http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/03_oohashi.pdf
https://ameblo.jp/asahonmati/entry-12667187649.html
『激戦の末、この地の賊を平らげた日本武尊軍は、足柄峠を越えて三浦半島に向かう。
日本武尊軍は、三浦半島から上総への出航に際して暴風に見舞われ、遭難しかけたが、弟橘媛の入水犠牲により、上総にたどり着く。
この後も、海路陸奥まで軍を進めた。やがて、東国を平定した日本武尊軍は帰途につき、建稲種命軍とは別れ、内陸を進んだ。
甲斐・信濃を経て美濃に入り、尾張との国境の内々峠に差しかかった頃、海路を行った建稲種命の伊豆沖遭難死の悲報が伝えられた。
日本武尊は、「ああ現哉(うつつ)かな、現哉かな。」と嘆き、その内々峠に「内々神社」を立て、建稲種命の霊を弔った。』の部分が大事と思った。
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深堀はしないが、この後にヤマトタケルの息である仲哀天皇と妻となる神功皇后の時代となる。
という事は、九里(久里)双水古墳の前の時代となる。
そこに近江と上総、近江とまつら國とのつながりができる。
ヤマトタケルさんの件で三浦半島から千葉方面への移動への場所なんですけど、どこかの展示の地図で地形的に行きやすそうなのが布引海岸から尖った所の先には島が点々とありますよね。あの辺りは確か水深が浅かったように感じたんですよね。島伝いにでも渡り易いいいポイントだと思いますよ。富津や君津にもダイレクトですね。旧石器はもちろん渡れたでしょうけどリスクとして海進後も渡り易ルートだったはずで知っている民族はいたでしょう。なので海神の怒りを抑えなくても知識があったら行きやすいでしょうね。このルートを古代で知っていたら後にも利用出来た知識を持った民族が頻繁に動いていたかもとは思ってます。浅すぎて危険かもしれませんがそれこそ水先案内に慣れていた方々いたらいい先導してくれるはずです。
でどこから渡るか?なんですけど地図見ると米軍基地の辺りも一番迫り出しているのと面白いのが貝塚って地図に出てくる場所がありましたよ。縄文から人がいた地だと思えば夏島って辺りから渡るルートがあったかな?とも。以前あの辺を調べていたら稲と米とかそういう文字も多いのでこの辺りと近江が繋がると千葉方面も移動範囲には思います。三浦半島の下の方から鋸山方面もあるかも?ですがもっと北のルートで考えて古墳とか遺跡とかが出てくると面白くなりそうですよ。
実際新田開発の盛んな時期もあり昔よりはせり出しているのが現代だと思うともっとえぐれていたならば逆に金沢八景の方や八景島の方と房総もダイレクトで行き来していてもとワクワクします。
富津から三角の先の島々にも痕跡ないのか?また逆に地底に遺跡がないのか?気になっている辺りです。
源氏の周りにもきっと知識がある方がいるでしょう。
でヤマトタケルもむしろ知ってたようにも思うんですけどね。弟橘姫にも聞いてみたいです。
古代の東京湾の地図探してみます。
なるほど。土地勘のない私にはうれしい情報です。
ましてや、古代の地図なんぞを見つけた時には、ぜひぜひお願いいたします!