九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

九里波之丞と九ノ里文之丞 九ノ里誠一と九里誠一郎 (2)

2023-10-20 | 九里バラバラ情報
前回の(1)で「別紙」をご紹介したが、これは、我が九里(柏原藩)に来た書状である。

当然、我が九里が出した方は読むことができないので、詳しくはわからないのだが、我が九里の方は牧野備前守のもとにいた九里のことは知っていたと思われる。

其の牧野備前守とは、年代的にも『牧野備前守忠精』ではないかと思う。
文中に寛政年中とある為、寛政以降の年代での牧野氏となる。


長岡藩には九里氏がたくさんいる。
今まで長岡藩に関しては資料が見つからなかったのだが、国立国会図書館のデジタルに見出した。


ここでは、九里と改めた後に「佐々木」と復しているそうである。

こちらをぞっこん信じてしまってよいものかどうか、悩めるところであるが、嬉しい情報でもある。

国立国会図書館のデジタルで、九里波之丞と検索すると戊辰戦争での活躍のほか、能楽でも活躍していたことがわかり、幅の広い人物であったことがわかる。ちなみに、能は喜多流とある。
web情報によると、戊辰戦争で歿したことになっていた。


九里文之丞の方は、明治に入ってすぐに柏原の家を引き払い、どうも神戸あたりに出たのではないかと思う。

そこでは米穀雑貨商を営んでいたと思われ、釧路に入った後も同業でありその時のルートから醤油・味噌・鰹節等を入手していたと聞いている。

*****

九里誠一と誠一郎は、次回となる。

memo

松平文庫891 見性院様御代松岡給帳・
探源院様江大安院様より吉江御附人・探源院様御再勤後給帳


九里杢之丞

松平昌親(幼名:福松、初名:昌明/院号:探源院
                          
側室 お幾久(白石氏)昌勝(1636-1693)見性院、幼名千菊丸
 越前松岡藩初代藩主
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九里経久の時代から経重・経季・常忍の時代へ (1)

2022-03-12 | 九里【まとめ】

経久(=蓮忍)は、1250年前後に因幡国から冨城蓮忍と冨城常忍が下総の千葉氏の文官として帰国したところで幕を閉じる。

蓮忍は1180年以降の生まれと思われるので70歳前後である。

 

次の時代は長男経重である。

経重が冨城を名乗っていた形跡も何も残されていない。九里左衛門経重!である。

同時代の「経重」という名前は1240年に「源経重」が文書に出てくる。

また「平経重」も若狭国太良庄のことで文書が出てくる。

文書が残るほどの活躍をしていた人物かどうかはわからないが、可能性は残される。

個人的には太良庄の経重であったなら、面白いなぁ…と思うのだが、、、不明である。

「渋谷経重」も同時代あたりにいるが、系図には記載はない人物だそうである。

 

二男の経季に関しては下記に添付したが、寛喜三年(1232年)に登場する「参川前司経季朝臣」だったら、面白い!

右馬允経季 と系図にある。この経季は、近衛兼経の付き人?側近?

岡屋関白)岡屋関白記 ↓

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/23/pub_kokiroku-okaya/ 

 

 

 

常忍の親戚とおもわれる中原能兼(藤能兼・橘朝臣能兼?)の文書の裏が広橋氏の文書となっており、広橋家の家司であったと思われるのだ。(1275年)本当は広橋氏の文書が正しい面で、能兼の文書が紙背となる。(広橋兼仲)

 

同じように、中原にも近衛家の家司がいたのではないだろうか?

室町時代・戦国時代にも、九里氏は近衛氏の家臣であったように。

 

経久の息は、長男経重・二男経季・五男常忍 以外はわかっていない。

そもそも、五男の常忍も息なのか、はたまた甥なのか、もわかっていない。

が、蓮忍と共に因幡国にいたのは五男の常忍なのだ。

常忍は「冨城」から「富木」となり、千葉氏の許にきてから日蓮の庇護者となっている。

それはだいたい1250年前後のことである。

 

 

…以上のようにアイマイモコの九里氏の歴史、なんせ今のところ系図は二つで、一つは九里の祖から五代分しかない。

和歌山の方の系図も一部分しかコピーをさせてもらえなかったそうで、本系図を探している。

そちらは、熊野に住している家で、熊野本宮の前坊の僧、または、御師、であったようである。

熊野とのご縁の前に、六角佐々木氏の家臣となった系があり、近江八幡の九里氏となり、また京極佐々木氏に残った方の九里は、彦根付近の九里、多賀大社付近の久徳氏なったのであろうと思う。

また、この和歌山の九里の兄の系が小堀氏となっており、やはり湖北の小堀氏とつながっているのではないかと思うのだ。

 

江戸時代初期に加賀藩の家臣となった九里氏に小堀政一は遊びに来て、家に長逗留している。寄付の依頼もされていたようである。

以下の武家家伝小堀氏の記事に「藤原氏秀郷流」と伝える…とあり、やはり近い祖のように思う。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kobori_k.html

 

…という事は、和歌山の系図は、秀郷から始まっているものであるかもしれない。

それ以前は藤原北家魚名流である。

因みに近衛家も広橋家(日野)も藤原北家である。

 

義朝・秀郷流の妻、秀郷流の妻の再嫁先の中原‥‥では、私の直系の九里は何故「平姓」なのだろう。

何処かに平姓との接点があるはずと思う。

それが、因幡国の長田氏とのつながりではないかと思っているのだが‥‥

その接点が、鎌倉時代に在ったのではないだろうか?と。

 

《memo》

長田氏は桓武平氏の高望流であり、

日本通信百科によると、

長田氏の実質的な祖は、致兼の子の長田致頼であり、尾張国および三河国に多くの庶家を輩出した(三河平氏)。

致頼は長徳4年(998年)に、義理の又従兄弟[5]平維衡伊勢国神郡[6]において、戦いを繰り広げたため、のちに両者とも朝廷に出頭を命じられ尋問を受けたが、この際に維衡は直ちに非を認めて過状(詫び状)を提出して、位階は剥奪されずに淡路国へ移郷とされたのに対して、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかったため、位階を剥奪の上に隠岐国へ配流となった。3年後の長保3年(1001年)に致頼は赦免されて、従五位下に復された。

しかし、寛弘4年(1007年)の8月に藤原北家藤原伊周隆家兄弟が叔父の道長暗殺を致頼に命じていたという噂が流れていた[7]。また、『長徳の変』の際に致頼の弟の致光[8](右兵衛尉)らが伊周の郎党として、検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡していた[9][10]経緯があった。また、致頼の姉妹がすでに薨去していた伊周・隆家兄弟の父の道隆の家司である有道維広の室であり、その子で致頼の外甥でもある維能が伊周の家司であった事から、伊周らはそのつながりで、有道氏の姻戚関係である致頼らと通じていた可能性もある[11]

前述の致頼の弟の致光[8]は、勅命でおなじく前述の大宰権帥・隆家に従軍して、渡海したツングース系女真を相手に奮戦して、戦功を挙げた(『刀伊の入寇』)。

忠致の代である平治元年(1159年)の『平治の乱』でにおいて、平清盛(維衡の6世の孫)に敗れた女婿の鎌田政清の主君である源義朝義頼)の首級を、清盛からの恩賞目当ての欲にからんだ忠致は、子の景致とともに義朝を弑した(『野間の変』)。

歳月は流れて、義朝の子の頼朝が坂東地方で勢力を拡大すると、 建久元年(1190年)に亡父の仇を討つべく配下の御家人に忠致父子の討伐を命じた。しかし、忠致は頼朝に恭順の意向を示したが、かつて忠致によって亡父を騙し討ちにされた怨みを忘れない頼朝はかえって激怒して、これを許さずに忠致は子の景致と孫の清致とともに処刑されて、晒し首となり[12]、ここで長田氏嫡流は断絶した。

しかし、忠致の異母兄の親致(右衛門尉)・政致(宮内丞)父子は頼朝に許されて、土師姓大江氏一門の永井氏の婿養子となり、改姓した。『承久の乱』で戦功を挙げて、地頭・御家人に列した。戦国時代の致勝(永井直勝)の代になると、徳川家康信康父子に仕えて、三河永井氏・大浜氏の祖となった。

  1. 平致兼(公雅/垂木主膳)
  2. 長田致頼 : 致兼の子、致利・致成[13]の弟、致光[8]・致遠・入禅(僧侶)の兄。
  3. 長田重致(公仕) : 致頼の子、致行[8]・致親[14]浦野致経(葦敷致経)[15]の兄
  4. 長田致房 : 重致の子、経致・致家の弟、致通の兄。
  5. 長田行致 : 致房の子、貞致・長致の弟。
  6. 長田致俊 : 行致の子、宗致(もとむね)の兄。
  7. 長田忠致 : 致俊の子、親致・致直の弟。
  8. 長田景致 : 忠致の子、致将の弟、致宗(むねもと)・致範(致教)の兄。
  9. 長田清致

親致系(永井氏)

  1. 永井親致 : 致俊の子、致直・忠致の兄。三河永井氏・大浜氏の祖。
  2. 永井政致 : 親致の子、秀致[16]の弟。
  3. 永井致重 : 政致の子、定致[17]の兄。
  4. 永井俊致 : 致重の子、致政の弟。
  5. 永井致広 : 俊致の子、致直の兄。
  6. 永井致道 : 致広の子、 : 致政・致慶[18]の弟。
  7. 永井直致(致継) : 致道の子、致国[19]の兄。
  8. 永井道致(公臼) : 直致の子、道致[20]の兄。
  9. 永井致常(広致) : 道致の子、信致[21]
  10. 永井致正
  11. 永井吉致(重元/直吉) : 致正の子、重致の弟、致吉の兄。
  12. 永井致勝直勝) : 吉致の子、大浜直元(長田致元)[22]の弟。

脚注

 

現在の愛知県南セントレア市美浜町

尾張国春日井郡安食(葦敷)郷(現在の愛知県春日井市葦敷大字)を拠点とした。

庶家に尾張水野氏(庶家に毛受氏)など。

この系統は大浜氏・三河永井氏をのぞいて、陽成源氏満政流八島氏羽島氏)の系統と自称(仮冒)した(『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年))。

致頼の祖父の良兼の異母弟の良将良文の生母が高望王の妹で、それぞれの妻が高望王の娘であり、維衡の祖父の国香王平貞盛の父)の大叔母で同時に叔母でもあった親族関係による。

現在の三重県松阪市全域

『小右記』寛弘4年8月9日条

『刀伊の入寇』で、太宰権帥の藤原隆家(藤原北家)に従った長田致頼の子の致行と同人物という(『清盛以前 - 伊勢平氏の興隆』(髙橋昌明/文理閣(改訂版)/2004年)19頁より)。

『小右記』長徳2年2月5日条

『百錬抄』長徳2年2月5日条

このときの道長は金峰山に向けて、8月2日に出立しており、13日には連絡をとるための勅使として源頼定村上源氏)が派遣されたが、その翌日の14日に道長は無事に戻ってきており、結局は致頼による暗殺計画は実行されていなかった

忠致父子は、治承4年10月14日(1180年11月3日)に駿河国の『鉢田の戦い』で、橘遠茂とともに武田信義甲斐源氏)によって、討ち取られたとする説もある(『清盛以前』(高橋昌明/平凡社ライブラリー版/2011年)。

『尊卑分脈』では、公雅の父とする良正を高望王の末子・良茂の子として、兄弟に公義致成致頼がおり、公雅は三浦氏鎌倉氏相模長尾氏大庭氏梶原氏)・土肥氏(中村氏)らの祖とする。他の説では、良兼の子に公雅を置き、致成・致頼を公雅の子とするなど系譜の混乱が見られ、系譜上の仮冒の疑いが濃い見方がある。

 

 

 

 

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しんごん 親厳 

2022-01-09 | 九里【まとめ】

周囲を見ることで、より大江=中原一族の中のメンバーであった事に自信がついてきた。笑

 

そして、大江氏は村上源氏とも関係している。

まず法橋昌明も祖は村上源氏と云われている。

大江広元の息親広の養父は村上源氏久我流 源通親であり、親広の妻であった北条義時の娘 

竹殿を源通親の息土御門定通に渡してしまうのである。

 

更に平安時代になるが、近江国佐佐木庄の領主であった源有仁の配下にも村上源氏の者たちがいた。

源有仁の母も源師忠の娘であり(輔仁親王室)、村上源氏である。

https://geocity1.com/okugesan_com/minamoto3.htm

 

しんごん 「親厳」をこのように読むようである。

この方のweb情報(googlebooksより)

しんごん[親厳] [越後大僧正・随心院大僧正・唐橋大僧正] 1151 (仁平元) ~ 1236 (嘉偵 2.11.2 ) [ 86 ]高京都の人。唐橋飛騨守中原親光の息。初,尊念僧都に密教を学び, 1181 (養和元) ,法住寺で顕厳から伝法灌頂を受け,伽を研修し,最も法験に秀れ・・・

 

飛騨守中原親光息」とあり、隨心院大僧正、唐橋大僧正と称せられ、東寺長者、東大寺別当に補せられた。その義父の廣季は博士、廣季の子廣元は明経博士であり、博士家の一である中原家と血縁ある人であった。嚴瑜は「傳法灌頂師資相承血脈」によると

 

寛喜四年1232、三月十七日は親厳が宮中で如法愛染法を修した日です。
親厳は越後大僧正・隋心院大僧正・唐橋大僧正といわれ仁平元年1151年生まれ1236嘉禎二年十一月二日に八十六歳で遷化。平安後期-鎌倉時代の僧。唐橋飛騨守中原親光の息。尊念にまなび,法住寺で顕厳から伝法灌頂をうける。瑜伽を研修。法験にすぐれ神泉苑に祈雨すること数度。天変の御祈、中宮安産修法も務める。東寺長者・京都小野随心院初代門跡・東大寺別当。

 

此処に唐橋と出てくるが、広橋となっている物もある。

唐橋氏は1200年代からなので、もしかするとより古い「広橋」の方かもしれない。

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常陸房昌明 = 太田昌明 = 法橋昌明 =  後裔が長田を名乗る

2022-01-09 | 太田・大田氏

法橋昌明は大江広元の養子水谷重清(広元の妹の息)と関係があるのだろうか。

法橋昌明が伯耆国会見郡 長田荘を賜ったとあったが、

  鳥取県西伯郡南部町法勝寺488

辺りだろうか。松江と大山の中間付近にあたる。

さて、この法橋昌明を(大江姓)と書かれたweb情報があったので、

但馬国出石郡太田荘の法橋昌明が大江氏として、但馬国養父郡水谷大社の水谷重清も大江氏であることを思い出した。

この水谷重清は大江広元の妹の息である。しかも妹の夫は藤原秀郷流の近藤氏からつながる田村氏という。藤原仲教。

さらに、其の但馬国出石郡太田荘の位置を地図で確認すると、なんと・・・

左のオレンジ丸が太田荘・右が丹波国加佐郡の河守荘である。

法橋昌明のいた太田荘と河守荘とはかなり近い!!

此処には、蓮忍入道(九里の祖 中原経久)がいたのである。

すごい!繋がってきた。

つまり、中原太郎経久は大江氏の一族として、地頭として派遣されていたのである。

さらに、因幡国法美郡の富城郷も加えてみると…

青紫色の一番左が富城郷である。

 

確かに鎌倉前期の中原氏は大江氏と系図も重なっており、見分けつかない。

(中原氏一族として…と書いても全く構わないのだが。)

中原親光=大江親光 

中原の親厳 = 大江の親厳 なのである。

 

其の親厳の息カ孫あたりに 九里経久が存在していたと思われるのだ。

 

因みに中原祐安は飛騨守でもあったのだが、中原大江親光も飛騨守である。

 

更に水谷の先祖となる近藤氏は、中原久経とともに源頼朝の配下の者として行動していた近藤国平につながるのではと思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%9B%BD%E5%B9%B3

 

近江国近江八幡の九里村が隋心院の門跡領であったことも、親厳とのつながりがあったからと思う。

そして、美作氏から本郷氏になっていった(後の矢部氏にも?)人々も同じ大江氏であり、中原氏である九里氏とつながる人々であると思う。

同族かどうかまではわからないが、そのように思っている。

 

 

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法橋昌明 

2022-01-03 | 太田・大田氏

今までよくわからなかった太田昌明が、判りかけてきた。

「法橋昌明」と検索してみると

伯耆会見郡長田荘も賜わり…とある。

この「太田氏」は長田荘を賜ってから「長田氏」と名のるようになる。

 

法橋昌明は「鰐淵寺」にも関係していた。

村上源氏から始まり[名和氏]につながっていく系図となっているせいか「那波系図」にも記載がある様である。私はまだ確認はできていない。

那波氏となると、大江氏とも繋がってくる。長井氏にも繋がる。

 

メモ、秀郷流、佐貫、大江流

===*===

 九里氏となる以前の富城蓮忍入道の息であった富木常忍が太田乗明の姉を娶っていた事、

太田氏の所領であった中山法華経寺の近く若宮に富木常忍の自宅もあった事、

このことから「太田乗明」は常忍に近い関係である。

 

三善氏の中にも「太田氏」があり源頼政の所領?の太田庄と関係するいう情報もあるが、

法橋昌明の線も捨てがたいと思っている。

 

今まで書いてきた記事も他のweb情報もプラスし再考したい。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%98%8C%E6%98%8E

http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/sonota/tanto_kyo/phaku7_3_m.pdf

http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/sonota/tanto_kyo/phaku7_6_m.pdf

 

太田氏(ー長田氏ー名和氏) コトバンクより

伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県)の豪族村上源氏。史上有名な長年(ながとし)の祖父行盛(ゆきもり)は、「名和系図」によると、村上天皇(むらかみてんのう)皇子望平親王(もちひらしんのう)11代の後胤(こういん)で、伯耆国に流され、同国長田(ながた)を賜(たまわ)って長田氏を称した。長年に至って名和荘(なわのしょう)(鳥鳥取県西伯(さいはく)郡大山(だいせん)町)に住して名和氏を称す。長年は建武(けんむ)新政府の権臣として因幡(いなば)、伯耆2国を領したが、建武政権に反した足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦って死んだ(1336)。子義高(よしたか)も2年後に戦死した。長年の孫顕興(あきおき)のとき肥後国八代(やつしろ)(熊本県八代市)に移り、その後顕忠(あきただ)の代に同国宇土(うと)(同県宇土市)に移り(16世紀初頭)、宇土氏を称した。顕孝(あきたか)のときに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州征服のために宇土を失い、諸国流浪ののち、1621年(元和7)立花(たちばな)氏の領する筑後国(ちくごのくに)柳川(福岡県柳川市)に迎えられ、約300年を送った。明治に至り、長恭(ながゆき)が名和神社宮司となり男爵を授けられた。

[田辺久子]

『平泉澄著『名和世家』(1954・日本文化研究所)』

 

中世南朝方の有力武家。村上源氏右大臣顕房の子孫と伝え,鎌倉時代行盛が配流され伯耆国長田邑を領し長田氏を称したという。長年は同国名和荘に住し名和氏を称したが,1333年(元弘3)隠岐に配流された後醍醐天皇船上山に迎えてこれを助け,そのにより建武政権から伯耆守に任じられ,因・伯2国を領した。しかし36年(延元1∥建武3)京都で足利尊氏勢と戦い子息らとともに討死した。孫の顕興は伯父義高が地頭職を得ていた肥後国八代荘に一族をあげて下向し,以後肥後南朝方の一中心となった。

…建武新政期の武将。当初,伯耆国長田(ながた)荘を名字の地とし,長田又太郎長高といったが,長講堂領稲積荘内と推定される名和に館 を構え,名和氏を称し,富裕な人として知られた。この荘の海辺には天皇家の御厨(みくりや),賀茂社領など海民の拠点があり,のちに後醍醐天皇が長年に与 えたという帆掛船の紋や,《蔗軒日録》に彼が鰯売(いわしうり)の商人と伝えられている点からみて,名和氏は海民を基盤にもつ廻船人,商人と関係があったものと思われる。…

 

 

太田乗明

http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index130.htm

○大田乗明

  大田乗明は日蓮聖人と同じ貞応元(一二二二)年に誕生しています。富木氏と同じく千葉氏の被官だったのが大田乗明です。この主君である千葉頼胤の系統に、中山法華経寺第三世の日祐上人がいます。大田金吾・大田五郎左衛門尉ともいいます。祖先について四つの説があります。

  • 乘明の祖先は源三位頼政で、丹州(丹波)五箇の庄、太田城に住していたので大田氏と名のったという。『本化別頭仏祖統紀』。
  • 太田氏の中宮太夫三善康信で、子の民部大夫康連が、備後国(広島県東部)太田荘にいたので、大田の姓を名のったとあります。康連は鎌倉問註所の執事を務め、乘明はその子であるとしています。乘明は父と同じく門註所に出仕し、左衛門尉になったとあります。また、所領は越中にあり、中山は役領といいます。
  • 中山の所領は実朝公のとき、康連が拝領した中山四郎重政の旧領であり、そのとき、富木氏の母も拝領したとあります。『境妙庵目録』(『本化聖典大辞林』上。六五二頁)。また、妻の於経(恒)は道野辺右京の孫で、日蓮聖人と従兄妹といいます。(『高祖年譜攷異』・『門葉縁起』・『御書略註』)。
  • あるいは、常州(常陸)那河郡の大守とあります。(『高祖年譜攷異』)。

この四説のなかでは、『本化聖典大辞林』(六五五頁)には、二番目の『門葉縁起』や『年譜攷異』の説に従うのを可としています。

また、大田氏は富木氏と同じように在地性はうすく、幼少の千葉頼胤(一二三九~七五年)を扶けるために移住してきた、越中に地頭職をもつ武士といいます。建長元年に閑院内裏造営にあたり、裏築地の押小路面二〇本のうち二本を、越中大田左衛門尉に課せられ、この造営にあたった、ほぼ二五〇名が北条氏をはじめとした各地の御家人で、千葉介も西対を担当していました。中尾尭先生は「太田保」と関係をもつのではないかとのべています。(『日蓮宗の成立と展開』四〇頁)。

大田氏は弘安元年に入道して、法名を妙日と改めています。弘安六年九月二六日に六二歳で逝去したといいます。先の『統紀』の説(七六歳)とは違うことになります。日蓮聖人と大田乗明との関係は、大田乗明の妻が日蓮聖人の従兄妹であることから、縁戚があったことがわかります。この関係から、大田乗明は曽谷教信とならんで、聖人遊学中の資縁を送り、入滅に至るまで毎月の扶持米を奉った家柄であることが頷けます。このことから、日蓮聖人は大田夫妻を父母に準じて、乘明には妙日、妻には妙蓮の法号を授けられたとしているのです。(『境妙庵目録』)。

 また、中山の土地は大田乗明のものであり、若宮が富木氏の所有であることは、大田乗明の父親と富木常忍の母親が縁戚関係であることになります。ここに、三氏が日蓮聖人の家族を援助していたとする理由が、日蓮聖人の母親と縁戚であったことになります。日蓮聖人と富木常忍とは、血のつながりはありませんが、富木氏は無二の人といわれるほど信頼された人でした。しかし、経済的には裕福でなかったと書かれています。(「なれど貧者のゆえに意に任せざるなり」)。

大田乗明は『観心本尊抄』を直接あたえられた人物であり、学問にも精通し外護の信徒として布施を多く送っています。その妻も夫乘明とともに、早くから日蓮聖人に帰依し教化をうけています。日蓮聖人が鎌倉にいたときは、鎌倉に住していたこともあったのではないか、ともいわれ、身延に入山してからも篤信の行いを続けています。文永一二(一二七五)年の『曽谷入道殿許御書』(九一〇頁)に、曽谷氏とともに越中に所領があったことがわかります。このころ大田乗明氏は越中にいたようです。

 

メモ、那波氏


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長田余一入道昌遍 と 法橋太田昌明の関係は?

2021-12-20 | 九里バラバラ情報
島根県史
守護地頭時代. 6巻附図 法橋昌明 後鳥羽上皇の御召に応じなかった…ということで但馬国守護職と荘園を賜っていることが吾妻鑑に記載がある。
 
この法橋昌明1223年-1228年 進美寺文書に顔をだす。
承久軍物語には「ひたちはうしやうめい」とあり常陸房昌明というらしいことがわかる。

この人物、他の記載では一品房昌寛(頼朝の右筆)の次に書かれているので、兄弟かもしれない。昌寛に昌明

   
 
 
さて、なぜこだわっているかというと「朝山氏」の中に養子として長田余一入道昌元という人物と、その息貞昌の名が見えるからである。長田左衛門尉雅綱という名も見える。長田広雅の子孫と思われると「六波羅探題の研究」(森幸夫著)にも書かれている。
 
となると、因幡国の長田氏と出雲国の長田氏もつながりがある事になるのではないだろうか。
 
 
そして、突然なのだが、ココで紀氏の裔でもある近江国田中氏の系譜を佐々木哲学校の記事から貸していただこうと思う。
 
 
 
田中氏系図

出雲守氏綱(四郎)─左衛門尉雅綱─下野守頼久─頼冬─太郎頼兼
 
出雲守氏綱は、佐々木田中出雲守氏綱である。
 
この雅綱なのではないか?と思っているのが1320年に飯野文書に出てくる長田太郎左衛門尉雅綱である。↓
 
「陸奥飯野文書
元応 2 年 3 月 2 日 関東下知状 鎌倉遺文 出雲 長田余一入道昌遍 長田次郎貞昌 出雲国 長田郷 柒治郷 雑掌教円 杵築大社頭役 雑掌虚成 兼俊 昌有 国司 長田太郎左衛門尉雅綱」とある。
 
前回の「(高島佐々木流永田氏)永田胤信が品川胤信だったのではないか?」に引き続き、
 
今回は「高島佐々木流田中氏の田中雅綱もまた、長田雅綱でもあり、紀氏なのではないだろうか?」と想像している。
 
佐々木となる経方の妻紀盛宗娘にはじまる系譜は、思っていた以上に「紀氏」のつながりが強く、その為に国衙在庁官人や守護、地頭職となった者や、神社関係に入り込んでいた者が、いたのかもしれない、と思うのである。
 
つまり、佐々木の中の紀氏が各地に入っていたというような…感じになるのではないだろうか?
 
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常陸房海尊 (コメントの件)

2021-02-18 | 太田・大田氏



昔の方も、同一人物ではないかと探っていたようです。
便り左に…となっておりますが、その便りは載っておりませんでした。

コトバンクには海尊は「源平合戦をかたりつたえたとされる。」とありました。

平家物語 文治二年五月十二日 に「常陸房 昌命」(昌明と同一人物ヵ?)も出ているようです。




https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
の検索ワードに気になる人物の名前を入れてみると、出てくるかもしれません。

また、googlebooksにも、出ておりましたが、昌明との関係はわかりません。
ただ、秦氏であったようで、是も面白いデス。


https://books.google.co.jp/books?id=fcTA3GKhZ4kC&pg=PP898&dq=%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwicrs2NnvLuAhWlUN4KHTG7AcQQ6AEwB3oECAgQAg#v=onepage&q=%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A&f=false


また、情報が入った際には記事にしたいと思います。

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武功夜話の登場人物 富樫氏流坪内氏 そして富樫氏周辺 に 疋田斎藤氏あり!

2020-11-13 | 井口氏 バラバラ情報

今まであまりこのブログには取り上げてこなかった「井口氏」
勿論九里氏の始りの系図の名前「近江国御家人井口中原系図」には「井口」とあり、関係はあったのですが…コレカラ登場してくる予感があり。

===*===

富樫氏流坪内氏にかんしては、詳しくはわからず、前回の記事を参照願うが、その富樫氏!

その富樫氏、祖は藤原利仁であると「赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!」さんのページから情報を得た。

https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%AF%8C%E6%A8%AB%E6%B0%8F


富樫氏から坪内氏だが、その富樫氏を遡ると以前探していた石黒氏が登場し、更に宮崎氏・斎藤氏・林氏・井口氏などと繋がっていることがわかってくる。


https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/6a7-01-02-03-01.htm



そして今まで気に留めていなかった「疋田斎藤氏」
この疋田斎藤氏と大江通景、更に突き進んで鎌倉時代には「野本氏」「清原清定の系」も、この疋田斎藤氏と関係がありそうなのである。

この大江通景は中原広忠とほぼ同時代という。同じ外記補任の同じページに記載がある。
父親が尾張貞親が広忠の祖父であり、其の広忠が大江広元の祖父である。







そしてもしも富樫光景が前野長康とすれば、長康は「但馬国出石」に所領を持っていたという。
其の出石は、法橋太田昌明の裔(但馬国出石、大田庄)(石見国 銀山 大田?) 、そして弘安8但馬国大田文に「菅庄41丁7反300分(八幡宮領)」とあり・北方地頭肥前左衛門太郎経久、南方地頭多々良岐孫太郎長基(但馬国出石 菅荘)
と、出石にも多々荘園は合ったろうと思うのだが、関係があるかもしれない。

この辺りを、少し調べてすっきりさせたいと思っている。

さて、野本氏。久々の登場であるが、以下のようにweb情報があった。
この疋田斎藤氏が東国でも活躍していたことがわかるのではないだろうか?
ともかく、たくさんの課題が武功夜話を読んだことでいただいた!というのが感想である。

http://saitama-myouji.my.coocan.jp/2-5sa.html
 六 斎藤氏流野本氏 比企郡野本村(東松山市)より起る。尊卑分脈に「疋田斎藤為延―為頼―竹田四郎大夫頼基―基親―基員(住武蔵国、実は継孫武蔵国下河辺左衛門尉政義の子也。武蔵国に住して、野本左衛門と号す)」。疋田系図に「斎藤左衛門大夫基員(武蔵国野木に住す)」とあり、野木は野本の誤りなり。吾妻鑑建久四年十月条に野本斎藤左衛門大夫尉基員と見ゆ。鷲宮村鷲宮神社文書に「神主莿萱太郎次成房(母野木住人斎藤利氏娘、下河辺庄司行平臣也)」と、野本住人の誤りなり。長井氏系図に「長井斎藤実仲(建武四年八月利根川討死)、弟豊後次郎実季(実仲と同じく戦死)―次郎太郎実連(住野本)」と見ゆ。野本、都築条参照。

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富木常忍の最初の妻は太田(大田)乗明の姉であった。では、その太田氏とは?

2019-12-14 | 三善氏

富木常忍は、太田乗明の姉を妻としていたそうである。
さらに、その縁でなのか、太田氏と同じ「中山法華経寺」の若宮内の土地を得たともいわれているそうである。
そこがのちに「中山法華経寺」すぐ近くの「正中山奥之院」となる。(もとは同じ敷地内と思われる。)



この乗明が誰のことなのかをずっと探しているわけなのだ。
いまは4つの候補が挙がっている。

①三善康連の息(備後国世羅 太田庄)
②法橋太田昌明の裔(但馬国出石、大田庄)(石見国 銀山 大田?)
③越中国太田保(新川周辺)の大田氏(宮道氏裔)
④小山氏となる太田氏(行尊)
===*===

今までは「善信」三善康信の周辺と思い年代的に「三善太田康連」の息の一人と思って探してきた。

康宗と康有が明確にわかっているが、他にもいたはず!
康有の息は時連で、六角時信の娘は太田時連に嫁いでいるので、中原の祖を持ち、六角氏の家臣となっていた九里氏に近い。

六角時信の兄弟
兄弟 頼明、宗信、成綱、宗綱、時信、
    太田時連室、中山家親室(中山家五代目当主)

::

他に今日「康経」という人物を見つけた。1243年の記載がある。舎兄康宗とあるので、弟。

康連の息:太田康宗(康政)康有 康経   
康継の息:康遠 康綱

これで、康「明」とあれば、この人物が乗明ではないか…となるのだが、いまだ見つかってはいない。

康経は康常とも書けるので、その常を「じょう」と読み、「乗」に変えたのかもしれない。(想像)
因みに富木常忍(つねのぶ・じょうにん)は富城経〇(宣・延・信??)であったと想像している。


三善康経は民部三郎とある





===*===

1250年(建長二年)越中大田次郎左衛門尉と記載がある。

以下は、web情報からの部分コピーである。「日蓮大聖人と私」さんからである。
http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-category-255.html

康連の子息にあたる三善康宗(やすむね)は太田太郎兵衛尉(ひょうえのじょう)とも太田民部大夫とも称しており、三善康有(やすあり)は大田七郎と名乗っている。

この他に大田(太田)姓を名乗っているもののなかで、大聖人とほぼ同年代に生きた人物を探ってみると、大田四郎左衛門尉、大田次郎、などの名が見える。
仮にこの二人を康連の他の子息と考えると、太郎(康宗)、次郎、四郎、七郎(康有)となる。
大田乗明を三善康連の子息とする説では多くが「大田五郎左衛門」としていて、康連の五番目の子として位置づけている。
康宗(太田太郎)も康有(大田七郎)もともに、問注所執事となっているが、大田乗明の立場に関しては、確たる資料はない。

大田乗明の所領であるが、曾谷入道殿許御書で「而(しか)るに風聞(ふうぶん)の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多(あまた)の聖教(しょうぎょう)あり等云云、両人共に大檀那為(な)り所願を成ぜしめたまえ」(一〇三八㌻)とあるところからも明白なように、曾谷教信と大田乗明は越中(現在の富山県)に所領があったことが分かる。

出典『日蓮大聖人御書講義』第十八巻上

===*===

これは昨夜見つけたのだが、

もう一人、宇治川で亡くなっている(1221年)善右衛門太郎(三善康知)を見つけた。

http://www.town.kamisato.saitama.jp/1309.htm


三善康知は、康朝と書かれているものもある。
しかし乗明は1222年生まれとあるので、当てはまらない。
年代的には乗明の叔父や年上の従兄弟にあたるだろうか。

===*===

越中国太田保
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/c2980c946d82d52961226a3bead7895d

http://www.seiryu.ne.jp/~ago-hida/root_of_ago/21_yurai.htm


他に、有力な太田氏を見つけたかもしれない。
というのも、「明」が付いているからであるのだが‥‥

これよりさきの86年源平合戦に功のあった法橋昌明は,出石郡太田荘を恩給され太田を名のるようになった。 

1221年(承久3)後鳥羽上皇の討幕の召集に応じなかった太田昌明は,承久の乱後但馬守護になり,京方についた前守護安達親長(あだちちかなが)にとってかわった。以後の但馬守護は太田氏一族の就任するところとなる。…

その太田荘から「太田」を名乗ったようである。


?-? 平安後期-鎌倉時代の僧。
はじめ延暦(えんりゃく)寺の僧。武芸にすぐれ,平家滅亡後は北条時政にしたがい京都の警備にあたる。のち,源行家追討,奥州藤原氏攻め,承久(じょうきゅう)の乱に活躍。法橋(ほっきょう)を称し,承久3年(1221)但馬(たじま)守護に任じられた。通称は常陸房(ひたちぼう)。

常陸国と関係があったのだろうか…

===*===

もうひとり、気になっているのが小山氏の祖である太田行尊
wikipediaによると

小山政光までの諸系譜

『尊卑分脈』 
兼光━頼行━太田行尊(行高)━行政━小山政光
なお『尊卑分脈』で武行は行尊の兄、行光は行政の弟とある。
また行範(行則)は頼行の弟の名としてみえる。
『群書類従』「小山系図」   
         
兼光━頼行━太田行尊━行政(宗行)━小山政光
『下野国誌』 
兼光━頼行━太田行尊━宗行━行政━行光━小山政光
「白河結城系図」
兼光━頼行━太田行隆━宗行━行政━行光━小山政光
(東大史料編纂所および『続群書類従』)
「藤姓小山氏系図」
兼光━頼行━武行━太田行尊━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所)
「諸家系図纂 結城系図」   
         
兼光━行範━太田行高━宗行━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所)
行範は頼行の弟、行高が伯父頼行の養子となって家を継ぐ
『続群書類従』第155巻 系図部50「小山系図」 
         
兼光━頼行━武行━太田行尊━行政━行光━小山政光
『続群書類従』第155巻 系図部50「結城系図」 
         
兼光━頼行━兼行━太田行隆(宗行)━行政━行光━小山政光
兼行の弟に武行を置く。
『続群書類従』第156巻 系図部51「小山結城系図」 
         
兼光━頼行━兼行━行則━行高━宗行━行政━行光━小山政光
『続群書類従』第156巻 系図部51「結城系図」   
         
兼光━行範━太田行高━宗行━行政━行光━小山政光
行範の兄に頼行を置く。
太田行高に伯父頼行の養子となって家を継ぐとの注あり。


太田行隆で調べると

龍蔵寺(白河市)概要: 龍蔵寺は福島県白河市字年貢町に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。龍蔵寺の創建は平安時代初期の万寿3年(1026)に当時の白河城の城主だった太田行隆が開創したと伝えられる古寺で、近世に入ると寺勢も増し、周辺地域の真言宗の中で触頭として統括する立場にありました。修行僧の学問所でもあった為、門末寺院は37カ寺を数え大きな影響力のある寺院で修験の袈裟頭も歴任しています。

上記の常陸房も、常陸の出身という事ならば、地理的には近いところにこの太田行隆(行尊)もいたという事になる。

この太田氏も三善氏も、出石と関係のある太田氏も、どれにも接点がありそう。
しかも頼政の系の太田氏、宮道氏の系の大田氏もいて、まあ判断ができない状態である。

同じ文官として…ならば、三善康経のことかもしれない。=太田康経。
https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_2033-30

1245 寛元3 (乙巳)
 県内  3・- 僧隆胤,三野郡詫間荘内仁尾浦の覚城院の再建を図る(覚城院文書)
     4・17 妙法院門跡公性,香東郡野原・山田郡林荘などの寺領を弟子尊恵へ譲
         る(妙法院文書)
     この頃 山田郡坂下荘の領家と地頭争い,六波羅探題での裁判のため,地頭代
         の三善康経が上洛する(高野山文書)






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太田氏を考える(2)昌明と乗明

2018-05-31 | 太田・大田氏

太田昌明は、はじめ比叡山の荒法師で「法橋昌明」として、進美寺に寄進状案を差し出している文書が残っている。
但馬守護法橋昌明である。



寄進先の「進美寺」は源氏にとっては大事なお寺だそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E7%BE%8E%E5%AF%BA

「正治元年(1199年)にも「関東御祈祷所但馬進美寺」へ文書が発給され、承久の兵乱の後、但馬守護が太田昌明(常陸房)に交替してもこれらの権能は引き継がれた。」とあるように、この太田昌明は常陸房昌明でもあった。

コトバンクによると、以下のようにかかれている。
?-? 平安後期-鎌倉時代の僧。
はじめ延暦(えんりゃく)寺の僧。武芸にすぐれ,平家滅亡後は北条時政にしたがい京都の警備にあたる。のち,源行家追討,奥州藤原氏攻め,承久(じょうきゅう)の乱に活躍。法橋(ほっきょう)を称し,承久3年(1221)但馬(たじま)守護に任じられた。通称は常陸房(ひたちぼう)。

そこで、名前だけ見るとこの昌明と「乗明」が似ているので、気になっている。

それだけではない、あちらこちらで顔を出す神出鬼没の人なのである。そして手腕はあるのに悪だったり、威張りたがり屋だったりとその行動から判断できてしまうような…変なお坊さんなのである。(欲張り。全然欲を捨てていない!)

但馬守護
鎌倉幕府

1185年~? - 小野時広
1197年~1221年 - 安達親長
1221年~1223年 - 太田昌明(常陸房)
1323年~1285年 - 太田氏
1285年~1321年 - 太田政頼
1321年~1331年 - 太田氏
1331年~1332年 - 太田守延
1332年~1336年 - 太田氏

乗明との関係は、わからなかった。残念。

文書の中に昌明と並んであった名前「一品房昌寛
?-? 平安後期-鎌倉時代の僧。
京都成勝(じょうしょう)寺執行(しぎょう)。源頼朝の右筆(ゆうひつ)的存在。元暦(げんりゃく)元年(1184)源範頼(のりより)にしたがい平氏追討のため西海におもむく。文治(ぶんじ)5年頼朝の命で藤原泰衡(やすひら)追討の宣旨をえるための使者として京都にいった。通称は一品房(いっぽんぼう)。
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