九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

土岐頼芸の受けた恩を、板垣氏の息に乾という名を与えることで恩返しをしたのでは…

2019-05-06 | 乾氏

恩返し、という視点から見てみよう。

土岐頼芸が斎藤氏に追い立てられ、放浪していた。

妹の嫁ぎ先である近江国の六角氏、
実弟の治頼がいる常陸国に寄寓し、
次いで上総国の土岐為頼を頼り
後に甲斐国の武田氏に身を寄せる。
この間に病によって失明する。

織田信長による甲州征伐の際、武田氏に庇護されていた頼芸が発見された。
頼芸の旧臣でもあり当時織田麾下であった稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻り、
半年後に死去したといわれている。享年81。

~~*~~

稲葉一鉄の初期の主君であった「土岐頼芸」である。
天正10年(1582年)土岐頼芸は没している。

一方、乾氏に関しては(wikipedia)
弘治3年(1557年)
父が死去したとき、正信はまだ幼少であったため、従者の北原羽左衛門・都築久太夫の両名に供奉され籠居したとされる。正信の弟・板垣正寅は父が殺害された後、生母と共に一旦丹波国へ籠居し、のち京都・南禅寺に預けられて育った。『遠碧軒記』によれば、正寅は聡明さを認められて還俗し、京都下御霊神社の斎部信英の女を娶り社家を継ぎ、下御霊神社出雲路家の祖となっている。


https://itagaki.wiki.fc2.com/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E7%BE%BD%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80

伝承によれば、乾加兵衛正信の父・板垣信憲が本郷八郎左衛門によって殺害された時に、北原羽左衛門と都築久太夫という従者に連れられて逃れ養育されて成長。平素武芸鍛錬を怠らず武功を立て、
その後、天正18年(1590)10月7日、遠江国掛川で山内対馬守一豊に仕え、榛原郡勝間田麻生村に采地を賜い、最終的に山内家とともに土佐にやって来たと伝えられています。

かつては、高知の板垣山の乾家(板垣家)歴代墓所にお参りする際、この「北原羽左衛門」家のお墓にもお線香を一本灯してお参りする習わしがありました。

~~*~~

…という事は、弟がいた事をを考えると2歳くらい、1590年には35歳。

乾和宣は織田信長に仕えたが、元亀元年(1570年)に越前国朝倉氏との金ヶ崎の戦いにおいて討死している。
和宣の父・重頼は当初土岐氏を称したのち乾氏に改めたが、大永2年(1522年)の小野山の合戦(一説には永正15年の合戦)で討死している。

宣光は、慶長6年(1601年)土佐藩家老となっていた弟・和三を頼り土佐国に来住し、土佐藩主・山内一豊に仕えた。

一豊から信任の厚い和三の兄ということで歓迎され、一豊の高知城築城の視察にあたり、身の安全のために仕立てた影武者・同装束六人衆(野中玄蕃・市川大炊・柏原長宅・乾宣光・乾和三)の一人に選ばれている。

この宣光よりも前という事は、

残る一人「和三」に拾われて(…と言っても35歳だが)乾姓を名乗ることとなったことになる。

==+==

wikipediaを読むと、

板垣正信は武田氏滅亡後、同じく浪人となっていた孕石元成らと共に、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で陣借りして奮戦し遠江国掛川城主となった山内一豊に、同年10月7日に召抱えられた。

山内家に仕官以降
この時、推挙した家老・山内備後守(乾和三)より「乾」の使用を許可されたといわれる。

・・・とあった!!

石高は136石で、知行地は、遠江榛原郡勝間田麻生村であった[5](孕石元成も一豊に召し抱えられ200石を賜った)。その後、20人の鉄砲衆を従えて御馬廻役に列した。

慶長6年(1601年)、主君・山内一豊が土佐国に封ぜられた際、知行1000石(内200石は鉄砲衆の役料知)を下し置かれた。

慶長13年1月17日(1608年3月3日)に病死。
土佐土佐郡薊野村(現 高知県高知市薊野東町)板垣山に葬られた。

正信の跡は、養子・正行(山内一照の二男)が継いだ。この山内一照は、永原氏である。

祖先は宇多源氏佐々木氏支流である山崎氏支流の永原氏。初め高照を名乗る。
山崎能長の子の右馬助景長が近江国野洲郡永原村を領して永原氏を称した。

永原高照は、当初は六角氏に属し、その衰退後織田氏に仕える。天正13年(1585年)、近江国長浜城主となった山内一豊に仕える。

その後一豊より「一」の偏諱を受け一照と改める。
通称は刑部大輔。
また山内姓を許されて山内一照・山内刑部を称した。天正18年(1590年)、
一豊の遠江国掛川転封に伴って500石を与えられる。
日蓮宗であった。


長男:永原一長(山内但馬)(生年不詳 - 1640年)
孫:永原勝秀(山内辰之助)
二男:乾正行(山内平九郎)、乾正信の養子となる
孫:乾正祐(乾与惣兵衞)(生年不詳 - 1672年) - 子孫・板垣退助
孫:乾正直(乾市郎兵衛)(生年不詳 - 1688年) - 子孫・乾正厚
孫:乾友正(乾源五郎)(生年不詳 - 1689年)

===*===

という事は、
やはり、土岐頼芸で受けた恩返しもあって(もちろん実力もあってだろうが)、板垣正信を推挙し、乾和三は自分の乾姓を贈ることにしたのではないだろうか。

山崎氏系の永原氏であった山内一照を「乾氏」としたことは偶然であったのだろうか?
一照は1558年に生まれ、1620年に没している。その二男正行を乾氏に養子に入れた。

この乾氏は
清和源氏土岐乾氏から清和源氏義光流の板垣氏になり、そして宇多源氏山崎系乾氏(途中に山内氏が入るが)となったことになる。

宇多源氏の乾氏と清和源氏の土岐乾氏の関係があってこその養子縁組なのか?
それともただの偶然なのか、知りたい所である。

明日は周辺を掘ってみたい。

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江州長浜 浜ちりめん 乾庄九郎氏と中村林助氏 創設

2019-05-06 | 乾氏

http://www.hamachirimen.jp/histry.htm

長浜! そして 乾氏 

戦いの記事ばかり見ていると、私は武士にはなりたくないな…と思う。

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土岐大膳大夫入道善忠(頼康)の周辺から頼芸まで。頼芸は武田信玄に身を寄せる。

2019-05-06 | 乾氏

《 諸家系図纂 》より
この部分に「乾氏の祖」と言われている「土岐弥十郎兵庫頭頼明=道謙」がいる。



この頼明の後には女子しかいなかったようで、「刑部大輔頼康妻」となっている。

ではこの「頼康」とは?
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/toki/akechi2.htm

↑のアドレスに「土岐大膳大夫入道善忠=頼康」となっている。

この人物を調べてみる。
いつも拝見していた「この方」であった。


太平記にも登場しており、1360年あたりだろうか。
http://cubeaki.dip.jp/taiheiki/taiheiki/taiheiki31-40/taiheiki-35-1.html

「土岐大膳大夫入道善忠(土岐頼康)は故土岐頼遠の子供左馬助を仁木が自分の養子として迎え、何かあれば善忠の所領を横領して、左馬助に与えようと考えていることに腹を立てているこの頃です。」

但し、系図には太平記作頼康は誤成と「頼兼」の註にある。??


ドラマ編の太平記の記事も面白く読める。
http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki4.html

その頼康が亡くなった後に「土岐康行の乱」(1389~1390年)があり、…あまり詳しく知らないので、スルーして、1500年代の頼芸にまでページをめくるとそこに重要なことが書かれていた。

「武田信玄」に身を寄せる。

そうだったんだ!

wikipediaも見てみると、
「頼芸は尾張国の織田信秀の支援を得て、越前国で朝倉孝景の庇護下にいた頼純と連携し守護の座に復帰するが、まもなく天文15年(1546年)、道三と孝景が和睦し、その和睦の条件が頼芸の守護退任であったため、頼芸は守護の座を頼純に明け渡した。さらに天文17年(1548年)、信秀と道三が和睦したことによって後盾を失い、天文21年(1552年)頃、再び道三に追放され、妹の嫁ぎ先である近江国の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸国に寄寓し、この時治頼に系図や家宝を譲り渡したという。次いで上総国の土岐為頼を頼り[2][3][4]、後に甲斐国の武田氏に身を寄せる。この間に病によって失明する。

この間に大勢力となっていた織田信秀の子の織田信長による甲州征伐の際、武田氏に庇護されていた頼芸が発見された。頼芸の旧臣でもあり当時織田麾下であった稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻り、半年後に死去したといわれている。享年81。

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江源武鑑 の 乾氏 久徳氏(=九里氏の末裔ではないだろうか)

2019-05-04 | 乾氏

江源武鑑の中の「乾氏」と「久徳氏」を書き出してみた。

1巻
一 志賀  佐々木五代の嫡領成頼の三男成経が元祖である。
一 真野  同七代の嫡領経方の次男行定が元祖である。
後に舟木、間宮と号し、いずれも真野の庶流である。
一 木村  同七代の嫡領経方の三男定道が元祖である。
一 伊庭  同七代の嫡領経方の四男行実が元祖である。
一 愛智  同七代の嫡領経方の五男家行が元祖である。
一 乾   同七代の嫡領経方の六男行範が元祖である。
2巻
乾権頭吉武
乾河内守盛国
十二番 皆 乾次郎三郎 十六歳
久徳左馬允光成を常陸国の佐竹家へ遣わされる。

3巻
先陣は八幡山左馬頭義昌を大将とし、馬渕、楢崎、三井、池田、平井、永原、三雲、種村、建部、澤田、山崎、片桐ら旗頭が総勢一万余騎にて君々畠越えで北伊勢に攻め入る
後陣は箕作義賢を大将とし、青地、蒲生、京極、山岡、大野木、磯野、久徳、浅井、木村、乾、宮部ら旗頭が総勢一万三千余騎にて八田越えで北伊勢に攻め入る。
高嶋の横山伊予入道久徳が死去する。享年九十七歳。この入道は佐々木家五代に仕えた老将であるので屋形は非常に悲しまれる。

4巻上
乾久内

4巻下
乾忠国
文と武と兼備たる名将は火にさへもえす水におほれす
久徳氏三
かねもなり鳥もきこゆるしののめに別て帰る暁はうし

5巻
乾河内守盛国

7巻
乾采女正の女房が天狗にさらわれてから今年で三十一年になるが、その女房が故郷に帰ってきて異国の有名な事などを語る中に、朝鮮国全羅道の光朝子が作った狗犬記の話があった。このことを今日観音寺城に申し上げたところ屋形の後見義賢の仰せとして近日観音寺城に召し出されることになった。
江州津田の入江にて白い菖蒲の花が咲いたと現地の地頭である乾兵部少輔実忠が観音寺城へ申し上げる。

9巻
軍奉行 乾兵庫介 在判
乾安房守     旗頭内

二十一日 雲州の亀井新十郎茲矩という者が江州に来て後藤但馬守を介して屋形に面会する。茲矩が申し上げるには、吾は元来御当家の一族である、生国は雲州で佐々木五郎義清から十六代の子孫である、生前の面目に御当家代々の系図金泥の巻に書き入れていただければ本望であるということである。そして懐中から一巻を取り出して屋形に献上する。屋形がこれを御覧になったところ確かに五郎義清から代々記されており、すぐに金泥の巻に書き入れられる。亀井茲矩は謹んでこれを受ける。亀井はこの他に雲州の軍伍について語る。亀井が記し伝えてきた代々の者は次のようである。

屋形は乾加賀守に詳しく金泥の巻に書き加えさせられる。加賀守は江州一の能書であり、既に皇聞に達してその筆を認められた者である。

8巻は百ケ条

9巻
十三日 屋形は久徳左馬允光成に諱字を与えて秀成と名乗らせる。この者は前屋形義実公の代には近習であり、特に調度掛の役人であった。
十九日 後藤但馬守が屋形に注進し、逆心の罪で久徳秀成を討つ。

10巻
乾主膳正
久徳左近兵衛尉実時

11巻
乾伊賀守、土岐想五郎
澤田但馬守、乾伊賀頭等討死
乾右馬頭

13巻
乾加賀守

14巻
乾甲斐守
久徳左近兵衛尉

15巻下
乾伊賀守
酉の刻に洪水が起こる。戌の刻に大津の浜町が三町焼失する。これは信長方から送りこまれた忍びが舟にて浜町に火をかけたという。浜町の町人で松坂屋宗安という者は元来濃州の不破の者であったが信長の家人松井藤蔵という者の兄であるので忍びを引き入れる。すぐに乾式部の手の者が火付十一人と宗安を召捕り屋形の本陣松本へ引っ立てる。屋形はこの火付十一人を野村吉五に命じて大津の北茨川の浜辺にて磔にされる。これは信長方の陣所に見せるためであるという。大津町人松坂屋宗安については、生国の好を思い信長へ忠義を励み信長方の忍びを引き入れたことは確かに憎い事であるが、先祖の主人を慕い敵国に居てもその心差しを遂げたことは尤もなことであるとして逆に黄金二十枚を与えて美濃国へ追放される。これは江州の地下人に至るまですべての者が他国に居住していても先祖譜代の主人を捨てることがないようにとの屋形の計略であるという。

16巻
乾甲斐守秀氏を屋形の名代として山州愛宕大権現へ遣わされる。当屋形はこの愛宕の申子であるので殊更に信仰される。
乾武蔵守
浅井、乾、建部は粉骨砕身して戦い
乾甲斐守を尾州へ遣わされる。
二十七日 久徳左近兵衛尉に屋形が諱字を与えられる。これは去年の数々の軍忠によるものである。旧冬に忠功を立てた面々に賞地を与えられたが、尚もその功を感じて今このようにされたのであろうか。

17巻
久徳左近兵衛
乾加賀守
乾刑部
乾甲斐守、伊庭采女正

18巻
乾兵庫助
乾備前守
乾備中守
乾豊後守



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乾甲斐守秀氏を「江源武鑑」の中に見つける。

2019-05-04 | 乾氏

「江源武鑑」http://www6.plala.or.jp/gousyuu/bukan.html

この第1巻からページごとに検索をかけてみると、乾甲斐守秀氏は
私が思っていた時代よりもぐっと後で、1569年あたりの人物であった。

この和宜(宣?)と同時代に活躍していた人物となる。



水茎岡山城が居城となっていたことも本で見つけた。驚きである。↓
九里が亡きあと、こんなにも時間がたっていたのか。。。。

乾甲斐守秀氏ではなく、その父か祖父も「乾甲斐守」を名乗っていたのだろうとは思うのだが、イマイチ不安である。
その人が乾甲斐守秀之となるのかもしれない。(江州佐々木南北諸士 蒲生郡)




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池田氏・乾氏・土岐氏・多田氏・波多野御曹司など

2019-05-02 | 乾氏

乾氏を調べている。系図 http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-toki-inui.html
【始祖】土岐道謙  【本貫】美濃國池田郡東北(乾)
【世系】乾氏は清和天皇の末裔土岐氏に出づ。土岐道謙の四男道盛が美濃國池田郡乾村に依りて乾氏を称す。
【家紋】丸に桔梗
【菩提寺】曹洞宗永平寺末古峰山永源寺(乾流寺)

気になったのがこちら↓

近江池田氏は、近江国甲賀郡池田を本拠地とする宇多源氏佐々木流の支流である。蒲生郡浅小井の住人
なんと言っても浅小井である。

~~~*~~~

そして、上記の系図をみると、乾氏の官職に「宮内卿」「将監」「内記」「治部少輔」「大膳」などが見える。
さらに重頼の兄弟の官職に「宮内少輔」とある。

年代的にはこの久右衛門重頼や「宮内少輔」あたりが、九里員秀や浄椿と重なっている。

他にも系図に現れてこない人々がいると思う。



さらに遡ってみると以下の系図となる。
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-gen-toki.html




http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-gen-tada.html


http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-gen-ikeda1.html






戦国末期、池田景雄と九里三郎衛門+池田新三郎が諍いを起こしている。
別系かもしれないがmemo。

佐々木哲氏のメルマガより
「「沙沙貴神社所蔵佐々木系図は、長江定成の末弟馬淵公綱(従五位下左衛門尉、近江守護代)の子三郎頼基に「西池田」「美濃守」と注記する。
美濃国池田郡池田荘(西池田)を領したことを意味しよう。
『尊卑分脈』紀氏系図によれば、紀維実から奉光まで七代が美濃池田郡郡司であり、奉光の子奉永が後鳥羽院武者所を勤めて池田武者所と称され、また鎌倉御家人にも列した。
しかし鎌倉中期の奉忠以降、本貫地池田庄を離れて鷲田郷に移住した。
馬淵氏が池田荘下司職あるいは地頭職を得たのだろう。
中原系図に見える長江盛定の次子「明智」は、土岐明智頼兼の舅長山遠江守頼基(実名頼煕)と推測できる。こうして長山・明智・長江がつながる。」

~~~*~~~
土岐氏と佐々木氏の接点

土岐左京大夫 池田二郎持益(1406-1474)美濃守 女 六角高頼室
土岐元頼 明応4年(1495)6月遁於近江國(逐電か?)
土岐政房女(娘)佐々木義賢室






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乾氏との接点は山内一豊の母法秀院(長野氏)と一豊、さらに深尾重忠・永原一照ではないだろうか?

2019-05-01 | 乾氏

もう一度、下記の部分に注目して見ようと思う。
以下は誇大妄想かも知れない。
『乾甲斐守秀行(之)か 秀氏である人物が、もしも九里浄椿(伊賀守)の父であったとする。
九里員秀の娘が院に出仕していた。
そこで乾氏に嫁いでいたとする。
その息(つまり員秀の孫)がもしも伊賀守であったなら…』
『九里伊賀守の兄弟は乾兵庫守であったかもしれない』

あくまでも仮定である。↑




上記の他の情報(江州佐々木南北諸士 蒲生郡)をプラスしてみる。
https://www.daitakuji.jp/%E5%8D%97%E5%8C%97%E8%AB%B8%E5%A3%AB%E5%B8%B3-8-%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%83%A1/

岡山城主    佐々木随兵       久徳兵庫頭
九里兵庫守?(九里には兵庫守は見当たらず、乾氏には兵庫の名は見える。)
岡山城主    雲州佐々木末流     亀井新十郎季経 (九里氏の後に入ってきたのか?)
永原城主    佐々木末籏頭     〇乾主膳正秀之

永原城     屋形七代経方二男豊浦冠者行実子流

                    乾甲斐守秀之

長光寺                 乾次郎三郎



他に、年代が同じかどうかは分からないが、2件「乾甲斐守」に関することが見つかった。

舟橋尚賢

生没年:1682-1726
父:神祇権大副 吉田兼敬 
義父:刑部卿 舟橋弘賢
初名:兼尚
少納言
1723 従三位
妻:(父:刑部卿 舟橋弘賢)
高子
娘(乾甲斐室)… 乾甲斐守 1700年位生まれか?
1721-1768 親賢


https://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e6%b8%85%e5%8e%9f%e6%b0%8f%ef%bc%88%e6%a5%ad%e6%81%92%e7%b3%bb%ef%bc%89#kunikata615

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%88%9F%E6%A9%8B%EF%BC%88%E8%88%B9%E6%A9%8B%EF%BC%89%E5%AE%B6%EF%BC%88%E5%8D%8A%E5%AE%B6%EF%BC%89

義父の「舟橋弘賢」を遡っていくと「清原頼業」に行き着く! 途中 細川ガラシャ侍女であった「清原いと(マリア)」の名も見える。

実父の「吉田兼敬」を遡っていくと「卜部兼延」に行き当たり、その兼延の息~「卜部」と「吉田」の二つの流れになる。

時折、清原氏との婚姻関係がある。


もう一件東京大学史料編纂所DBで「乾甲斐守」で検索すると以下が出てきた。

乾直幾(いぬいなおちか)
【原文表記】 兵部大輔、甲斐守
【メモ】 池田光仲家臣。新助。兵部大輔。甲斐守。大坂の役で父長次と共に池田忠雄に従い軍功あり。忠雄の岡山転封に際し、父とは別に禄千石を受け家老の事を摂す。元和二年遺跡を継ぎ二千五百石。家老職に補され兵部大輔と称す。寛永七年千石加増。九年池田光仲の因幡伯耆転封に際し、荒尾成利・同嵩就と共に幕府より光仲の補佐を命ぜらる。慶安元年四月没。
【出典】 鳥取藩史

この人物の系を遡る。
wikipediaによると、先祖は「足利義澄」に仕えていたとあった。
乾氏は本姓は宇多源氏で、佐々木経方の六男行範の支流という。
水茎岡山城の城主「乾甲斐守」はこの直畿の系であった可能性が高い。

九里も佐々木行範とはつながりがあると思っていたので、納得ではある。
同じ乾氏の宇多源氏佐々木流乾氏も同じく行範の流れという。

乾氏の3流、どれにも何かしら接点があるように思える。
その接点の時代は違うのだが。

特に山内一豊の母は「長野氏」に寄寓していたようであり、その長野氏の先祖に在原業平。
在原業平の妻は「紀氏」であるという。このあたりとつながってくるのだろうか。
江州中原氏の中にも「長野氏」がおり、「多賀氏」とつながっている。

~~~*~~~

山内一豊と乾氏の接点の場面を書き出してみる。

清和源氏頼光流 土岐支流 乾氏
天正6年(1578年)播磨国ではじめて山内一豊によって召し抱えられた。

清和源氏頼信流 板垣支流 乾氏
天正18年(1590年)10月18日遠江国掛川ではじめて山内一豊に召抱えられた。

宇多源氏 佐々木支流 乾氏
山内忠豊公の御代、1661年(万治4年)4月13日に初めて土佐藩に召抱えられる。忠豊は一豊の養子山内忠義の息。忠義の兄弟に深尾重昌がいる。下に詳細の系図を載せる。

鳥取乾氏は、池田氏と関係する。乾長次は鳥取乾氏の祖・乾太郎兵衛の孫に当たる。

===+===

鎌倉時代の土岐光行・光定と「富木蓮忍・常忍」…清和源氏頼光流 土岐支流乾氏
家紋が同じ…清和源氏頼信流 板垣支流 乾氏
行範の末裔深尾氏と関係…宇多源氏 佐々木支流 乾氏(乾兵庫が祖)
九里氏に直に関係があると思われる…鳥取乾氏。(宇多源氏佐々木支流 乾氏でもある。)

~~~*~~~

書き忘れていた事、永原氏。
永原一照は山内刑部となっている。山内一豊から「山内」を賜わっている。
永原氏と深尾氏には婚姻関係があり、特に九里の遺児を助けてくれたと思われる深尾秀長の母親は永原越前守女(娘)である。



鍵となるのは、山内氏・永原氏かもしれない。

上記の系図を見ると、深尾重昌周辺の山内氏とのつながりも見ることができる。


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