九里 【九里】を探して三千里

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琵琶の話から~人康親王~伊勢物語「山科の禅師の親王」~蝉丸へとつながっていく。(1)

2022-05-21 | 雑記

琵琶にいざなわれ、興味が出てきて、その世界を少し調べてみることにした。

https://web.archive.org/web/20160912080402/http://blogs.yahoo.co.jp/hikojuro/25447777.html

 

和歌山の九里が関係していた 熊野本宮近くの【大智庵】は・・・

小野小町攷: 王朝の文学と伝承構造 II - 第 2 巻

熊野本宮(旧社地)のかたわらに天夜尊の旧跡があり、大智庵と号し、「日本国しゅう座頭の檀那たるべし」

とあり、その名が登場する。

今度は「天夜尊」を調べるとコトバンクに以下のようにあった。

日本では14世紀に入ると平曲が琵琶法師の間に広く行き渡り,筑紫,明石,京の八坂,坂東などを根拠地とする琵琶法師集団によって後に〈当道(とうどう)〉と呼ばれる座が形成され,覚一の活躍した南北朝時代にその統一的な組織が確立した。

この平曲の座は天夜尊(あまよのみこと)(仁明あるいは光孝天皇の皇子人康(さねやす)親王ともいう)を祖神とする由来を伝え,祖神にちなむ2月16日の積塔(しやくとう),6月19日の涼(すずみ)の塔に参集して祭祀を執行した。

座内には総検校以下検校(けんぎよう),勾当(こうとう),座頭(ざとう)の階級があり,座衆は師匠の系譜によって一方(いちかた),城方(じようかた)の平曲2流に分かれていた。…

 

では、一方とは(一方流)コトバンクによる。

平曲の流派の一。鎌倉末期の如一にょいちを祖として、その弟子明石覚一が確立。この系統の者は、その名に一・都・市などの字を用いる。→八坂流
明石覚一:[1300ころ~1371]南北朝時代の平曲家。一方いちかた流の祖、如一にょいちの弟子。平家物語の詞章・曲節を改訂し、平曲の基礎を築いた。  
[生]正安1 (1300)頃
[没]建徳2=応安4 (1371)
平曲中興の。播磨書写山の僧で中年時に失明し,平曲家に転向したという(『西海余滴集』)。足利尊氏の縁者で播州明石を知行していたので明石の姓を名のり,明石覚一(覚都)検校と呼ばれた。平曲の始祖生仏の孫弟子(あるいは直弟子)城一と同一人物ともみなされている如一の弟子で,その優れた技により帝(みかど)から,『平家物語』のうち,清書本という雲井の書を賜ったと記されている(『当道要集』)。『太平記』巻21「塩冶判官讒死の事」には,覚一検校と真一検校による『平家物語』の源三位頼政(→源頼政)が鵺(ぬえ)を退治し,褒美に菖蒲の前を賜る段の演奏に,高師直はじめ居並ぶ人々をいたく感動させたとある。在来の平家物語の詞章曲節に改訂を加えた『覚一本』を残すなど,以後の平曲隆盛の礎を築いた。また初代の職検校(総検校)となり,平曲を演奏する盲人の自治組織である当道座の検校勾当座頭といった官位を整備し,統轄したといわれる。職屋敷を賜り,覚一の住居にちなみ清聚庵と呼ばれた。一方(いちかた)は城方(じょうかた)を圧する勢いを示し,そのため師の如一とともに一方流開祖ともされる。

「都方流」とも書く。平曲流派城一のあと,八坂城玄と坂東如一の2人が,それぞれ八坂流一方流に分れ,異なる伝承をするにいたったと伝えられる。八坂流は城方ともいい,伝承者の名前に城の字が入り,一方流は,同様に一または都 (いち) の字が入る。のち,当道組織が6派に分れたが,師堂,妙観,源照,戸島の4派は一方流,妙大山の2派は八坂流。一方流は譜本において「灌頂」を特立させることに特色があるが,如一の弟子覚一にいたって大成され,その後一方流には名人が輩出した。

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では、城一とは(城一流・八坂流)

生年生没年不詳
鎌倉後期,14世紀はじめから中期にかけての平家琵琶(平曲)奏者。名を了義坊とも。目が不自由であった。平家琵琶の開生仏弟子である城正の弟子で,門弟城玄如一があるというが,別伝には如一の弟子が城一と覚一だともあり,いずれも伝承によるもので事実は不明。
筑紫殿と称したことから,九州の菊池氏の縁者とも。興福寺大乗院の坊官の日記断簡『嘉暦三年毎日抄』に登場する成一を城一その人とすれば,14世紀前半の真慶と並ぶ京都在住の名人ということになる。寛永3(1626)年の春,藤田検校城慶が加賀国(石川県)で入手した八坂方平家物語』が,城一の用いた本文であるとするがあり,その本文は灌頂を別に立てる前階で,城一を一方が分派するころ(14世紀ごろ)の人としており,上記の伝承と重なる。しかし,実はその本文は八坂流末期(室町後期ごろ)のとりあわせ本なので,すべての説がくずれてしまう。言い換えれば,実在の人物としても当道座の伝承を背負った人であろう。

(山下宏明)

 

鎌倉中期の琵琶法師。検校。平家琵琶中興の祖。平家琵琶を創始した生仏の弟子城生検校から琵琶を伝えられたといい、筑紫に住んでいたので、この流を筑紫方といった。弟子に城玄と如一の二人がある。生没年不詳。

 

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平家物語を語ることとなったのは?

wikipediaによると

現存最古の記述は鎌倉末期の『徒然草』(吉田兼好作)[1]で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする[2]

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の譽れありけるが(中略)この行長入道、平家の物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて、語らせけり。」

その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。

この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で、中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。なお、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、『徒然草』では同人を「信濃入道」とも記している(信濃前司行長=信濃入道=行長入道)。

 

まだ続く・・・


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