九里 【九里】を探して三千里

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土岐大膳大夫入道善忠(頼康)の周辺から頼芸まで。頼芸は武田信玄に身を寄せる。

2019-05-06 | 乾氏

《 諸家系図纂 》より
この部分に「乾氏の祖」と言われている「土岐弥十郎兵庫頭頼明=道謙」がいる。



この頼明の後には女子しかいなかったようで、「刑部大輔頼康妻」となっている。

ではこの「頼康」とは?
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/akechi2.htm

↑のアドレスに「土岐大膳大夫入道善忠=頼康」となっている。

この人物を調べてみる。
いつも拝見していた「この方」であった。


太平記にも登場しており、1360年あたりだろうか。
http://cubeaki.dip.jp/taiheiki/taiheiki/taiheiki31-40/taiheiki-35-1.html

「土岐大膳大夫入道善忠(土岐頼康)は故土岐頼遠の子供左馬助を仁木が自分の養子として迎え、何かあれば善忠の所領を横領して、左馬助に与えようと考えていることに腹を立てているこの頃です。」

但し、系図には太平記作頼康は誤成と「頼兼」の註にある。??


ドラマ編の太平記の記事も面白く読める。
http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki4.html

その頼康が亡くなった後に「土岐康行の乱」(1389~1390年)があり、…あまり詳しく知らないので、スルーして、1500年代の頼芸にまでページをめくるとそこに重要なことが書かれていた。

「武田信玄」に身を寄せる。

そうだったんだ!

wikipediaも見てみると、
「頼芸は尾張国の織田信秀の支援を得て、越前国で朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携し守護の座に復帰するが、まもなく天文15年(1546年)、道三と孝景が和睦し、その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡した。さらに天文17年(1548年)、信秀と道三が和睦したことによって後盾を失い、天文21年(1552年)頃、再び道三に追放され、妹の嫁ぎ先である近江国の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸国に寄寓し、この時治頼に系図や家宝を譲り渡したという。次いで上総国の土岐為頼を頼り[2][3][4]、後に甲斐国の武田氏に身を寄せる。この間に病によって失明する。

この間に大勢力となっていた織田信秀の子の織田信長による甲州征伐の際、武田氏に庇護されていた頼芸が発見された。頼芸の旧臣でもあり当時織田麾下であった稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻り、半年後に死去したといわれている。享年81。

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