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小山氏・野本氏・有間氏と宇都宮中原氏(3)平姓の有間朝澄

2024-05-06 | 九里バラバラ情報
小山政光は藤原秀郷流
下河辺も政光の弟行義であり、秀郷流となる。

野本時員は下河辺政義の実子であったが、野本基員(藤原時長流)の養子となる。
(政義は行義の息)

宇都宮氏も藤原道兼流であり、有間氏以外は藤原氏である。

有間氏は大村氏から出ているとすれば、大村氏の祖は平直澄という事で、平姓となる。

もと稲毛庄内の有間に居し肥前国高来郡深江浦の有間朝澄。
その相伝者となった入道蓮忍と、
皇嘉門院の領であった三崎庄。その地頭であった片岡経春の甥であった片岡経久

どこか線でつながるような気もする。

「有間」となる前の朝澄は平姓で、かつ稲毛庄内の有間に住んでいた‥‥というのがヒントであろうと思う。

下と関係しそうである。伊佐氏(伊作氏)である。

しかも【河辺氏】が登場する…ここで出てくる河辺という苗字!
河辺清兼の「中・河辺」なのだろうか。



【肥前伊佐氏】
肥前国鹿島に土着した鎮西平氏流伊佐氏を肥前伊佐氏と呼ぶ。肥前伊佐氏は、桓武平氏繁盛流大掾氏族である常陸国伊佐郡を本貫とした多気氏の庶家で、伊佐為賢を祖とする。下向前の本貫地は常陸伊佐氏と同地である。


肥前伊佐氏一門においては、肥前国鹿島藤津荘(仁和寺領、現在の佐賀県鹿島市納富分2011 新義真言宗大本山誕生院)の総追補使伊佐平次(平治)兼元の子で藤津荘で生まれたのが後の根来寺覚鑁上人(1096年生)と伝わる。
『歴代鎮西誌』によると、兼元は為賢の孫と伝わる。


この時代、薩摩の土豪と肥前伊佐氏との間で盛んに婚姻、養子や猶子縁組がなされていた。伊佐平次兼元と共に伊作良道も伊佐為賢の子孫の一族であるとする説があり、さらに兼元と良道が同一人物ではないかと言う説や、兼元の武功は、後の時代に為賢の武功(すなわち刀伊の入寇)と混同され伝わった(『今昔物語』等)のではないかと言う説もある。
☆肥前伊佐氏からは他に平経澄(伝肥前有馬氏祖)を輩出。

概要
島津荘を開墾した平季基も同族であり、伊作良道(平良道)の子らは河邊一族と言われ(良道の長男道房が河邊氏を称したため)、各地を支配し権勢を誇った。南北朝時代には南朝方として北朝方の島津氏等と激しく争ったが、後に敗北し臣従した。



伊作・河邊一族
河邊氏
伊作良道(平良道)を祖とする。良道は薩摩国伊作郷(現在の鹿児島県日置郡吹上町)の地に下向、田中城を構え土着し、伊作姓を冠した。河邊は河辺、川辺とも書き、良道の子孫は河邊一族とも呼ばれた。


【伊佐氏(いさし)】


諸説あり、どれが当てはまるかはわからないが、下河辺氏とする説もあるという。

ならば、常陸平姓でありながら、常陸藤原氏でもあったという可能性もあるか…

常陸伊佐氏ならば、常陸藤原氏と桓武平氏からの大掾氏が重なり合う事もありそうである。



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