新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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マルクス主義と原子力

2012年08月22日 | 反原発・脱原発・エネルギー

 加藤哲郎教授の労作。

◇日本マルクス主義はなぜ「原子力」にあこがれたのか(ウェブ版)
http://members.jcom.home.ne.jp/katote/marxatom.pdf

 ネットの時代に、共産党お家芸の歴史捏造は、わが手によるネガティブキャンペーンでしかない。もっといえば、高木仁三郎氏らの脱原発運動を「反科学」と決めつけていた過去を自己批判する意志はないどころか、それを簒奪して居直るセクト主義と断じざるをえない。もちろん、第4インター襲撃の抗議声明に加わった高木氏を「脱落派」と決めつけ、ナーバスを仕掛けた、わが中核派も同様である。

 2011年5月10日に発表された、不破哲三「『科学の目』で原発災害を考える」によれば、日本共産党は原発に「最初からきっぱり反対」だったという。しかし、その典拠とされた決議のオリジナルは下記の通りだ。

「原子力の発見と解放によって、人類は一グラムの物質から二百五十億キロワット時という巨大なエネルギーをとりだせる可能性をえたばかりでなく、[工業、農業のあらゆる生産分野から医療その他の日常生活の領域にいたるまで、画期的な展望を見いだし、自然にたいする人類の英知のかがやかしい勝利を示した。]原子力の問題は、「軍事的利用と平和的利用というたがいに対立する深刻な二面性をもっている。原子力についての敵の宣伝は、原子力がもつ人類の福祉のための無限の可能性が、帝国主義と独占体の支配する資本主義社会においてそのまま自動的に実現できるかのように主張している。しかし、帝国主義と独占体の支配のもとでは、軍事的利用が中心におかれ、それへの努力が陰に陽に追求され、平和的利用は大きく制限される。したがって[軍事的利用を阻止し、平和利用、安全性をかちとる道は、帝国主義と独占体の支配の政策に反対する統一戦線の発展と勝利にむすびついている。原子力のもつ人類のあるゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させることは、人民が主権をもつ新しい民主主義の社会、さらに社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこのことを示している。]
 (1961 .7「原子力問題にかんする決議」(『日本共産党決議決定集 7』)

 [下線部]部分が省略されている。どこが「きっぱり」なのか。

 問題にすべきは、共産党が「平和利用」に現在もなぜこだわり続けるかだろう。

 昨年の毎日新聞での志位・福島対談でも、志位は「平和利用のための研究の道を閉ざすな」と主張していた。

 結局、ソ連・中国の核実験を支持して原水禁運動の分裂を招いた1960年代の「社会主義の防衛的核=原爆の平和利用・抑止力論」を今も捨てていないだけではないか。福島の悲劇を招いたいまなお、「平和勢力」による「平和利用」は認められるという論理では、かれらは「きっぱりと」首尾一貫しているのだ。

 帝国主義製であれ社会主義製であれ、核兵器の犠牲になるのは労働者大衆なのだ。そんな視点は、当時はゼロだったろうし、いまでもあやしい。社民の「空想的」反原発と同様に、共産党の「科学的」反原発も乗り越え対象にすぎない。それは「原子力安全神話」をもたらした現代最大の宗教である「科学 」の名のもとに、テクノロジーとテクノクラシーに人間を隷属化させるカルトの一形態にすぎないのだから。



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