九里 【九里】を探して三千里

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九里・野洲川表の戦い 

2018-04-07 | 九里バラバラ情報

http://www.geocities.jp/yamajirooumi/2534302.html
戦国期の野洲において、永原氏と共に勢力を誇っていたのが木村氏である。
木村氏は、佐々木盛綱の三男木村三郎俊綱を祖とし、第12代伊予守重春まで蒲生郡豊浦(旧安土町)に居館を構えていたが、永正・大永・享禄・天文(1504~)の乱世を生き抜いた第13代重興(天文13年(1544)没)の時に江辺荘北村に居館を移したとされる。
重興の代には、甲賀の山中氏や永原氏と姻戚関係があり、六角義賢の重臣平井定武、三雲成持、三上恒安や楢崎、池田、新村氏などとの交流も深かったようである。
重興の嫡子筑後守重存は、六角義治に仕え、二男重久・四男成清は六角義治に従い、九里(蒲生郡)・野洲川表の戦いにて戦死している。

http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Yasugawa.html

1570年ということであれば、九里三郎左衛門の時代であるが、ただの土地の名前としてなのかもしれない。(どこにも九里の個人名が出てこないため)

九里(蒲生郡)・野洲川表の戦いは、どうも「野洲河原の戦い」、「落窪合戦」ともいわれている戦いと同じものではないだろうか。

ここで、柴田勝家の活躍した長光寺城が近江八幡・馬淵町である。このことを九里といったのではないだろうか?
それとも馬淵氏が九里氏でもあったのであろうか???

九里殿とは旧蒲生郡馬淵村を本拠とする六角氏被官.「日本史論叢: 横田健一先生還暦記念」とある。
西本郷だけではなく、馬淵村までに領地が広がっていたのだろうか?
何時頃のことだろう?

そして前日の佐々木哲氏のブログには
「沙沙貴神社所蔵佐々木系図は、長江定成の末弟馬淵公綱(従五位下左衛門尉、近江守護代)の子三郎頼基に「西池田」「美濃守」と注記する。
美濃国池田郡池田荘(西池田)を領したことを意味しよう。
『尊卑分脈』紀氏系図によれば、紀維実から奉光まで七代が美濃池田郡郡司であり、奉光の子奉永が後鳥羽院武者所を勤めて池田武者所と称され、また鎌倉御家人にも列した。
しかし鎌倉中期の奉忠以降、本貫地池田庄を離れて鷲田郷に移住した。
馬淵氏が池田荘下司職あるいは地頭職を得たのだろう。
中原系図に見える長江盛定の次子「明智」は、土岐明智頼兼の舅長山遠江守頼基(実名頼煕)と推測できる。こうして長山・明智・長江がつながる。

…とある。



しかし、この「明智」は姓ではなく、名前か法名か僧名のような気がしないでもない。





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