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古代からのつながり(22)大伴家持の正妻 坂上大嬢

2017-09-26 | 古代からのつながり
昨日「古事記」に関する講座に行ったのだが、そこでの情報。
赤玉と白玉 赤玉は琥珀で、白玉は真珠

そこで万葉集にも白玉が出てくる・・・というところから
「白玉の 見が欲し君を 見ず久に 鄙にし居れば 行けるともなし」(巻十九・四一七〇)
(真珠のように 見飽きないお母様に 長くお目にかからないで 鄙(この場合越中)におりますと 生きた気もありません)
夫・大伴家持に伴い越中にいるときに、母である坂上郎女に贈った歌(大伴坂上大嬢)


wikipediaより
大伴坂上大嬢(おおとも の さかのうえ の おおいらつめ、生没年不詳)は、奈良時代の女性。大伴宿奈麻呂と坂上郎女の長女で、妹に坂上二嬢がいる。

大伴家持の従妹でのち正妻になる。名は坂上大娘とも見える。大嬢を「おほひめ」「おほをとめ」などと訓む説もある。天平4年(732年)頃から家持との間に歌の贈答が見られるが、その後離絶。天平11年(739年)頃から再び交渉を持ち、恭仁に都があった頃(天平12年(740年) - 16年(744年))、家持の正妻になったかと思われる。

大伴坂上郎女

大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。

大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。
13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715年)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃、首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年には個人的に歌を奉げている。その後に藤原麻呂の恋人となるが、麻呂とも早くに死別する。養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と坂上二嬢を産んだものの、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持、大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。
坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。


穂積皇子(穂積親王)
父:天武天皇
母:蘇我大蕤娘(蘇我赤兄の娘)
同母妹:紀皇女、田形皇女(六人部王妃)
妃:大伴坂上郎女(大伴安麻呂の娘) - のち異母兄・大伴宿奈麻呂の妻
男子:上道王(?-727)
男子:境部王

蘇我大蕤娘が蘇我赤兄の娘ということは、蘇我氏の真っ只中である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E8%B5%A4%E5%85%84#/media/File:Soga_faminy_tree.svg

蘇我赤兄
父:蘇我倉麻呂
母:不詳
兄弟:蘇我倉山田石川麻呂
兄弟:蘇我日向
兄弟:蘇我連子
兄弟:蘇我果安
妻:不詳
女子:常陸娘 - 天智天皇嬪、山辺皇女母
女子:大蕤娘(?-724) - 天武天皇夫人、穂積親王・紀皇女・田形皇女母

ココで、天智天皇と天武天皇に娘を嫁がせている。


話は大伴氏に戻る。

弘文天皇
弘文天皇は、名を大友皇子、伊賀皇子といい、天智天皇を父とし伊賀采女宅子娘を母として生まれた。
父天智天皇崩御後に壬申の乱が起き、大海人皇子(天武天皇)の吉野側が勝利したため、その即位を認められなかった(舎人親王が編纂した「日本書紀」は、弘文天皇の記事を載せず、一代として扱っていない)が、明治3年に至り弘文天皇と追号された。
従って諱がない。
皇妃には大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女として天智天皇の崩御後に近江にあって政務をみたとされている。
天智天皇の崩御後、大海人皇子は草壁皇子、鵜野讃良皇女、高市皇子、大津皇子らと吉野を脱出して大友皇子(弘文天皇)の近江朝廷側と対立した。
この対立は、大海人皇子の吉野側が大友皇子(弘文天皇)の近江側を破り、大友皇子が自害するに及んで吉野側の勝利に終わった(「壬申の乱」という。

皇太子を囲んだこのときの5人の家臣はその後の壬申の乱の結果、
 
  左大臣蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)   捕らえられ、流刑
  右大臣中臣金連 (なかとみのかねのむらじ) 捕らえられ、斬殺。
  蘇我果安臣   (そがのはたやすのおみ)  近江国犬上川の戦いに敗れ、自殺。
  巨勢人臣    (こせのひとのおみ)    捕らえられ、流刑
  紀大人臣    (きのうしのおみ)     不明。逃亡か。天武12年生存の諸伝も残る。
 
大友皇子自身は、皆に逃げられ、山前と言われる場所で、自ら首をくくって死んだとあります。


大伴黒主神社
 
大伴黒主は大友皇子(弘文天皇)の皇子で大伴姓を賜ったと言う大友与多王の子孫と伝えられる。大友の名は、当地の旧名滋賀郡大友郷に由来する。
大友氏はこの大友郷を本貫とする氏族で、黒主も滋賀郡司をつとめたことがあって、「滋賀の黒主」とも称されていた。また園城寺(三井寺)の神祠別当職をつとめた。

鴨長明は『無名抄』に、「志賀の郡に大道より少し入りて山際に、黒主の明神と申神います。是昔黒主が神になれる也。今に大伴の黒主の宮ある。」と記している。
…そうである。


コロコロと変わって申し訳ないが、調べてみると「天智天皇」と「天武天皇」の間にいた蘇我赤兄のことから策略にはまってしまった「有間皇子」につながり、その処刑の場として牟婁藤白が出てくるのである。

http://rekishi-club.com/akuyaku/soga_aka.html

どうも、この辺りが紀ノ國と近江とのつながり、大伴と大友とが繋がるあたりかと思われる。
が、大伴と大友は全く別系かもしれず、ただのハヤトチリかもしれない。

ところが…

http://ohmikairou.org/col114.html

ここに答えに近いものがあった!!!
一部を載せると
貞観8年(866) 大友夜須麿。滋賀郡大領。従七位上。大友黒主。滋賀郡大領。従八位上。   「三井寺別当官牒」
 大友黒主。 大伴列(おそう)の子なり、大友氏の養子となる。なお後年、実姓の大伴氏を用う。  「近江国滋賀郡史」 とある。



鎌倉の鶴岡八幡宮の神主が、代々大伴氏を名乗っているので、大伴氏との関係をお尋ねしたが、関係が無いとのご返事をいただいた。

ところが、今年5月の産経新聞で、三井寺福家執事長の執筆「三井の山風」に「もともと三井寺は源氏と関係が深く、鶴岡八幡宮のトップである別当や、鶴岡二十五坊と称せられる社役を務める供僧職には、三井寺から多くの僧が任命されていた。」との記事を拝見し、ここにも繋がりがあるのかと思う次第だ。

…大伴列をキーワードに調べると

「大伴黒主  六歌仙の一人 近江国滋賀郡大友郷の人
黒主は、天智天皇の皇孫大友與多王の孫都堵牟麿、世々大友卿後大伴姓に改めたもので、志賀郡司となり、其の子従七位村主
夜須良麿大領に職を襲ふ。其嗣従七位清村の子なり。(実大伴列躬の子なり。高産美尊五世の孫天忍日命、後大伴氏の後嗣実
姓大伴を用ふ。)円城寺の別當で和歌をよくし、六歌仙の一人、寛平の頃、宇多天皇志賀巡幸の時和歌を詠呈、干時志賀山中に
幽栖す。天暦元年丁未十一月卒す。土地の人尊敬して之を祀る。」



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4 コメント

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ランキングで (りひと)
2018-11-15 17:54:04
ここにも黒主ネタありましたね。
そう大伴と大友がかなり難しいのです。
そこはスルーしてなんだっけなあ?

前半の方で面白かったのは、蘇我さんの色々でていましたね。首をくくった方々のお仲間さんがとても好きな方ばかりでした。
果安ってちょい両方の人格ありなのでグレーだったかな?昔相当蘇我氏調べました。

そうそう、どなたかの父と母の名前みて明らかに凄い血持っていそうな方いましたね。母が石川なら蘇我氏の本来の筋の女系さんですよ。なのでその方が生んだ子供はその筋になりますよ。だんなは実はどうでも良くてね。

そう坂上付くんでしたね!田村麻呂にも繋がりますよね。そうお父さんは麻呂持っていたならばいい一族の名付けの仕方ですので。念仏とか関係あるんじゃないかな?あと和歌でコミュニケーションする女性はかなりいい一族ですよ。大伴家持さんも知識あるんですけど調べようかと思う機会もいっぱいありますけど、どうも大伴なので進まずでした。大友の方が天智天皇に近い気がしていましたので。けど大友っていう戦国武将を考えると複雑で。とにかく異質とが混ざってしまってます。
近江との接点も興味深いです。
奈良で黒の付く方のお墓電車かバスかで通ってとって気になってます。飛鳥寺あたりとも接点あるようにイメージしてます。

あとどこかの場所の邸?あれも気になりますね。佐保だったかな?
佐保ならありですね、あそこは相当奈良以外と接点ある地ですので。

さっき思ったんですけど蘇我氏も馬子で乗り替わってるように思います、本流は境部さんだと思っちゃうんですけど誰か他に思う方いないかしら?馬子がやっつけた方も多分正統で穴穂部皇子も気になってます。なんか話が混ざってるんですけど混ざる理由があれば面白いです。

あと、天武天皇=大海人皇子とか言うけどあれもどうも違うように思うんですよね。誰が言ったんだろうか?大海(オオアマ)ってやられて仲間もやられてるように思うんですよね。これは今後関する記事でも検証したいですね。7115
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Unknown (りひと)
2019-04-03 19:17:35
ランキングできましたけど、赤玉と白玉なんですけど琥珀と真珠なんですね。昔真珠追ってたんですけどまた真珠にはまりつつあり手に入った所です。
琥珀は虎ですので祖母系だと思うんですけど、真珠なんですけど黒蝶貝じゃないのかなぁ?ちょっと深読みしています。石垣島に旧石器の遺跡あるんですけどその辺りの民族が地形や天体観測や海運とかよく知っていたんではないかな?なんて今思ってます。

そこが天智天皇系の大友だと大伴への移行で行くと青っぽくも白っぽくも八幡とも繋がるんですよね。
貝輪でもいいんですけどね。洞窟や鍾乳洞の鐘乳石へも繋がると相当古くから日本に住んでいた民族がまだ隠れていそうに思うんですよね。
黒主って気になってきますね。大伴氏は本当分析面倒ですよね。どうも初期出雲っぽくありますよ。植物由来の鉄も関係してくるともっとはっきり見えてきそうですよね。
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ここの話題ではないのですが… (kunorikunori)
2019-04-04 20:05:40
りひと様

「渡来の民と日本文化」という本のなかに、高句麗人の渡来のいきさつは「続日本書紀」延暦八(789ねん)の十月の条に記されている。すでに武蔵国には新羅人が移住していたが、霊亀二年(716)に高麗郡が新設され、同五年に駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国から、高句麗人1799人が同郡の開発のためにうつされた。

このように王侯・貴族が率いる大集団の場合でも、畿内ではなく、近江と武蔵に配置されたのであった。学識のある文人は、政治家・外交官として重用され、朝廷の官僚として畿内に居住した。

天武四年(675)筑紫から唐人30人が送られてきた。この唐人の由来はよくわからないが、遠江国に定住させられた。

このように渡来人方をまとめて暮らすように移動させていたようで、ここでも筑紫から遠江へ…

豊後からとも符合しそうで、書き留めておきました。
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Unknown (りひと)
2020-02-01 10:00:26
ありがとうございます。ランキングで覗いたんですけど、興味深いお話です。

そもそも武蔵には新羅の人がいてそこに気になる地域から高麗の方を配置するって動機が気になりますね。

単純に考えると先住民を動かして支配しやすい人を配置して土地やその土地由来の物が欲しかったのかなあ?

少なくても文書関係の方とは違う民族が先住していたのは確かですね。去年やたら武蔵いく事になったんで面白いタイミングで拝見出来ましたよ。
でちょっと私の中で誤解していたかも?と思うのが唐なんですよね。国名もあるんで紛らわしいので日本で昔から使われてそうな字に直して唐じゃなく柄(カラ)にしようかな?なんて思ってます。KARAのハラさん本当残念ですよ。日本風で素朴ですよね。

話がそれましたけど、武蔵にいたのが新羅というより名柄・長柄の柄ならば加羅っぽくも感じますよね。ナガ、ナカにも多分通じるんじゃないかな?とも。でそこに原素材も出てこないかな?と。高麗(コマ)にもミックスしてくるのかなあ?

少なくても先住民は中央とは少し距離があった民族だったろうから逆にそれがとても気になってきますね。
出雲も関係してきそうなんですよね、隠岐の島もまた気になりはじめてます。

でこちらの記事にどう関わってくるかまた読んでみますね。
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