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近江国の「乾氏」

2019-05-07 | 乾氏

城郭探訪さんのwebページよりお借りします!







『滋賀県中世城郭分布調査旧滋賀郡』 真野城に説明資料

「真野城は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいた。その子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。」


城の歴史

真野元貞の室町時代の城と言われています。

築城年代は定かではない。城主は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいた。その子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。

永正15年(1518年)の城主は真野土佐守信重で、小谷城主浅井備前守亮政に攻められ落城した。

『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。 浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5~6年であった。

元亀元年(1570年)の城主は真野十郎左衛門元貞で、佐々木六角氏に従って織田信長と対立したが落城した。                                    城を脱した元貞はその後、出家して西養坊宗誉と号し、その子孫は旗本神保氏の代官を勤めたという。

真野城は南へ張り出した丘陵に築かれていたという。

現在山上の北側は新興住宅地となって開発されている。その中にある小公園に真野古墳の案内板とともに石室が展示されている。南側の墓地部分は現在遺跡発掘中で、昌法寺の背後にある墓地一帯が城跡と云われ、それに伴うものであろうか。墓地も一部が削平地が拡がるだけのようだ。

真野元貞の室町時代の城と言われています。城跡は、ローズタウン東側の低丘陵地(真野6丁目)にありますが、真野から堅田、更に対岸まで一望でき、城に適した位置にあることがうなづけます。



春日山の麓の琵琶湖を見渡す場所に造られた真野古墳がもし春日皇子の墓なのであれば、真野城跡には6~7世紀には春日皇子の宮があり、妹子はここで生まれたと思われます。妹子が生まれ育ったのは、「草深い田舎」ではなく、当時は先端文化が都より先に入ってくる国際都市だったのです。

真野川の合戦

 真野川周辺で起こった歴史上の合戦について、時代別に記録してみよう。

平 安時代の末ごろ、平治元年(1159年)平治の乱がおこり、源義朝(みなもとのよしとも)が京都で破れ 真野川近くで合戦する。平清盛の追手のために兵を多数失い、この地より船を出して東国に逃れる。寿永三年 (1184年)、木曾義仲、平家の軍を真野周辺で追撃し、京都に入る。のち、瀬田・粟津の戦いで破れ死ぬ。 このころ、源義経、京都鞍馬からこの地を通り、鏡山で元服する。南北朝時代、延元三年(1336年)、 新田義貞一行、北陸に落ちる。

室町時代、戦国の世、文明十一年(1479年)、佐々木六角の武将、多 賀高忠、真野川をはさんで合戦に及び敗走する。永禄十一年(1568年)、真野城主真野十左衛門元貞、 この地で浅井・朝倉の軍と戦い破れ、真野城焼失する。真野の多くの民家も焼ける。

元亀二年(1571年)、織田信長、 比叡山延暦寺を攻め、そり堂塔をことごとく焼くに至る。真野川周辺の天台宗系の寺社、大野坊、普門 坊なども続いて焼き払う。この時、真野坊焼き払いのため、古文書、寺宝の多くを焼失する。天正元年(1573年)、 足利義昭、織田信長に反し、真野川水域に立てこもる。このとき、織田信長の先軍は、陸路羽柴秀吉、 海路明智光秀であった。義昭は真野川南流をうまく利用し、水城を作って防戦したが破れ、真野から途 中に至り宇治に逃げる。そして死ぬ。足利幕府が亡んだわけである。天正十年(1582年)、豊臣秀吉、 明智光秀の軍、天王山で戦い、明智治政ノ湖西に軍馬が動く。その後、

江戸時代にいたって真野川一帯は 合戦なく現在に至る。この真野川周辺の歴史もまた、近江真野の歴史であった。平安時代から鎌倉、南北朝、 室町にかけて日本歴史が物語っているような戦乱の歴史であった。まして、京都に近く、その影響もかな り受けている。しかし、真野川周辺に住んでいた真野の人たちは、古代から中世、近世にかけて、先祖の遺 産を守るために田畑の営みに努力するのであった。

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査3、 県年報(縄文-土坑・落込み/古墳-横穴式石室1+掘立柱建物+溝)、大津かんきょう宝箱、浅井三代記

<1568年以降の反 織田信長勢力>

1570年4月落窪「野洲川の合戦」六角氏再興をかけて、柴田・佐久間軍との合戦。 (六角側:三雲・高野瀬・永原・乾) 1572年「金森の合戦」に一揆勢力は鎮圧される。

https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/18166911b68ef41211351032a523f73a

以上地図以外はすべて「城郭探訪」さんよりお借りしました!ありがとうございました!!
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