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刀伊入寇 と 平為賢(大村氏・有間氏の祖と思われる) 

2024-05-12 | 九里バラバラ情報
「光る君へ」のドラマと被ってくるこの辺り。
刀伊入寇で活躍したメンバーの一人が平為賢という。




【伊佐為賢】のことである。
兄弟には【那珂国幹】もいて、やはり大中臣が登場してくる。
常陸の国が本拠であるので、常陸平氏ともいう。


*****

深江蓮忍は、少なくとも有間朝澄の子息、親戚、または婚姻関係者である。(相伝の文書による)宝治合戦後、その日に文書が書かれている。その点が気にかかっている。

有間朝澄は、下河辺(小山)政義の息で野本氏に養子に入った時員と義兄弟か叔父と甥など、なんらか関係があるはずである。(串山荘の文書による)

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此の平国幹を検索すると戦国時代になってしまうのであきらめかけたが、その戦国時代の国幹は、居城が行方の芹沢城と言い、片岡氏と関係のあった橘郷(現在の羽生あたり)のすぐ近くとなる。


そこでもう一度片岡経春に戻り、調べてみようと思った。

国立国会図書館のwebに「栗里先生雑著」が出てきて、片岡経春は
中臣片岡連から出た片岡…とあり、大中臣と同祖であることが書かれ、
佐野静代氏の論文によると「近江国湖北の伊香の片岡郷が中臣方岡連の本貫であろうという説もある」という事がわかった。

近江国湖北の伊香郡片岡が中臣方岡連の本貫であり、そこより東国へ向かい鹿島宮の神祇官となっていた片岡氏であったのかもしれない。

そう思うと、伊香郡の郡司までも務めた(近江国御家人井口中原系図)
俊光や、郡司判官代となっていた経行とつながりが出てくる。




この中臣方岡連の裔と共に、東国に出てきた中原氏がいたのであろう思われるのだ。婚姻関係もあったであろうと思う。

鹿嶋宮の片岡となり、片岡経春の「その弟か義兄弟・経任(経政とも)」の息か養子である「経久」が九里太郎経久蓮忍入道となり、祖父か父?の中原久経の影響から宇都宮氏の中原氏(小山・下河辺)、藤原秀郷流、そして片岡経春の影響から大掾氏・海上常衡、千葉氏とのつながりも出来、幅広く繋がっていたように思うのだ。

しかも、千葉氏は、経久の母であったか、叔母であった可能性もありそうに思う。
というのも、法然の一周忌に蓮仁が集めた交名に千葉一族が多く見られるのである。この蓮仁が後に「蓮忍」になったのではないかと思っている。

有間氏との関係は、宇都宮氏であろうと思う。その当時は横田頼業・宇都宮時綱等。其の時綱が宝治合戦で自害する。

そして、肥前国高来郡串山庄の件で、下河辺時員(野本)が朝澄の親戚であり、一期を朝澄が相伝した後には荘園の権利を戻さなくてはいけない…と云うからには、そこにも宇都宮氏(中原)の影が見え、宇都宮氏と有間氏に婚姻関係があったと見えないだろうか?

…というのが、ここ何週間か有間氏に関して調べてきた私なりの結果であった。

大掾氏は鹿島氏と呼ばれる一流が出るほど鹿島に縁が深いと思うのだ。

今回、この大掾氏を調べたことで、今まで以上に片岡氏に近づけたのではないかと思う。

伊香郡片岡郷の片岡氏と鹿島宮の片岡氏が、私のなかでも繋がってきたのである。

近江国伊香郡における式内社と氏族  佐野静代 著 


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