九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

橘義清 周辺 山中氏 田中氏

2019-08-16 | 雑記

近江国と橘氏との関係は?を調べていると【橘義清】という人物に出会った。

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E6%A9%98%E6%B0%8F

橘道文

生没年:
父:播磨守 橘仲遠
近江掾
妻:
為義

橘為義

生没年:
父:近江掾 橘道文
正四位下丹波守
内蔵頭
妻:
義通
上総介春宮大進 資通(子:右兵衛尉 知定)
伊予守 俊通(子:仲俊、大学允 致綱、文章生 俊任)
従五位下 済通(子:伊勢守 義済(子:延暦寺僧 琳賢))



橘義通

生没年:
父:内蔵頭 橘為義
正四位下筑前守
妻:
-1085 正四位陸奥守太皇太后宮亮 為仲(子:義仲)
大和守 資成(子:左衛門尉 資隆、造酒佑 資親)
伊勢守 家成
越後守 通成(子:上東門院判官代 仲資)
義清

橘義清

生没年:
父:筑前守 橘義通
東宮大進
正五位下
妻:
清順
俊清

橘清順

生没年:
父:東宮大進 橘義清
越中守
妻:
左馬助 貞成(子:肥前守 盛清、左兵衛尉 経成(田中氏祖))
大監物 高清(子:蔵人 清兼、佐渡守 清恒(若林氏祖))

橘俊清

生没年:
父:東宮大進 橘義清
散位
妻:
采女正 成隆
柏木本領主 盛宗(山中氏祖)

https://seiseiruten.jimdo.com/%E6%A9%98%E6%B0%8F%E9%96%A2%E4%BF%82%E7%B3%BB%E5%9B%B3/%E6%A9%98%E6%B0%8F%E7%B3%BB%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BA%8B%E5%85%B8/


上記の情報に下記の情報をプラスしてみると…

<山中・岩室>

山中氏は、伊勢神宮祭司によって伊勢神宮柏木御厨の地頭職に補任され、幕府からも公卿勅使「儲役」、「鈴鹿峠警固役」を公認されていた。「儲役」とは朝廷が伊勢神宮に特別なことを祈願する勅使である公卿勅使を接待する役であり、「鈴鹿警固役」とは公卿勅使を近江・伊勢国境附近で警護する任であった。

山中氏は鈴鹿山麓の山中村を本拠としていたが、やがて、惣領家は柏木御厨に移住したため山中氏は二流に分かれた。柏木に移った山中氏は、柏木御厨五郷(本郷・酒入郷・上山村郷・中山村郷・下山村郷)を領して、戦乱を生き抜き甲賀郡屈指の国人領主に成長していった。



橘盛宗(山中盛宗)
橘義清の孫。橘俊清の男。近江国甲賀郡柏木郷の摂関家庄園庄官。山中家祖。



岩室能俊
山中盛宗の未孫。山中頼俊の男。近江国甲賀郡岩室の地頭。



岩室邦俊
岩室能俊の玄孫。岩室藤俊の男。左近将監。六波羅引付衆。



山中重尊
山中盛宗の玄孫。山中宗俊の男。山中俊直の養子。公卿勅使を近江・伊勢国境附近で警護する鈴鹿警固役を勤める。



山中俊信
山中重尊の男。中務丞。嘉禄2年(1226年)北條氏の命により鈴鹿山の賊を退治した功によって、山中地頭、山村上郷下司に任じられる。



山中秀俊
山中俊信の未孫。山中頼俊の弟。正平12年(1357年)南朝に仕え、楠正儀と伴に賊軍を討つ。



山中俊定
山中俊信の玄孫。山中実秀の男。大和守。近江甲賀郡、宇田村、上村、酒人村を領する。
山中長俊墓
山中長俊墓

山中長俊(1547~1607)
山中石見守為俊の男。山城守。豊臣秀吉の臣。代々、近江の佐々木氏に仕え、六角義賢の臣となるが、後に柴田勝家に属し三千石を知行。鉄砲同心五十人を預けられて家老に列す。天正11年(1583年)勝家の没落後は丹羽長秀に仕え、その後、堀秀政のもとに寄寓していたが豊臣秀吉に召しだされて右筆を勤める。

天正18年(1590年)の小田原征伐に従い、鶴岡八幡宮の再建工事に関わる。文禄2年(1593年)に従五位下山城守に叙任。慶長5年(1600年)関ヶ原の役では西軍に属し、所領没収。京都に住み、慶長12年12月24日没す。著書に「中古日本治乱記」がある。



山中幸俊
山中長俊の養子。山中信俊の長男。紀伊守。豊臣秀吉と秀頼に仕え、元和元年(1615年)大阪落城により没落。後に許されて京都に在住。その後、浅野長晟に仕える。



山中宗俊
山中信俊の二男。徳川家康に仕え、慶長14年(1609年)伊勢国一志郡美濃田、安芸郡野崎、山田井に千石賜る。大阪両陣に永井直勝の組に属し出陣。元和2年(1616年)御書院番となり采地を近江国蒲生郡に移す。正保2年(1645年)6月5日卒す。



山中本俊
山中宗俊の男。寛永7年(1630年)徳川家光に拝謁す。同17年(1640年)御書院番に列し、正保3年(1646年)遺跡を継ぐ。寛文3年(1663年)徳川家綱に従い日光山に詣で後番を辞し小普請となる。元禄15年(1702年)8月21日卒す。



山中釿俊
山中本俊の男。萬治2年(1659年)徳川家綱に拝謁す。寛文7年(1667年)11月小姓組の番士に列し、元禄5年(1692年)家を継ぐ。同12年(1699年)12月従五位下丹波守に叙す。享保9年(1724年)4月9日卒す。



山中鐘俊
山中釿俊の曾孫。山中保俊の男。元文2年(1737年)遺跡を継ぎ、延享2年(1745年)西城の御書院番となり、同3年中奥の番士に転じ明和3年(1766年)小十人の頭にすすむ。安永5年(1746年)徳川家治に従い日光山に詣で、西城御先弓の頭にすすみ寛政7年(1795年)7月老いを理由に務めを辞す。この時、時服3領を給い寄合に列す。


<田中>
田中氏は近江国高島郡田中から戦国期に活躍し、当初は六角氏に属していたが六角氏没落後、田中吉政の時に宮部継潤、豊臣家、徳川家と仕え、筑後柳川城主となる。その後子の田中忠政の時に継嗣がなく廃絶となっている。



橘重信(田中重信)
橘義清の末裔。民部大輔橘親信の男。近江国高島郡田中を領して田中を称したとされる。



田中重政
田中重信の玄孫。田中重寛の男。近江佐々木六角氏に臣従する。

田中吉政(1548~1609)
近江国高島郡田中村より出身。はじめ宮部継潤、ついで豊臣秀次に仕え五千石。天正16年(1588年)、叙位・任官し近江国で三万石。同18年、三河国で五万七千四百石を領し、文禄3年(1594年)、三河国に隠居分四万石を加え、また豊臣氏直料三万石の代官となった。慶長元年(1596年)さらに加増され、息子の吉次(長顕)の分と合わせて十万石となった。

関ヶ原の役では東軍に属し、佐和山城攻撃に参加し、9月23日石田三成を逮捕した。戦後、その功により筑後国柳川城主で三十二万石与えられた。領内の産業振興に努め、自らキリスト教に帰依し、領内キリスト教徒を保護した。慶長14年2月18日没す。妻は国友与佐衛門の娘。



田中長顕
田中吉政の男。豊臣秀吉の臣。秀吉の馬廻として天正12年(1584年)小牧山合戦に従軍。文禄4年(1595年)に父の所領を継いで三河国岡崎城主六万石。慶長5年(1600年)の関ヶ原の役では父とともに東軍に属し、岐阜城攻撃に参加。その後、父と不和となり家を出て、元和3年(1617年)7月3日、京都で没す。



田中元陳
田中信之の養子。元は長崎氏。正徳元年(1711年)12月はじめて徳川家宣に拝謁し、同5年7月に家督を継ぐ。享保3年(1718年)3月大番に列し、同8年4月御馬預となり、同11年4月から西城に候す。延享2年(1745年)息子の堯陳が出奔したため、小普請に貶される。寛延3年(1750年)12月死去。



田中忠政(1585~1620)
田中吉政の四男。兄長顕が父吉政と不仲になり家を出た後、嫡子となり遺領を継ぐ。従四位下、侍従、筑後守。筑後柳川藩第2代藩主。元和6年(1620年)8月7日36歳で卒す。継嗣がなかったため廃絶となった。



田中吉官(1600~1658)
田中吉興の養子。菅沼定盈の八男。慶長11年(1606年)徳川秀忠に召され御近習となる。同16年正月従五位下主殿頭に叙任。大坂の陣に参戦し功あり。元和8年11月に吉興の養子となる。萬治元年(1658)正月死去。



田中定賢
田中定格の男。寛文5年(1665年)12月初めて徳川家綱に拝謁し、同11年12月に従五位下出羽守に叙任する。元禄5年(1692年)9月死去。



田中政昌
田中定堅の男。寛延2年(1749年)12月、家督を継ぎ、同3年3月、徳川家重に拝謁する。宝暦4年(1754年)西城の御小性組に列し、天明2年(1782年)職を辞す。同3年11月死去。

===*===

では、橘氏と千葉氏はどうであっただろうか?
すると意外なことに、海上郡橘庄が出てきたので、これは片岡氏が海上氏とつながっていることもあり、何かがありそうだと思った次第である。









コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 波多野(松田)義定のこと | トップ | 片岡氏と大中臣氏、そして中... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (りひと)
2019-08-17 00:41:04
なんかこちらでも調べていたら鶴岡八幡の修復に関わった人出てきましたよ。誰だったかな?

それと海上も氏の名前とも思えずなのでなんか引っかかったような。

今世田谷にすっかりトラップなのか?かかっておりましてこちら関係と合ってしまう事が多いんですよ。

田中氏はそもそもの探求のきっかけですしね。
ひとまず今一段落した所なので少し放っておきます。
誘導されているとも思うので必要に迫られてからにします。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

雑記」カテゴリの最新記事