前野氏の「十助」は九里氏の嗣子となる。
しかし、その十助の情報は今のところ見つかっていない。
柏原織田家臣系譜(国立国会図書館デジタル)・肥後国前野佐々氏系図に名前は載っているのだが、どこにいて、どのような働きをした人物かは残念ながら武功夜話にも載っていないようである。
ちょっと遡って復習を兼ねてみると、
前野長義には正義・宗康・忠勝・義高の四人の息がいた。
宗康からは小坂雄吉・前野長康・前野勝長の三人、その勝長は忠勝の養子となっている。
忠勝には実の息はいなかったので、前野坪内宗兵衛為定を婿養子とし、更に勝長を養子としたようである。
忠勝・為定は「又五郎」を称し、さらに勝長の息吉康も「又五郎」を称したことがわかっている。
九里十助は「又五郎」の息である。
前回の記事は間違っていたようである。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780393
コマ19 が良峯姓佐々氏
柏原織田家臣系譜の「良峯姓佐々氏」の系図には「前野勝長」は載っていなかった。
時基の跡ー宗直の直前までが不明であり、書かれていなかったのだが、その書かれていない部分の最後が「勝長」or「忠勝」なのだ。
前野吉康は「宗直」である。慶長十六年卒 加賀守 佐々蔵介成政に仕えている。佐々氏と肥後国へ赴き、その後淡州へ渡っている。
「宗能」も淡州と書かれているので勘違いしたのだ。宗能の母は佐々成政姉とある。
勝長の妻は佐々平左衛門の娘で、吉康の妻は佐々成政の姉であったのだ。
武功夜話には吉康の弟には三左衛門(勝長二男)・嘉兵衛(勝長三男)の二人の記載があり、柏原織田家臣系図には記載がない。
武功夜話には吉康の息 長子又五郎 この人九州肥後熊本に住居仕る伝承不詳・二男伝左衛門 の二人の記載がある。柏原織田家臣系譜では長子 宗能 藤蔵改与左衛門 母佐々陸奥守成政姉 とあり肥後から淡州へ移っている。二男は直勝 久三郎改備前 佐々成政に仕えた後に加藤清正に仕え、禄千百十石を賜り代官となっている。
この直勝の息直尚の時に讃州へ赴いたが、(内紛があったようで…但野先生の本)大和宇陀松山藩の織田高長を頼ってきている。その息が七人。その中の宗明の曾孫が九里修政となる。また宗明の弟宗淳が水戸黄門の介さんとなる。
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肝心の「九里十助」とその系だが、吉康の息が九里十助となったのだろう。
吉康の弟の嘉兵衛が「九里加兵衛」ではないだろうか?と、気になるが、
今のところは、吉康の息と思って系図を見ていこうと思う。(はっきりとわからず残念である)
そして「宗能」の息に「道伯」という医師がいる。道伯には岡田甚助に嫁いだ娘がいる。
さらに、大和宇陀松山藩の九里氏は一度は岡田氏を名乗り、一度は養子に入ってもらっている。岡田氏とはちかしい。
柏原織田家臣系譜のコマ16・17には岡田氏の系図があり、
大和宇陀松山藩の中の岡田氏に岡田五郎右衛門重綱五男の織田高長に仕えている側医師がいて「道可」という。関係があるかもしれないと思う。
前野長康の娘が匿われたのも「洛北 岡田氏」であった。
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武功夜話の中に各人に対する註があるのだが、そこに勝長が忠勝の猶子となった事、後年佐々平左衛門の妹(下記の系図では娘)を室とし、仍って佐々内と成る…とある。
この佐々平左衛門とは丹羽氏であり、尾州丹羽郡丹羽村の住人、丹羽勘助(氏次)の子といわれている。