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千葉氏の中の【原氏】(5) 前期・原氏の中に【胤】のついた人はいない。

2020-05-29 | 千葉氏

原氏の前期の「胤」ではなく、藤原南家等他の系の「原氏」であろうと思われる結果となった。
前期の原氏の中で「胤」が付くのは、私が見つけた中では「氏胤」の四代裔「胤重」なので、もう1400年代に入っている。
因みに千葉氏の中の原氏の後期には「胤」が付く。

この永田胤信の「胤」は原氏によるものではなく佐々木信綱の妻となった千葉胤綱の娘に由来しているのだろうと、私なりの結論に達した。

千葉胤綱は、千葉胤正の孫にあたる。
つまり、佐々木信綱の妻となった人物は胤正の曾孫である。
高島高信の母親となったのは、胤綱の娘となるのではないだろうか。
ならば、孫に千葉氏の「胤」をつけた可能性も充分あるのではないだろうか?

(訂正)佐々木信綱の妻ではなく、信綱の娘が千葉胤綱に嫁いでいた!! (スミマセン)

そのことと、「原殿」の「原」とは、セパレートして考えた方が良いのかもしれない。
この原は千葉氏の中と考えず(長綱という名前でもあるし)、別の「原」に由来していると。

すごく遠回りをしてしまった。。。

===*===

永田氏の周辺を、もっと古くの荘園のことから見ていこうと思う。
永田氏の本貫地であった高嶋郡音羽庄永田で、高嶋郡の最南端である。
『戦国期室町幕府と在地領主』 著者: 西島太郎 によると、
「その領有関係は、長禄三年(1001年)に平惟仲が白川寺喜多院(後の寂楽寺)に施入したことに始まる」そうである。

これに合わせて、以前書いた記事の部分を合わせると、
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/309f63253e5b98bfe8ae1e510df2d41a

「堀川院の遺構よりピンクの火山灰がでており、ピンク火山灰は滋賀県高島市朽木の「白土谷」でも採取される。
朽木と京都との関連を示す史料は、長保三年(1001)六月二十六日の「平惟仲の施入状案」で、平惟仲の造営した白川寺喜多院(寂楽寺、北白川仕伏町付近にあったが所在不明)に「高島郡朽木庄壱所」とある荘園が寄進されたことを記した史料に遡る。平惟仲は藤原兼家の家司として重用され、道隆、道長に仕えた。近江権守を歴任し、中納言まで登った人物である。

平安時代後期の資料をみると、朽木の荘園・杣には「子田上杣・河上荘」「朽木荘・杣」「針幡荘」「三尾杣」などが知られる。
田上杣・河上荘は、治暦四年(1068)には平等院領であり、藤原頼通の領地であった。
朽木荘・杣の針幡杣(荘)は寛弘八年(1011)に尚侍殿藤原 子(後の三条天皇中宮)に寄進されたが、康和五年(1103)には朽木荘と針幡荘の間に抗争があったことが知られる。
久多・針幡・大見荘は平治元年(1159)には法成寺領であった。」

とある。

この平惟仲とは?コトバンクより

944-1005 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
天慶(てんぎょう)7年生まれ。藤原兼家に重用されて参議,中納言にすすみ,長保3年大宰権帥(だざいのごんのそち)。5年従二位にのぼるが,宇佐八幡宮宝殿に封をしたため宇佐宮にうったえられ,寛弘(かんこう)元年権帥を解任された。寛弘2年3月14日死去。62歳。


朝日日本歴史人物事典の解説
没年:寛弘2.3.14(1005.4.25)
生年:天慶7(944)
平安中期の公卿。美作介珍材と備中国(讃岐国とも)の郡司の娘の子。24歳で文章生となり大学頭,蔵人頭を経て49歳で参議。長徳4(998)年,中納言に進む。俊才であったが藤原公任から「故実を知らず」といわれたことがある。摂政藤原兼家の家司となり藤原有国と共に「左右の眼」といわれ重用された。左京の三条高倉にあった邸宅で,一条天皇の中宮定子は長女の脩子内親王を出産,清少納言も滞在した。一条天皇の生母東三条院(詮子)も惟仲邸を御所とし,ここで死去した。一条天皇の乳母藤原繁子(右大臣師輔の娘)を妻としたが,晩年に大宰府(太宰府市)の長官となって下向したときも,この妻を伴っている。任地での3年目,宇佐神宮の宝殿を封じたことで訴えられ解任された。厠で倒れ腰を悪くし大宰府で死去。宇佐宮の祟りと噂された。遺骨は弟の生昌によって京へ運ばれた。(朧谷寿)

===*===
永田の場所には、以下のような神社がある。

「大溝町」

日吉神社 ─大溝町大字勝野字見張。嘉祥2(849)年長寳寺の鎮守。永正2(1505)年高島玄蕃允が長寳寺山に城郭を築き、産土神として崇敬し社殿補修。境内末社内宮神社、下宮神社、八幡神社、春日神社、熊野神社、山神神社、猿田彦神社、稲荷神社、大国主神社、天満神社。

日吉神社 ─字村内。境内社金刀比羅社、大国神社。

愛宕神社 ─字見張。

稲荷神社 ─字見張。

稲荷神社 ─字湊通称本丸。

日吉神社 ─村社。大溝町大字勝野字権田。長寳寺鎮守。高島郡司高島高信本社を崇敬し修築。海津信濃守政義社参して社殿を修補。天文9(1540)年佐々木義賢白鬚社改造の時、摂社によってともに改造。元亀3(1572)年織田信長大溝城攻撃時に、長寳寺ととも焼亡。境内神社は神明社、打下村の産土神。

長田神社 ─村社。大溝町大字永田。永田の氏神。境内社内宮神社、猿田彦神社。

稲荷神社 ─同町大字勝野字大芹。

分部神社 ─大溝町大字勝野字湊分部氏の旧邸趾。

高竃神社 ─大溝町大字永田(旧鯰川)。旧貴船大明神。文明3(1471)年の勧請。

天満宮 ─大溝町大字永田(旧鯰川)。

猿田彦神社 ─大溝町大字永田。。

大炊神社 ─大溝町大字音羽。村社。音羽村の産土神長寳寺の支配。境内末社内宮神社、八幡神社、日吉神社、三尾神社、春日神社、白山神社。

長宝寺
http://www.biwakobunkakan.jp/shuzo/shuzo_04/shuzo_04_003.html

===*===

この音羽庄は、ずいぶんと不安定な時代が続いたようで、1179年までは山城禅林寺、
建久年間は近江石山寺へと領有権が移っていたそうで、さらに、桜井宮門跡領、ふたたび石山寺領、、、、と目まぐるしく変わっている。

===*===

永田氏はもともと長田氏と名のっていたそうであるが、私には以下の小さな情報が関係しているように思える。



そして、案外九里氏も、この辺りと関係しているように思う。
同じ因幡国、平家寄りであったこと、在庁官人、、、

すぐ忘れるので、覚書! ↑








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