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片岡氏と佐々木氏の三つの接点 まとめ

2020-09-06 | 片岡氏

今まで、片岡氏と佐々木氏の関係を示唆する系図が三回ほど出てきている。

始めは、佐々木定綱の娘の後ろに三角印があり、この辺りに片岡経俊が入る…という感じの系図。


次に佐々木盛季の息忠綱が片岡氏に養子として入っている系図。(武家家伝片岡氏)


三回目は、佐々木氏頼弟の直綱の註である。


此の三番目の直綱は片岡とは関係がないのではないかと思う。
が、片岡氏には「直綱」は存在している。その直綱は武家家伝さんの系図を見ると「三宮実綱の息直綱」となっている。

ともかく、佐々木氏と関係があるのだよ…とアピールしているようにも思える片岡氏の系図である。

===*===

高知県高岡郡越知町の【越知町史】に以下のような記載があった。
日下三宮実綱の次男直綱が片岡家に入った…片岡家に入った三宮の二男は上総介左衛門大夫直綱を名乗って片岡氏九代の主となったので、いまや片岡家は事実上三宮のものとなってしまった。とある。
直綱に本家をとられた直治は別家して、岡添の氏を名乗り、大田川に片岡支城を設けて居ったという。

この状況、乗っ取りが起こったのかもしれない。

さて、其の片岡氏の始りは「近藤経繁」という説がある様である。
これは有力かもしれない。というのも、中原久経がともに頼朝の御教書?を全国に広めに?行ったのが「近藤国平」である。
平家が滅亡する直前の元暦2年(1185年)2月には頼朝の代官として中原久経と共に上洛し、混乱に乗じて非法狼藉を働く畿内近国の武士の平定にあたったほか、鎮西にも下向し同様の任務に就いた。
国平の息は国重!
近藤 国重(こんどう くにしげ、生没年不詳)は、藤原秀郷流で島田駿河権守景親の子孫近藤国平の子。
承久の乱後山梨県巨摩郡万沢村(現南部町)の浅間神社を再興して神主をつとめた。

在地の土豪・片岡氏代々の居城。
平安時代末期の築城と考えられるが、詳細は不明。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kataoka1.htm
片岡氏は平安時代末期に上野国中野荘に下向した近藤氏の一族。
近藤氏は同地に片岡城を築いて土着し、坂東太郎経繁の代に「片岡経繁」を名乗ったとされる。
片岡経繁は平家に従って壇ノ浦で殉じたとも、土佐に落ち延びたともいわれる。

さらに、滋賀県の城さんのページ
https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-kataoka/
在地の土豪・片岡氏代々の居城。(滋賀県草津市)
平安時代末期の築城と考えられるが、詳細は不明。

片岡氏は平安時代末期に上野国中野荘に下向した近藤氏の一族。
近藤氏は同地に片岡城を築いて土着し、坂東太郎経繁の代に「片岡経繁」を名乗ったとされる。
片岡経繁は平家に従って壇ノ浦で殉じたとも、土佐に落ち延びたともいわれる。

===*===

此の中原久経の役割は、中原親能の跡のようでもある。
国平と親能が古文書に名を連ねており、その後国平と久経、しかも久経を先にして連署となっている。




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