九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

木田氏 → 長田氏一門の浦野氏の葦敷氏の庶家 とある。

2022-11-07 | 永田氏

木田氏 (尾張国) : 「尾張木田氏」とも呼ばれる。丹姓平氏良兼流長田氏(尾張平氏)の一門の浦野氏の系統である葦敷氏の庶家

尾張国海東郡木田郷(現在の愛知県あま市木田大字)を拠点とした。

同族に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏))・小河氏(庶家に水野氏・毛受氏)・平野氏や三河平氏の大浜氏・永井氏などがある。

 

九里氏は、江州中原氏であり、また住んでいた場所からも、長田氏である可能性が高いと思っている。つまり、上記の「木田氏」と重なっている長田氏であるかもしれない。

浦野氏の系図の中に九里の名も入っていたと思われるのだ。(未確認だが、浦野氏を調べていらっしゃる方が、九里の系図も調べたことが書かれていた。)

 

という事は、木田氏、葦敷氏、浦野氏も、もっと調べた方が良いことがわかる。

 

以前書いた記事から ↓

大江宗秀の娘長田広常が婚姻関係となり、その長田の系には途中大橋氏からの養子も入っている。

この広常こそが、広経と言われた人物で、裔が長田広雅ではないかと思われる。

・・・とすると、経方(常方)ー資経ー資家ー忠利

              ー実経(広経)ー広雅ー雅綱

・・・となる可能性がある。つまり因幡国の高庭介の系である。

源頼朝に付け人として追随した資家、其の子孫が富士山のふもとの神社で「宮伴」として住んでいたことになる。

 

建長三年に 長田廣雅の記載が残っている。1251年

 

長田兵衛尉実経(広経)とあるが、(六波羅探題の研究 森幸夫著)

広雅(広経)はその実経の息ではないかと思う。

 

***

大江宗秀は、父は長井時秀、母は安達義景の娘。
北条実時(金沢実時)の娘を妻とし、その間の子に長井貞秀がいる。
その他の男子に、長井時千、長井冬時がいる。← ココに 永井時千
時千は「ときゆき」というらしい。
【太平記の生成と守護大名】長谷川 端 著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/49/0/49_49_35/_pdf

宗秀の父は長井時秀で
時秀の母は佐々木信綱の娘である。
そして、時秀の妹が那波左近将監妻となっている。

===*===

時秀の母が佐々木信綱の娘
つまり、宗秀の祖母が佐々木信綱の娘
時千は彼女の曾孫である。

「曾孫の娘」が今度は佐々木氏頼(1326-1370年)の母親となっていたのだ。
因みに氏頼自身は信綱の娘の「曾孫」である。
氏頼が1370年に没していることを覚えておく。
一方の片岡を称することとなった直綱が
「応永十八年十二月、始めて土佐国吾川郡 徳光の庄に移り…」とある。1411年。

上記の【太平記の生成と守護大名】長谷川 端 著によると氏頼は高野山に引き籠っていたようである。
氏頼が1326年生まれで、観応の乱が1352年とある。
氏頼の妻は「佐々木道誉の娘」であり、間に挟まれた状況となったのではないだろうか?
一時は三歳の息義信に家督を譲っていたが、(家臣の九里も驚きだったのでは…)
正平9年/文和3年(1354年)には政界復帰したようである。

 

大江宗秀の娘長田広常が婚姻関係が、後に佐々木氏との関係につながっている。

しかも、九里が家臣となっていた佐々木氏頼の母が長井(大江氏)時千(ときゆき)の娘である。

大江宗秀の娘」と長田広経が夫婦。

大江宗秀の息」が長井時千

佐々木氏頼の母が「長井時千の娘」

(大江宗秀の祖母が佐々木信綱の娘も忘れてはいけない。)

九里氏は【大江氏と長田氏】との関係から佐々木氏頼の家臣となったのではないだろうか?


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 源実朝 と 唐船  | トップ | 足助庄 矢作川 二つの足助... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

永田氏」カテゴリの最新記事