導いた伝説の覇王「フォートレスウィザード」の生まれ変わりであり、“奴ら”を追うダークヒーロー、という設定で脳内をいっぱいにしている。御園かりんと同じく、妄想全開な中二病の少女だが、この妄想が恥ずかしいことだと自覚しており、クラスメートの三穂野せいら、五十鈴れん以外の友人には隠している。『人間失格』を読んで衝撃を受け、かりんの話を聞き、太宰ファンらしいれんの父に会いに来た。

五十鈴れん
15歳の中学3年生。太宰治では『ろまん燈籠』がいちばん好き。『晩年』は読んだが、『人間失格』はこわいのでまだ読んでいない。れんのパソコンの辞書ユーティリティには、塁のメールの中二病フレーズを、普通の日本語に変換する「塁ちゃん」辞書が登録されている。日記やメールの文章では一人称が「僕」になることがある。

五十鈴九郎(お父さん)
ひとり娘のれんを溺愛する、コロナで隔日勤務の会社員。太宰は昔それなりに読んだ。「『セカイ』系のルーツは、『全世界を獲得せよ』というブントの結成宣言であろう」というツイートに一人だけお気に入りした、猫アイコンのフォロワーが、実は娘の友人の塁であることは知らない。今回はれんと塁のメールに、その名と発言が登場するだけである。
 


(1)水樹塁から五十鈴れんへのメール

(カッコ内の文章は、中ニ病フレーズ辞書「塁ちゃん」の変換結果に基づき、普段の水樹塁が言いそうな言葉と口調に五十鈴れんが書き直したもの)


正義に目覚めし死神の相棒、わが剣にして盾である兇天使レーン、黒き記憶を宿す回廊の第三形態の扉が開かれたことを、まずは祝福させてもらうよ。しかし今は魔の二月、終末の混沌との戦いは続く。きみも僕も災難が絶えないことだね。

(大好きなれんちゃん、高等部進学決定おめでとう!しかし2月は学年末試験があって大変!お互い、がんばろうね☆)

名ににし負う現存罪の魔導士、ダー・ザインの霊障で、呪いを受けた僕の魂はラビリンスに迷い込み、イデアの牢獄に閉じ込められている。奴らの監視を掻い潜るため、この電信をエニグマの技法で送らざるを得ないことを許してほしい。以前僕が虹色の円盤で渡した魔道大典を使えば、平文に戻るはずだ。

(太宰治を読んでから、私の中二病、さらにこじれちゃったみたい。暗号みたいな文章になっちゃってごめんね。前にCDで焼いて渡した「中二病フレーズ変換辞書」で、普通の文章に訳して読んでね)

今日は、物語を紐解こうとした瞬間、奴らの忌々しい不意打ちによって、聖杯が転倒して円卓に漆黒の聖水が解き放たれてしまったことは、誠に遺憾だ。しかし奴らの攻撃に物怖じせず、まずは覇王である僕の無事を見届けた上で、ただちに短刀を振るって奴らを撃退し、黒山羊の外套が奴らの手に落ちることから守り抜いてくれた、あの鮮やかな父上の手並み。やはり翡翠のハートを持った兇天使レーンの父上だ。

(今日はお話しようとした瞬間、私緊張しちゃって、カップを倒してテーブルにコーヒーをこぼしてしまって、本当にごめんなさい。お父さん、お客さんの私が火傷しなかったかをまず心配して、すぐにハンカチを取り出してコーヒーを堰き止めて、椅子に置いていたお気に入りのコートが濡れないように守ってくれて、やっぱり優しいれんちゃんのお父さんだね)


今日訪問したのも、怪盗詩人カリーヌの報告が、君の父上にいささかの興味を抱かせたものでね。カリーヌが狙っていた例の禁書について、異端審問を怖れたカリーヌは父上に対して完全黙秘非転向を守り抜いたものの、父上の魔眼はカトリーヌのたくらみを見破り、「おまえがいま心の中で望んだものはこれだろう」と空想具現化して見せつけたのだと聞いた。そればかりか、常人なら耐えられない呪われしカリーヌからの霊障をものともしない圧倒的霊的絶縁力の持ち主であるばかりか、逆に新たなる祝福の預言を授けたという父上なら、僕が受けた「呪い」を解く妙薬を持っているのではないかと閃いた次第さ。

(今日お邪魔したのも、かりんちゃんにお話を聞いて、どうしてもれんちゃんのお父さんに会いたくなったの。かりんちゃんが観たがっているあの映画、かりんちゃんはタイトルも内容も話さなかったのに、帰りになぜかあの映画のパンフと原作がお父さんの部屋で見つかって、魔法使いみたいだって感激していたから。重度の中二病のかりんちゃんに偏見を持たずに、逆にあの子の喜びそうな漫画の原作まで一緒に考えてくれるこのお父さんなら、私の中二病を治す方法を知っているかも、と思っちゃったんだ)

かの福音響かぬ堕罪の魔道書『ペルソナのデスノート』をアウフヘーベンすることで、この呪いを終結させるパラドックスの鍵があるのではないかとある日僕は見抜いたんだ。『終末期』『世紀末戦騎』などの魔導書も読みあさるにつけ、確信した。この男ダー・ザインも、呪われし僕の同族だ。

(『人間失格』を最初に読んだときは、どこにも救いがなくて絶望しちゃったけれど、この本に私の中二病を治すヒントがあるのかも、と思い直して、もう一度読み直したんだ。『晩年』や『二十世紀旗手』なども読んで、私、思ったよ。太宰さんも私と同じ中二病なんじゃないかって)

「レゾンデートルのエクスタシーとルナティック、わが名はアンチノミー」とか、「ボーン・イン・ザ・カタストロフィ」とか、ダー・ザインの書くものは、どれも完全に呪われた人間でなければ記述しえないプロトコルだと、レーン、君もそう思わないか?

(「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我に在り」とか「生まれて、すみません」とか、完全に中二病患者でなければ書けない文章ばかりだって、れんちゃんは思わなかった?)

覇王を理解できない凡俗の猿どもとは異なり、父上は僕の話に真剣に耳を傾けてくれた。ダー・ザインの魔典が「タルタル時代の魔典」といわれ、現実充足の豚が読むものではないとされること、その初期衝動や早すぎし遺書はたしかに呪いの霊障そのままであることは認めつつも、呪われし傷と恥辱、かの怨恨のオデュッセイアを福音の歌にトランスする言霊の呪術が、その霊力の源泉であり、いまも信者が絶えない理由だというのが父上の見解であった。ダー・ザインが語る「エクスタシーとルナティック」の典拠を解説するため、父上が示したかのシェーヌ・ド・ボワ博士のプロヴィデンスの書は誠に興味深かった。遍歴時代の魔道師の書いた「使い魔」をめぐって、サーバント論を戦わせたことも一興だった。父上は使い魔の扱いが苦手なようで、僕からはささやかな助言をさせていただいたよ。。


(こんな中二病の私の話を、お父さんは笑わず真剣に聞いてくれた! 「たしかに太宰治の文学は、『青春の文学』といわれ、大人の読むものではないといわれたりしますね。若い頃の言動や初期作品には、いわゆる中二病に通じるものもあります。しかし彷徨の青春時代に受けたであろう傷や恥辱から来るルサンチマンの呪いを、良質なセンチメンタリズムに満ちた詩と物語に浄化する言葉の魔法が、太宰のテクストの魅力の源泉だし、今もファンが絶えない理由ではないかと思います」と話してくれた。太宰さんの「恍惚と不安」の由来を説明するために教えてくれた柏木隆雄先生の本はすっごく面白そうだったし、デビュー前の太宰さんが書いた『ねこ』を読んで、にゃんこトークができて、とっても楽しかったです。「猫になついてもらえない」と悲しがるお父さんに、「にゃんこと仲良くするにはですね」とえらそうにレクチャーしちゃった。)

魔導師は、あの「使い魔」の墓碑銘を、外つ国の邪淫の書を訳せし偽典の綴り手による「ボヘミアン・タランチュア」からの引用としたが、偽書に等しいほどディコンストラクションを施していたのだね。シェーヌ・ド・ボワ博士とは僕も一度お手合わせ願いたいものだ。これは地母神にお伺いを立て、神意を占ってみなければならないようだよ。ダー・ザインがこの脱構築作業に、かの平和の千年記の光の書にある「マジカル・ツリー」や「ファンタジック・フライ」を参照にしたのではないかという父上の意見も、興味深いものがあったよ。父上の中ではそうなのだろう、父上の中ではね。かの魔導師のエクリチュールは、まさにシニフィアンとシニフィエの戯れであり、テクストの死と再生のメタモルフォーゼだね。

(太宰は、「ねこ」のエピグラフを、ロシア文学をたくさん翻訳したメリメの『カルメン』からの引用としたけれど、自分オリジナルといっていいほど、書き換えちゃっているんだね。私も柏木先生の講義受けてみたいから、大手前受験しようかな? お母さんに相談してみるね。太宰さんがこの書き換え作業に、『源氏物語』の「帚木」や「蜻蛉」を参考にしたのではないかというお父さんのお話には、びっくりしちゃったけれど、ありうるかも。太宰さんの書くものは、いろんな書物から引用して、自由自在に自分の作品に作り替えているんだね)


光と闇を司りし神にも悪魔になれるレーン、今日は君の引き合わせで、父上と有意義な対話ができたことに感謝するよ。別れ際に、「お若いの、呪いは消えぬ。しかし呪いなど、健康な若人の霊体細胞が健全であることを逆説的に証明する、一種の霊的免疫作用に過ぎぬ。時計薬じゃよ。時は逆しまには流れぬ。二千年、三千年、すでに五十億の時を生きたわしの目から見たらほんの刹那の泡沫にすぎぬ。これから続く最後の審判や、紅蓮の煉獄、おぬしを待つ数々の試練が、呪いなど忘れさせてしまうだろう。おぬしは呪われし覇王としての宿命からは決して逃れられまい。自分の信ずる道を歩むがよい」と訓戒を与えてくれたことに感謝する。
カリーヌに聞いていたが、父上と君の仲睦まじさには、さすがの僕も少々妬けたよ。貴重な親子の時間を邪魔してしまってすまない。父上にはどうかよろしく伝えておいてくれたまえ。
わが剣にして盾、親愛なる兇天使レーンへ、フォートレスウィザードより。


(大好きなれんちゃん。、今日はあなたがいてくれたおかげで、お父さんから大切な話を聞くことができました。お父さんに最後に、「塁さん、中二病を直す必要があるんですか? 中二病は、不健康だからではなく、健康すぎるから、自分で自分の細胞を壊してしまう青春期特有の一種の自己免疫症状なんです。『時計薬』という言葉があって、いずれは時間が解決することです。あと二年か三年か、すでに五十年生きた私から見たら一瞬のことです。これからは大学受験もあって、社会人にもなって、忙しくなれば、趣味に打ち込む時間もなくなるかもしれません。しかしあなたは『終約聖書シリーズ』が大好きなんですよね。これからも作品も妄想も楽しんだらいいじゃないですか』……こういってもらえて、すごくうれしかった!
でも、かりんちゃんに聞いたとおり、れんちゃんとお父さん、仲良しなんだね。正直、妬けちゃった!貴重な親子の時間を邪魔しちゃってごめんなさい。お父さんによろしくね! 大好きなれんちゃんへ、塁より)


(2)五十鈴れんから水樹塁へのメール

塁ちゃんへ
メールありがとう! もし僕がレーンなら、「フォートレスウィザード陛下」とお呼びするべきなんだろうけれど、「普通」(僕たちにとってはすごくいやな言葉だから、「凡庸」と言い直すべきかな?)の言葉でしか書けないことを許してほしい。いま僕は、内気で恥ずかしがり屋で年上なのに守ってあげたい優しい「塁ちゃん」と、クールでミステリアスで皮肉屋の「フォートレスウィザード」、お姉ちゃんとお兄ちゃんが同時にできたみたいな気分で、とっても嬉しいんだ。

太宰のペンネームの由来説にドイツ語の「ダー・ザイン」があるとか、ジャック・デリダの話とか、狼狂シオランとか、早速父の話をあれこれ活用してもらって嬉しいし、面白かったよ!

今日の猫トークで、久しぶりに「やちよ」の名前が聞けて、懐かしかったな! 話したとおり、新潟の大伯母の家の猫なんだ。猫にあまり懐かれない、「アンチ猫」体質の父の膝の上に乗ってくれた、いまのところ最初で最後の唯一の猫なんだそうだ。やちよはいつも父にべったりで、僕はちっとも相手にしてもらえなかった。初代の「ほむらは」祖母にべったりで父はガン無視だったそうで、三代めの「あまね」は僕と仲良しだから、因果ってやつが巡っているのかもしれない。この猫たちが大伯母の家に住み着いたエピソードが面白くて、賢治の「猫の事務所」を下敷きにして、「猫の派遣会社」という絵本にしたことがあるんだ。いつか読んでもらえたら嬉しいな!

父が柏木先生のテクストに興味を持ったのも、太宰治がきっかけなんだ。柏木先生の講演録に出てきたあるエピソードに、太宰治の『水仙』という小説を思い出したらしいんだ。この作品の「私」のひがみっぽところは、父と似ているかもしれない(そんなところもかわいいんだけどね)。太宰治を初めとした日本の文学者たちとフランス文学の関係は、父の興味関心を大いに刺激したようだ。


 ダマツテ居レバ名ヲ呼ブシ 
 近寄ツテ行ケバ逃ゲ去ルノダ --かるめん

「ねこ」といえば、塁ちゃんのふわふわの「使い魔」だよね。スーちゃん(真名はパラケルススなんだよね?)、かわいい!僕とも仲良くしてくれてすごく嬉しい。

メリメの「カルメン」から引用された、この習作「ねこ」のエピグラフ、父はこの習作の存在は知らなかったらしい。でも『晩年』の「葉」の猫のエピソードはよく覚えていて、仕事で『源氏物語』を翻訳したときに参照にしたらしい。それで、あの『源氏物語』の「帚木」や「蜻蛉」の話につながっちゃったんだね。

父には何でも『源氏物語』に何でも結びつけるクセがある。たしかに小説やエッセイや座談会の発言を見る限り、太宰は『源氏物語』を読んでいたらしいけれど、父本人も認めたとおり、何の確証もない。しかし、今日の父の話は、太宰の「かるめん」と、「帚木」や「蜻蛉」は似通っていて、僕も興味深かった。

ペンネームだから気づかなかったようだけれど、父の本は、夏目君の愛読書だったらしい。いま留学生のアシュリー・テイラー君を囲む読書会で紹介してもらったり、「エミリーの相談所」にも置いてもらえることになったんだ。もし興味があったら君にも読んでほしいな!


父の本は、「紫式部の二重生活」というコンセプトで、紫式部のテクストには昔のレコードのようにおもてのA面、うらのB面があるという設定なんだ。このおもての紫式部、裏の紫式部のギャップが激しくて、英語が得意な夏目君に話を聞いたテイラー君は、オンとオフでは全然別人の『エヴァンゲリオン』のミサトさんみたいだって面白がっていた。

「帚木」は「裏バージョン」にあたるんだ。やさぐれ紫式部が、「あの人に、恋とか愛とか、絶対無理。あの伝説の帚木のように、遠くで憧れているだけで、永遠に手に入れることなんてできないんだわ」と源氏の悪口をいうこの紫式部のセリフ、何となく、太宰の「かるめん」に似ていると思わない? 父は、太宰をモデルにして源氏の人間像を設定したようだから、似るのも当然といえば当然なのだけれど。

父の本で紫式部が登場するのは第一部まで。第二部、第三部は、第一部B面のはっちゃけモードとは打って変わって、真面目な文体で、あらすじを要約し解説している。第3武後半の「蜻蛉」の訳は、より「かるめん」的だ。源氏の子(ということになっている)の薫が、行方不明になった浮舟の君を歌った「蜻蛉」の歌は、こういう歌だよ。

 ありと見て 手にはとられず 見ればまた
 ゆくへもしらず 消えしかげろふ

父はこの歌を、薫のセリフとして、こんな風に意訳している。

「目の前にいたのに、自分のものにはならなかった。会ったかと思えば、行方も知れない。女って、かげろうみたいなもんだねえ」

どことなく、間抜けな感じがしない? 父は、源氏はまだ我慢ができたけど、この薫のことは大嫌いらしい。父のテクストは女性には優しく、男性には辛辣なんだけど、薫に関しては特に容赦ない。
父はこの本を女性名のペンネームで書いた。あとがきで、こんなことを書いているから引用してみるね。

「桐壺、源氏、薫の3代は、結局、女の中に誰かの形代、すなわちお人形のように都合の良い女を求めていたに過ぎません。最後のヒロイン浮舟が、「出家」というリセットボタンで、この男たちの愛執を断ち切り、永遠に続くかと思われた因果の物語を強制終了させることで、作者の紫式部は、女人往生、すなわち女性の自立の道を指し示したのです」

今の僕にはまだ、『人間失格』に向き合った君のような勇気はない。しかし、たばこ屋の少女のエピソードは聞いたことがある。柏木先生のテクストを読み終えた父は、このエピソードに言及しながら、こういった。

「太宰は『火の手』の持ち主だったんだろうと思うよ。中期は耐え抜いたが、最後の最後で封印が解けてしまった。その手に触れた女を不幸にして、死に追いやってしまう。しかし太宰本人は死ぬつもりはなかった。自殺現場には、最後には生への執着が出たらしく太宰が抵抗した跡が残り、あの女の人に首を絞められ死ぬか仮死状態で川に引きずり込まれた疑いがあったともいう。最後の女は逃げ去ってはくれなかった。あの女の人も、男性を枯らしてしまう『火の手』の持ち主だったのかもしれないね」

「火の手」は、『あさきゆめみし』を描いた作者の他の作品に出てくる言葉で、植物を育てる「緑の手」と、植物を枯らしてしまう「火の手」があるというお話だよ。源氏の「帚木」や「蜻蛉」のように、幸せを手に入れた瞬間、壊してしまう呪われた火の手の持ち主だったと父はいう。超新星のように、別れの瞬間、滅びの瞬間が、あの人にとってはいちばん美しいんだ。お嫁に行く別れの日の育ての親がいちばんきれいだったとか、「明ルサハ滅ビノ姿デアロウカ」とか。太宰にとって「女」とは、遠くで憧れるだけの存在で、永遠に手に入ることは不可能で追い続けるしかなかった存在なのに、最後の最後で、「タランチュラ」に捕まってしまった(「カルメン」があのタイトルになるのは、この話を覚えていてくれたからだね?)。

父の話が何かの参考になったのなら嬉しいな。そういえば、「レゾンデートルのエクスタシーとルナティック」を素で口にしてしまった君は、慌てて取り繕っていたけれど、あれが「葉」のエピグラフであるとすぐに見抜いた父も、なかなかの「勇者」でしょ? 父は「カリーヌ」とも楽しそうに話していたけれど、ボギャブラリー豊富でユニークな表現力の持ち主である君のことも、すっかりお気に召したようだ。
たいしたおもてなしはできないけれど、また遊びに来てね。父も絶対喜ぶ。母にも紹介したいな。

塁ちゃんへ、君の剣にして盾にして妹のレーンより。

PS
「カリーヌ」に何を聞いたか知らないけれど、僕は父を尊敬しているだけで、断じてファザコンではないからね!



ぉ友達の塁ちゃんです…はぃ。


最新の画像もっと見る