九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原宗景 (4) 

2023-05-11 | 中原氏バラバラ情報

 

内給の意味は、(コトバンクより)

平安中期以降に行なわれた、天皇年給。毎年、諸国の掾(じょう)二人、目(さかん)三人、および史生(ししょう)その他の一分官(いちぶかん)二〇人の任官を請求する権利で、天皇はこれによって近侍の者に官職を与え、あるいは任料を得て私的な財源に充て、また、この権利を乳母女房年官として与えてその給与の一部とするなどした。→年給

 

建久九年に出てくる宗景だが、友景の息にしては年代に疑問があると思われるため、別人としようと思う。

寛喜三年の宗景はどうなのだろうか?1231年であり、宗景の註に「後伏見院北面 左衛門尉」とあり、年代が合わない。やはり別人か?

次に出てくるのが寛元三年(1245年)、是は友景の息といえるだろうか?

建長五年1253年は?

 

後伏見院北面という事は、友景と宗景は、親子ではなく祖父と孫の関係なのではないだろうか?

範景が抜けているのではないだろうか?

友景は後嵯峨院(在位1242-1246年)の北面だったようなので朝廷に務めていたことになる。

その息が後伏見院(在位1298-1301年)北面だったとは、思えない。孫の世代となるのではないだろうか?

 

宗景の息 中原景氏は1245年に左馬允になっている。という事は、註が誤記載なのかもしれないし、

もしくは、宗氏が友景の息で、その息が宗景…と順番が間違えられているか??

なにか、ある。

 

ともかく、オカシイ。

もう一度、考える必要がありそうである。

 

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中原範景 (3)

2023-05-07 | 中原氏バラバラ情報

左衛門府生中原範景は、承久二年?から文書に見えてくるが、背面の文書で、年号はアヤシイ様な気がする。

寛喜三年(1231年)の文書の裏にある。

 

 

 

寛元元年(1243年)

 

寛元元年(1243年) 左衛門尉  主馬署兼 正六位上中原範景

寛元四年(1246年)西園寺実氏の家侍となる。

北面武士でもある。

同じく寛元四年の五月、意味はよくわからないが、笠を天皇の頭上に???

 

宝治元年(1247年)↓ 父友景とともに

 

 

建長元年(1249年) 判官中原範景 左衛門少尉

建長二年(1250年) 官人 中原範景

建長五年(1253年)行事検非違使

建長六年(1254年)判官中原範景‥‥

 

父の友景と同様に、働き者の範景であった。

 

井口中原の系図の中に、範景は見いだせなかった。坂上氏から中原範政となった系からの養子だろうか?

坂上氏から中原となった系は【範】が通字と見える。

1243年あたりに【範俊】【範基】【範経】が見えるので範景の息かもしれないが、

友景の【景】が通字かも知れず、まだわからない状態である。

 

 

 

 

 

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中原友景 (2)

2023-05-05 | 中原氏バラバラ情報

一昨日の記事に書き忘れたことがあった。

中原光氏は将軍頼経の仰せで、狛氏の猶子となっていた。(1233年 天福元年)

その兄弟となる『中原友景』が本日の主人公。

働き者・有能であったようで活躍も幅広く、117件もデータベースに挙がってくる。

一つ一つ、見ていこう。

建久九年(1198年)内記

寛喜元年(1229年)左兵 

寛喜三年(1231年)1月~7月 強盗を捕まえたことによる賞を賜った。

  

防鴨河判官・左衛門少尉

天福元年(1233年)には検非違使になっている。

  

暦仁元年 天武天皇陵の盗掘をした者を逮捕する。

建長二年(1250年)前石見守中原友景‥‥石見守に補任された際の文書はないのだろうか?

建長二年には東京大学DBでは14の文書が出ている。神護寺文書が多い。2/20~2/29に集中している。

相論があったための、解決策を探しているのかもしれない。

 

石見守は1193年から1200年は佐々木定綱が務めていた。

空白の間、仮に石見守になっていたのであろうか? 中原友景。

 

*****

 

神護寺

http://www.jingoji.or.jp/enkaku7.html

 

googlebooks内の宗像大社文書では、

石見前司友景朝臣『葉黄記』寛元四年(一二四六)正月廿九日条に「御厩案主、後院之時、前石見守友景也」とあ

『明月記』(1235年迄)にも中原友景として散見(今川文雄氏『明月記人名索引』一三四頁、初音書房、昭和四十七年三月)。

とある。

*****

寛元四年(1246年)太政大臣実氏の使者として、関東に下向す。(2回あり)

宝治二年(1248年)

建長六年(1254年)河内国高連御牧関連文書 六波羅御教書案  佐治氏とのやり取りも含まれている。

 

1198-1254年 その他にもあるかもしれないが、今回調べた範囲ではこの辺りが活動期であったと思う。

56年間働いていた中原友景!

無事に息の範景にバトンタッチできたようである。

 

 

 

 

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中原景康(1)

2023-05-03 | 中原氏バラバラ情報

 

一人一人の事跡を追ってみる。

中原景康

 

元久2年(1205年)右兵尉 東大寺 戒壇

元仁元年(1224年)左衛門尉

嘉禎3年(1237年)幕府、左近将監中原景康をして、神楽の歌曲を大江久康に伝へしむ。

 

景康の息光氏の系図が出ていた。狛氏の養子となっている系図である。

 

 

 

 

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近江国御家人井口中原系図の中の 中原成行の系

2023-05-01 | 中原氏バラバラ情報

復習も兼ねて、中原成行、中原政康に関しての情報を集めてみよう。

中原成行は1106年(長治三年)の時に、院の召次勾当であり、院召次所に所属し、院中の雑事・御幸の供奉などを勤めていた。

平戸記には「能登権守中原成行」と残されている。

また、系図の註には『愛智郡大領』『近江国七郡郡司賜 始 住愛智郡長野郷…』

七郡…平安時代、いくつ郡があったのだろう。

wikipediaによると平安時代とは限らないようだが、近江国には12の郡があった。とすると当時は半分以上が中原成行が郡司を務めていたことになる。

当然一人では無理なので、成行の兄、弟、息、甥、などもその手足となっていたのではないだろうか。

時代は平安時代後期から鎌倉時代となると思うが、中原政康が気比神社に40年も神人(養子として入ったようである)としていたことがわかっている。

大番役を務めるようにと(守護から)中原政康に催促が来ていたが、それを断っている。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-02-03-05.htm

 

政康の書状には、

『自分は先祖以来「兵の氏」ではなく「弓箭の道」を永く絶っており、敦賀郡に居住して日吉神人であるとともに、「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住しているが、大番役を勤めたことはないと強調』とあったそうだ。

 

政経と関係があるとすれば、成行の兄であった経行の系となるのではないかと思う。

 

前回に中原友景が成行の系からでていることがわかったが、

政経が三左衛門事件の為に逼塞していた為か、名前が出ていないのだが、経行の系と思う。

 

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中原景安(景康)ー 友景 ー 宗景 ー 景氏 ー 孝景

2023-04-30 | 中原氏バラバラ情報

先日、佐治重家と中原友景(西園寺家の後見と言われていた)のことを調べていて、友景を中原景安の息と位置付けたが、近江国御家人井口中原系図の中では、

 

景康ー友景…とあり兄(弟)にあたる光氏が見えない。

また、鎌倉幕府に仕えた楽士の系図を見ると、景安ー光氏とあり、(兄)弟にあたる友景が見えない

 

中原有安の養子となった景安は、東国に光氏の系を残し、

有安の養子となる以前なのか?景康の次男友景からつづく系は、近江国の中で続いていたと思われる。

特に中原友景は、院の下北面の武士、又、西園寺家の武家との申次の役を担うものとして重要な立場にいた。

 

が、あくまでも景安=景康という、想像である。

 

景安・と景康が『別人』であった可能性もあると思う。

が、友景、下記の系図からもわかるように石見守となっている。

その部分が、私には清原氏と中原氏の接点でもある有安が関係している証拠と見ているのだが、どうであろうか。

*****

さて、後嵯峨院の許で北面武士となっていた友景は、1217年修明門院の下北面を皮切りに、検非違使、案主、等を務め、後嵯峨院にも仕えていたようである。

小中次なので、次男と思う。 景康の註には藤堂中太とある。

 

 

最後の孝景、高山公実録 藤堂高虎伝に

「能登守仕足利義輝弘治二年叙從五位下藤堂孫二郎中原朝臣高景父八從五位下藤堂因幡守中原景保属佐々木京極家賜高字怎子孫為 ...

三井出羽守二男「高虎にあらす又系図によるに景氏の子二人あり兄を孝景といひ弟を政景といふ高信君は政景の統にして孝景 ...」

三井高信。

 

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山縣国政の裔の原氏 原頼忠 

2023-01-22 | 中原氏バラバラ情報

蜂屋三郎の左にいる原四郎頼忠!

 

原頼忠山県政信頼清)の子、小島頼資(家信、美濃小島氏[1]の祖)・彦坂頼定経国、彦坂氏[2]の祖)・蜂屋頼経の弟、不破頼胤の兄。

 

多田頼清ともいう。

山県政信 : 別称は頼清、通称は美濃次郎、「山縣頼清」とも呼ばれる。源頼光の6世の孫頼国の玄孫、多田頼綱の曾孫、国直(山県冠者)の孫、山県国政の子、飛騨瀬国成(飛騨瀬氏[1]の祖)の弟、国時(福島冠者)[2]頼兼(清水冠者)の兄、小島頼資(家信、美濃小島氏[3]の祖)・彦坂頼定経国、彦坂氏[4]の祖)・蜂屋頼経原頼忠不破頼胤の父。父の後を継いだ。

 

源頼光の弟に源頼信がいるが、源頼信は1019年に石見守となっていて、その石見守の許で働いていた久利氏である。(石見守清原定隆もいる)この久利氏も元は清原氏であった。

 

さて、この山縣頼清=多田頼清の息が原頼忠となるのだが、、、、

平安時代後期の武将山県頼清(やまがた よりきよ)のこと。山県氏の祖・源国直の孫(父は源国政)。相模国田所目代となっており、天養元年(1144年)10月21日、源義朝の郎従らとともに大庭氏大庭景宗)の屋敷を襲撃したとの史実が伝わっている。

義朝についていた、相模国田所目代であった、とすると、関東とも十分に縁があったことになる。

その息の頼忠という事は、年代はほぼ中原久経(1146年周辺の生まれ)と同世代かとも思われる『原頼忠』である。

原高成や高春も上総介広常の周辺にいた時代にもかぶっているかもしれない。(上総介は1184年没)

 

山縣国政は斎院次官(京都賀茂神社の斎宮の事務)も務めており、何等か尾張の二宮とも関係があったのではないだろうか?

源義朝とともにいたという事は、長田・鎌田氏他とも共に行動することもあった頼忠の父頼清である。

 

船橋市の郷土資料室からの情報だが、

「忠常の子孫がいつ千葉氏を名乗るようになったか明確ではないが、曽孫にあたる常兼か、その子常重の代ころであろうと考えられる。そのころ本拠地を千葉庄(ちばのしょう)に定めたと想定されるからである。

しかし、常重・常胤父子の代には所領のうち、相馬御厨や立花庄(東庄)を、下総国司藤原親通(ちかみち)によって没収されるという困難な状況に追い込まれてしまった。官物未進(租税滞納)という理由からである。千葉氏にとっては寝耳に水の言いがかりであったかもしれない。そのため父子は、両荘園の回復をはかって長期間奔走したが、懸命の努力にもかかわらず、荘園は源義朝の手を経た後、義朝滅亡後には藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張する佐竹義宗に奪われてしまった。

当時は平清盛の平氏政権の支配が関東に及んだ時期で、下総国の目代(国司代理)も平家方であり、前記の親通の孫で下総に勢力を広げた藤原親政は平忠盛(清盛の父)の女婿である。そのように、平家方の親通系が土着する過程で、最も被害を受けた在地領主が千葉氏であった。

 

wikipediaの相馬御厨のページ

「平家政権下の永暦2年(1161年)正月、佐竹義宗(佐竹隆義の次兄)が相馬御厨を寄進するという事件が起きる。

佐竹義宗が前下総守藤原親通が持っていた新券(証文)を親通の次男・親盛から入手し、奪いとったのである。佐竹義宗の寄進状には「自国人平常晴今常澄父也、手譲平常重并嫡男常胤、依官物負累、譲国司藤原親通朝臣、彼朝臣譲二男親盛朝臣、而依匝瑳北条之由緒、以当御厨公験、所譲給義宗也、然者父常晴長譲渡他人畢所也」とある。

これを知った千葉常胤も翌2月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。そもそも藤原親盛から譲り受けた新券(証文)はとっくに無効になっていたはずだが、藤原親盛の娘は平重盛の側室だった。」

 

山縣氏…原氏とのつながりもある。佐竹秀義の妻の一人は山縣国政の娘であった。

佐竹義宗と佐竹秀義の関係は?

 

佐竹義宗 コトバンクより ↓

平安後期の常陸国(茨城県)の豪族。清和源氏の流れで父は佐竹氏の祖昌義。通称竹田三郎。兄弟に忠義,隆義,昌成らがいる。平治1(1159)年平治の乱で源義朝勢力が没落すると,平氏方有力者である下総守藤原親通と結んで下総国に勢力を拡大。千葉常胤らを排除して,義朝敗死ののち謀反人の所領として闕所となっていた相馬御厨の領有権を主張,応保1(1161)年伊勢神宮に御厨を寄進し,御厨預職を相伝した。相馬御厨の権限は藤原親通の次男親盛(平重盛の義父)より伝領したもの。八条院に出仕し,子の義賢ともども八条院判官代に任じられ,またのちには鳥羽院の近臣として中央政界と密接なかかわりを保った。治承4(1180)年,源頼朝の挙兵に並行して千葉常胤が千田親政(藤原親盛の嫡男)を滅ぼし復権したため,この前後に没落したらしい。<参考文献>野口実『坂東武士団の成立と発展』

(海津一朗)

平安時代後期の常陸国武士佐竹昌義の子。通称三郎(佐竹義宗)

佐竹秀義の妻は佐竹義宗の娘!! さらに秀義の妻に宇都宮朝綱娘、山縣国政の娘、もいる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%A7%80%E7%BE%A9

 

義宗の兄に佐竹義政

義政の娘聟に片岡経春(常春)がいる。

 

山縣・原・佐竹・片岡・藤原親正(中原親盛)…

更に陰に隠れているが『上総広常』  

上総広常は佐竹義政を殺している。

 

 

 

 

 

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良峯氏と土岐氏の接点

2023-01-21 | 中原氏バラバラ情報

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%B8%AD%E3%83%BB%E6%9C%AB%E6%9C%9F%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%83%A1%E3%80%80%E8%89%AF%E5%B3%AF%E5%AE%B6%E3%80%85%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E3%82%92%E9%80%9A%E3%81%97%E3%81%A6.html

 

「良峰一族の原高直が 1204( 元久元 ) 年に伊勢で起きた平氏の反乱に関係して所領没収され、ついで1216( 建保4)年に立木田高光が丹羽郡司を退任後、その職は子孫へと伝承しなかった。そして、稲木庄も良峰氏の手を離れ、美濃の土岐光行の一族がはいることになった。」

( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1460.pdf 参照 )

 

ちょうど富木常忍が生まれた年(1216年)である。原氏と関係のある良峯・立木田高光ののち稲木庄は土岐一族の手に渡ってしまう。稲木庄は、良峰氏の一族・立木田高光が長講堂領として寄進して成立した荘園だそうである。

上記の良峯氏に詳しいページよりここに留めて置くと、


『… 更にそうした経緯について、上村喜久子著「尾張の荘園・国衙領と熱田社」 第1部 荘園・国衙領と在地勢力 第2章 尾張「良峰氏」考 P、77にも、

「頼朝から高春が安堵された地頭職は子高直に継がれたが、何らかの事由により元久年間(1204~1206)以前に収公されている。

二宮高直跡は、池田新次郎行重 子息 為行と中務丞国盛が競望したが、池田為行は、高直に同意し勘当を
蒙ったという理由で退けられ、国盛に与えられた。

建保4(1216)年 後鳥羽院西面の武士であり幕府御家人でもある土岐光行は、池田新次郎子息追討の功賞によって左衛門尉に任ぜられている。(出典 尊卑分脈 3 P.147)(中略)

先に高直に同意したという為行の今回の行動に、高光ら「良峰氏」一族が加わった可能性もあるのではないか。」と記述されている。

元久以後、小弓荘代官と地頭 中務丞国盛の地頭代により、大縣社領の散在する小弓荘内の地は、管理されていく。』

 

*****

 

上記は難しく、良くは理解できなかったが、良峯姓の原氏周辺に、土岐氏が登場した。

(押領のようで、あまり良い形ではないかも知れないが、婚姻関係など何かあったかもしれない。)

なぜかというと、富木常忍が【土岐】とも書かれていたり、何か混乱しそうなことがあったかもしれない。

 

『小弓荘代官と地頭 中務丞国盛の地頭代により、大縣社領の散在する小弓荘内の地は、管理されていく。』とあるが、山縣国直(美濃国山縣に住み山縣を称す)―国政ー国時ー国盛ー の国盛だろうか。

山縣氏と近江国佐々木系木村氏が関係があったが。

(源国直妻 宇多源氏佐々木党 木村兵部大輔定通女

 

 

山縣国直(美濃国山縣に住み山縣を称す)―国政ー国時ー国盛ー 

の国盛だとすると、なおさらに繋がりそう!

なんせ、我が家の家伝「先祖は佐々木、神社の方…」がある。

 

記憶にないが、昨年の10月に書いた記事につながる。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/8b905959a49fb531a0591edc122ff48b

清和源氏で山縣先生国政の孫原四郎頼忠に始まる原氏が知られる。

国政は頼政の養子である。

孫が原頼忠。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/hara.html

 

この原氏はどの原氏なのだろうか?

原頼常にも似ているが。

 

 

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高向利生は、高向利春の兄弟か。 

2022-12-11 | 中原氏バラバラ情報

又、以前調べた事項がループのようにやってくる。少しずつでも進んでみたい。

 

小野美材(よしき)

高向利春

高向利生は、筑前守

https://hon2.hatenadiary.org/entry/20060519

https://ameblo.jp/settunokami-0106/entry-12692064290.html

 

高向が小野とつながる。

高向利春は、秩父牧の牧司であり、武蔵少掾であった。(大化改新 史論 第一巻 門脇貞二著)

この高向が中原長谷の母であった利男とどのような関係であったのか。

養父が小野美材と言われている。

 

 

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能登・松波畠山氏と若山荘木郎郷 memo

2022-12-10 | 中原氏バラバラ情報

 

若山荘

https://kotobank.jp/word/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E8%8D%98-879867

 

皇嘉門院

https://kotobank.jp/word/%E7%9A%87%E5%98%89%E9%96%80%E9%99%A2-61637

 

益田氏系図の研究

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/23/kiyo0023-02.pdf

 

能登畠山氏と近江国余語庄

http://nanao.sakura.ne.jp/special/hatakeyama-yogo.htm

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