松平文庫891 見性院様御代松岡給帳・
探源院様江大安院様より吉江御附人・探源院様御再勤後給帳
側室 お幾久(白石氏) | 昌勝(1636-1693) | 見性院、幼名千菊丸 越前松岡藩初代藩主 |
側室 お幾久(白石氏) | 昌勝(1636-1693) | 見性院、幼名千菊丸 越前松岡藩初代藩主 |
経久(=蓮忍)は、1250年前後に因幡国から冨城蓮忍と冨城常忍が下総の千葉氏の文官として帰国したところで幕を閉じる。
蓮忍は1180年以降の生まれと思われるので70歳前後である。
次の時代は長男経重である。
経重が冨城を名乗っていた形跡も何も残されていない。九里左衛門経重!である。
同時代の「経重」という名前は1240年に「源経重」が文書に出てくる。
また「平経重」も若狭国太良庄のことで文書が出てくる。
文書が残るほどの活躍をしていた人物かどうかはわからないが、可能性は残される。
個人的には太良庄の経重であったなら、面白いなぁ…と思うのだが、、、不明である。
「渋谷経重」も同時代あたりにいるが、系図には記載はない人物だそうである。
二男の経季に関しては下記に添付したが、寛喜三年(1232年)に登場する「参川前司経季朝臣」だったら、面白い!
右馬允経季 と系図にある。この経季は、近衛兼経の付き人?側近?
(岡屋関白)岡屋関白記 ↓
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/23/pub_kokiroku-okaya/
常忍の親戚とおもわれる中原能兼(藤能兼・橘朝臣能兼?)の文書の裏が広橋氏の文書となっており、広橋家の家司であったと思われるのだ。(1275年)本当は広橋氏の文書が正しい面で、能兼の文書が紙背となる。(広橋兼仲)
同じように、中原にも近衛家の家司がいたのではないだろうか?
室町時代・戦国時代にも、九里氏は近衛氏の家臣であったように。
経久の息は、長男経重・二男経季・五男常忍 以外はわかっていない。
そもそも、五男の常忍も息なのか、はたまた甥なのか、もわかっていない。
が、蓮忍と共に因幡国にいたのは五男の常忍なのだ。
常忍は「冨城」から「富木」となり、千葉氏の許にきてから日蓮の庇護者となっている。
それはだいたい1250年前後のことである。
…以上のようにアイマイモコの九里氏の歴史、なんせ今のところ系図は二つで、一つは九里の祖から五代分しかない。
和歌山の方の系図も一部分しかコピーをさせてもらえなかったそうで、本系図を探している。
そちらは、熊野に住している家で、熊野本宮の前坊の僧、または、御師、であったようである。
熊野とのご縁の前に、六角佐々木氏の家臣となった系があり、近江八幡の九里氏となり、また京極佐々木氏に残った方の九里は、彦根付近の九里、多賀大社付近の久徳氏なったのであろうと思う。
また、この和歌山の九里の兄の系が小堀氏となっており、やはり湖北の小堀氏とつながっているのではないかと思うのだ。
江戸時代初期に加賀藩の家臣となった九里氏に小堀政一は遊びに来て、家に長逗留している。寄付の依頼もされていたようである。
以下の武家家伝小堀氏の記事に「藤原氏秀郷流」と伝える…とあり、やはり近い祖のように思う。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kobori_k.html
…という事は、和歌山の系図は、秀郷から始まっているものであるかもしれない。
それ以前は藤原北家魚名流である。
因みに近衛家も広橋家(日野)も藤原北家である。
源義朝・秀郷流の妻、秀郷流の妻の再嫁先の中原‥‥では、私の直系の九里は何故「平姓」なのだろう。
何処かに平姓との接点があるはずと思う。
それが、因幡国の長田氏とのつながりではないかと思っているのだが‥‥
その接点が、鎌倉時代に在ったのではないだろうか?と。
《memo》
長田氏は桓武平氏の高望流であり、
日本通信百科によると、
長田氏の実質的な祖は、致兼の子の長田致頼であり、尾張国および三河国に多くの庶家を輩出した(三河平氏)。
致頼は長徳4年(998年)に、義理の又従兄弟[5]の平維衡と伊勢国神郡[6]において、戦いを繰り広げたため、のちに両者とも朝廷に出頭を命じられ尋問を受けたが、この際に維衡は直ちに非を認めて過状(詫び状)を提出して、位階は剥奪されずに淡路国へ移郷とされたのに対して、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかったため、位階を剥奪の上に隠岐国へ配流となった。3年後の長保3年(1001年)に致頼は赦免されて、従五位下に復された。
しかし、寛弘4年(1007年)の8月に藤原北家の藤原伊周・隆家兄弟が叔父の道長暗殺を致頼に命じていたという噂が流れていた[7]。また、『長徳の変』の際に致頼の弟の致光[8](右兵衛尉)らが伊周の郎党として、検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡していた[9][10]経緯があった。また、致頼の姉妹がすでに薨去していた伊周・隆家兄弟の父の道隆の家司である有道維広の室であり、その子で致頼の外甥でもある維能が伊周の家司であった事から、伊周らはそのつながりで、有道氏の姻戚関係である致頼らと通じていた可能性もある[11]。
前述の致頼の弟の致光[8]は、勅命でおなじく前述の大宰権帥・隆家に従軍して、渡海したツングース系女真を相手に奮戦して、戦功を挙げた(『刀伊の入寇』)。
忠致の代である平治元年(1159年)の『平治の乱』でにおいて、平清盛(維衡の6世の孫)に敗れた女婿の鎌田政清の主君である源義朝(義頼)の首級を、清盛からの恩賞目当ての欲にからんだ忠致は、子の景致とともに義朝を弑した(『野間の変』)。
歳月は流れて、義朝の子の頼朝が坂東地方で勢力を拡大すると、 建久元年(1190年)に亡父の仇を討つべく配下の御家人に忠致父子の討伐を命じた。しかし、忠致は頼朝に恭順の意向を示したが、かつて忠致によって亡父を騙し討ちにされた怨みを忘れない頼朝はかえって激怒して、これを許さずに忠致は子の景致と孫の清致とともに処刑されて、晒し首となり[12]、ここで長田氏嫡流は断絶した。
しかし、忠致の異母兄の親致(右衛門尉)・政致(宮内丞)父子は頼朝に許されて、土師姓大江氏一門の永井氏の婿養子となり、改姓した。『承久の乱』で戦功を挙げて、地頭・御家人に列した。戦国時代の致勝(永井直勝)の代になると、徳川家康・信康父子に仕えて、三河永井氏・大浜氏の祖となった。
現在の愛知県南セントレア市美浜町
尾張国春日井郡安食(葦敷)郷(現在の愛知県春日井市葦敷大字)を拠点とした。
庶家に尾張水野氏(庶家に毛受氏)など。
この系統は大浜氏・三河永井氏をのぞいて、陽成源氏満政流八島氏(羽島氏)の系統と自称(仮冒)した(『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年))。
致頼の祖父の良兼の異母弟の良将・良文の生母が高望王の妹で、それぞれの妻が高望王の娘であり、維衡の祖父の国香王(平貞盛の父)の大叔母で同時に叔母でもあった親族関係による。
現在の三重県松阪市全域
『小右記』寛弘4年8月9日条
『刀伊の入寇』で、太宰権帥の藤原隆家(藤原北家)に従った長田致頼の子の致行と同人物という(『清盛以前 - 伊勢平氏の興隆』(髙橋昌明/文理閣(改訂版)/2004年)19頁より)。
『小右記』長徳2年2月5日条
『百錬抄』長徳2年2月5日条
このときの道長は金峰山に向けて、8月2日に出立しており、13日には連絡をとるための勅使として源頼定(村上源氏)が派遣されたが、その翌日の14日に道長は無事に戻ってきており、結局は致頼による暗殺計画は実行されていなかった
忠致父子は、治承4年10月14日(1180年11月3日)に駿河国の『鉢田の戦い』で、橘遠茂とともに武田信義(甲斐源氏)によって、討ち取られたとする説もある(『清盛以前』(高橋昌明/平凡社ライブラリー版/2011年)。
『尊卑分脈』では、公雅の父とする良正を高望王の末子・良茂の子として、兄弟に公義・致成・致頼がおり、公雅は三浦氏・鎌倉氏(相模長尾氏・大庭氏・梶原氏)・土肥氏(中村氏)らの祖とする。他の説では、良兼の子に公雅を置き、致成・致頼を公雅の子とするなど系譜の混乱が見られ、系譜上の仮冒の疑いが濃い見方がある。
周囲を見ることで、より大江=中原一族の中のメンバーであった事に自信がついてきた。笑
そして、大江氏は村上源氏とも関係している。
まず法橋昌明も祖は村上源氏と云われている。
大江広元の息親広の養父は村上源氏久我流 源通親であり、親広の妻であった北条義時の娘
竹殿を源通親の息土御門定通に渡してしまうのである。
更に平安時代になるが、近江国佐佐木庄の領主であった源有仁の配下にも村上源氏の者たちがいた。
源有仁の母も源師忠の娘であり(輔仁親王室)、村上源氏である。
https://geocity1.com/okugesan_com/minamoto3.htm
しんごん 「親厳」をこのように読むようである。
この方のweb情報(googlebooksより)
しんごん[親厳] [越後大僧正・随心院大僧正・唐橋大僧正] 1151 (仁平元) ~ 1236 (嘉偵 2.11.2 ) [ 86 ]高京都の人。唐橋飛騨守中原親光の息。初,尊念僧都に密教を学び, 1181 (養和元) ,法住寺で顕厳から伝法灌頂を受け,伽を研修し,最も法験に秀れ・・・
實飛騨守中原親光息」とあり、隨心院大僧正、唐橋大僧正と称せられ、東寺長者、東大寺別当に補せられた。その義父の廣季は博士、廣季の子廣元は明経博士であり、博士家の一である中原家と血縁ある人であった。嚴瑜は「傳法灌頂師資相承血脈」によると
寛喜四年1232、三月十七日は親厳が宮中で如法愛染法を修した日です。
親厳は越後大僧正・隋心院大僧正・唐橋大僧正といわれ仁平元年1151年生まれ1236嘉禎二年十一月二日に八十六歳で遷化。平安後期-鎌倉時代の僧。唐橋飛騨守中原親光の息。尊念にまなび,法住寺で顕厳から伝法灌頂をうける。瑜伽を研修。法験にすぐれ神泉苑に祈雨すること数度。天変の御祈、中宮安産修法も務める。東寺長者・京都小野随心院初代門跡・東大寺別当。
此処に唐橋と出てくるが、広橋となっている物もある。
唐橋氏は1200年代からなので、もしかするとより古い「広橋」の方かもしれない。
法橋昌明は大江広元の養子水谷重清(広元の妹の息)と関係があるのだろうか。
法橋昌明が伯耆国会見郡 長田荘を賜ったとあったが、
鳥取県西伯郡南部町法勝寺488 |
辺りだろうか。松江と大山の中間付近にあたる。
さて、この法橋昌明を(大江姓)と書かれたweb情報があったので、
但馬国出石郡太田荘の法橋昌明が大江氏として、但馬国養父郡水谷大社の水谷重清も大江氏であることを思い出した。
この水谷重清は大江広元の妹の息である。しかも妹の夫は藤原秀郷流の近藤氏からつながる田村氏という。藤原仲教。
さらに、其の但馬国出石郡太田荘の位置を地図で確認すると、なんと・・・
左のオレンジ丸が太田荘・右が丹波国加佐郡の河守荘である。
法橋昌明のいた太田荘と河守荘とはかなり近い!!
此処には、蓮忍入道(九里の祖 中原経久)がいたのである。
すごい!繋がってきた。
つまり、中原太郎経久は大江氏の一族として、地頭として派遣されていたのである。
さらに、因幡国法美郡の富城郷も加えてみると…
青紫色の一番左が富城郷である。
確かに鎌倉前期の中原氏は大江氏と系図も重なっており、見分けつかない。
(中原氏一族として…と書いても全く構わないのだが。)
中原親光=大江親光
中原の親厳 = 大江の親厳 なのである。
其の親厳の息カ孫あたりに 九里経久が存在していたと思われるのだ。
因みに中原祐安は飛騨守でもあったのだが、中原大江親光も飛騨守である。
更に水谷の先祖となる近藤氏は、中原久経とともに源頼朝の配下の者として行動していた近藤国平につながるのではと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%9B%BD%E5%B9%B3
近江国近江八幡の九里村が隋心院の門跡領であったことも、親厳とのつながりがあったからと思う。
そして、美作氏から本郷氏になっていった(後の矢部氏にも?)人々も同じ大江氏であり、中原氏である九里氏とつながる人々であると思う。
同族かどうかまではわからないが、そのように思っている。
今までよくわからなかった太田昌明が、判りかけてきた。
「法橋昌明」と検索してみると
伯耆会見郡長田荘も賜わり…とある。
この「太田氏」は長田荘を賜ってから「長田氏」と名のるようになる。
法橋昌明は「鰐淵寺」にも関係していた。
村上源氏から始まり[名和氏]につながっていく系図となっているせいか「那波系図」にも記載がある様である。私はまだ確認はできていない。
那波氏となると、大江氏とも繋がってくる。長井氏にも繋がる。
メモ、秀郷流、佐貫、大江流
===*===
九里氏となる以前の富城蓮忍入道の息であった富木常忍が太田乗明の姉を娶っていた事、
太田氏の所領であった中山法華経寺の近く若宮に富木常忍の自宅もあった事、
このことから「太田乗明」は常忍に近い関係である。
三善氏の中にも「太田氏」があり源頼政の所領?の太田庄と関係するいう情報もあるが、
法橋昌明の線も捨てがたいと思っている。
今まで書いてきた記事も他のweb情報もプラスし再考したい。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%98%8C%E6%98%8E
http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/sonota/tanto_kyo/phaku7_3_m.pdf
http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/sonota/tanto_kyo/phaku7_6_m.pdf
太田氏(ー長田氏ー名和氏) コトバンクより
伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県)の豪族。村上源氏。史上有名な長年(ながとし)の祖父行盛(ゆきもり)は、「名和系図」によると、村上天皇(むらかみてんのう)皇子望平親王(もちひらしんのう)11代の後胤(こういん)で、伯耆国に流され、同国長田(ながた)を賜(たまわ)って長田氏を称した。長年に至って名和荘(なわのしょう)(鳥鳥取県西伯(さいはく)郡大山(だいせん)町)に住して名和氏を称す。長年は建武(けんむ)新政府の権臣として因幡(いなば)、伯耆2国を領したが、建武政権に反した足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦って死んだ(1336)。子義高(よしたか)も2年後に戦死した。長年の孫顕興(あきおき)のとき肥後国八代(やつしろ)(熊本県八代市)に移り、その後顕忠(あきただ)の代に同国宇土(うと)(同県宇土市)に移り(16世紀初頭)、宇土氏を称した。顕孝(あきたか)のときに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州征服のために宇土を失い、諸国流浪ののち、1621年(元和7)立花(たちばな)氏の領する筑後国(ちくごのくに)柳川(福岡県柳川市)に迎えられ、約300年を送った。明治に至り、長恭(ながゆき)が名和神社宮司となり男爵を授けられた。
[田辺久子]
『平泉澄著『名和世家』(1954・日本文化研究所)』
中世南朝方の有力武家。村上源氏右大臣顕房の子孫と伝え,鎌倉時代行盛が配流され伯耆国長田邑を領し長田氏を称したという。長年は同国名和荘に住し名和氏を称したが,1333年(元弘3)隠岐に配流された後醍醐天皇を船上山に迎えてこれを助け,その功により建武政権から伯耆守に任じられ,因・伯2国を領した。しかし36年(延元1∥建武3)京都で足利尊氏勢と戦い子息らとともに討死した。孫の顕興は伯父義高が地頭職を得ていた肥後国八代荘に一族をあげて下向し,以後肥後南朝方の一中心となった。
…建武新政期の武将。当初,伯耆国長田(ながた)荘を名字の地とし,長田又太郎長高といったが,長講堂領稲積荘内と推定される名和に館 を構え,名和氏を称し,富裕な人として知られた。この荘の海辺には天皇家の御厨(みくりや),賀茂社領など海民の拠点があり,のちに後醍醐天皇が長年に与 えたという帆掛船の紋や,《蔗軒日録》に彼が鰯売(いわしうり)の商人と伝えられている点からみて,名和氏は海民を基盤にもつ廻船人,商人と関係があったものと思われる。…
太田乗明
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index130.htm
○大田乗明
大田乗明は日蓮聖人と同じ貞応元(一二二二)年に誕生しています。富木氏と同じく千葉氏の被官だったのが大田乗明です。この主君である千葉頼胤の系統に、中山法華経寺第三世の日祐上人がいます。大田金吾・大田五郎左衛門尉ともいいます。祖先について四つの説があります。
この四説のなかでは、『本化聖典大辞林』(六五五頁)には、二番目の『門葉縁起』や『年譜攷異』の説に従うのを可としています。
また、大田氏は富木氏と同じように在地性はうすく、幼少の千葉頼胤(一二三九~七五年)を扶けるために移住してきた、越中に地頭職をもつ武士といいます。建長元年に閑院内裏造営にあたり、裏築地の押小路面二〇本のうち二本を、越中大田左衛門尉に課せられ、この造営にあたった、ほぼ二五〇名が北条氏をはじめとした各地の御家人で、千葉介も西対を担当していました。中尾尭先生は「太田保」と関係をもつのではないかとのべています。(『日蓮宗の成立と展開』四〇頁)。
大田氏は弘安元年に入道して、法名を妙日と改めています。弘安六年九月二六日に六二歳で逝去したといいます。先の『統紀』の説(七六歳)とは違うことになります。日蓮聖人と大田乗明との関係は、大田乗明の妻が日蓮聖人の従兄妹であることから、縁戚があったことがわかります。この関係から、大田乗明は曽谷教信とならんで、聖人遊学中の資縁を送り、入滅に至るまで毎月の扶持米を奉った家柄であることが頷けます。このことから、日蓮聖人は大田夫妻を父母に準じて、乘明には妙日、妻には妙蓮の法号を授けられたとしているのです。(『境妙庵目録』)。
また、中山の土地は大田乗明のものであり、若宮が富木氏の所有であることは、大田乗明の父親と富木常忍の母親が縁戚関係であることになります。ここに、三氏が日蓮聖人の家族を援助していたとする理由が、日蓮聖人の母親と縁戚であったことになります。日蓮聖人と富木常忍とは、血のつながりはありませんが、富木氏は無二の人といわれるほど信頼された人でした。しかし、経済的には裕福でなかったと書かれています。(「なれど貧者のゆえに意に任せざるなり」)。
大田乗明は『観心本尊抄』を直接あたえられた人物であり、学問にも精通し外護の信徒として布施を多く送っています。その妻も夫乘明とともに、早くから日蓮聖人に帰依し教化をうけています。日蓮聖人が鎌倉にいたときは、鎌倉に住していたこともあったのではないか、ともいわれ、身延に入山してからも篤信の行いを続けています。文永一二(一二七五)年の『曽谷入道殿許御書』(九一〇頁)に、曽谷氏とともに越中に所領があったことがわかります。このころ大田乗明氏は越中にいたようです。
メモ、那波氏
この人物、他の記載では一品房昌寛(頼朝の右筆)の次に書かれているので、兄弟かもしれない。昌寛に昌明