紀ルーツさんより
石清水八幡宮別当頼清ー紀祐安ー紀実貞
この実貞が富来初代となる。
武家家伝 富来氏によると
富来(とみき)氏は中世を通じて豊後国国東郷の富来城主であり、大友氏に属しその重臣として活躍した。
建久七年(1196)、豊後守護となった大友能直に従って鎌倉御家人永井石見守実貞が嫡子実継とともに下向、国東郷富来に居住したのが始まりとされる。いわゆる「下り衆」と呼ばれる武士である。富来に土着した実貞は在名にちなんで富来を称し、曾孫の実忠(忠文)のときの弘長元年(1261)富来城を築き所領支配を安泰させたのである。
富来氏の初代である永井石見守実貞は、武内宿禰の後裔永井造酒正紀祐安の子で、本姓は紀氏であった。
ところで、国東にある伊美八幡は京都の岩清水八幡から仁和二年(886)勧請されたが、勧請を奏請したのは奈良大安寺の僧行教で、行教は紀氏の出身だったことから紀氏が近畿から国東に進出することになった。岐部氏、櫛来氏などであり、富来氏も紀姓であったことから国東郷に配されたとも考えられる。
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これ、実は富来氏でありながら、富木氏とも繋がっているような気がする。
紀氏もそうだが、九里の祖の江州中原氏には豊後守がいる。
さらに、大友氏の家臣。
そして、年代は富木氏が因幡国へ行くよりも前になる。
web上の本には以下のような言及があった。
中世文書にしばしば現われる岐部氏.櫛来氏.富来氏らは、ともに岐部浦,櫛来浦,富来浦などの地に、在地的に成長した一族であり、豊後の国東紀氏の一流である。
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以下は網野先生の著作の中である。
富来氏については、日蓮門弟の富木胤継(常忍)とのかかわりを推測する余地
もなくはないが、…
ないかもしれないが、ないとははっきりは言えない。。。
という事は、あるかもしれない!!