九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

美濃源氏 乾氏の祖 道謙 と その周辺(4)

2019-11-05 | 乾氏

道謙が「頼明」や「頼里」ではなく、そのまま「道謙」であるのではないだろうか?
頼里に関しては、康貞のことと明記された文書がある。





道謙の四男「道盛」の系図もある。


四男というからにはあと3人の息がいた事になる。
この「道盛」を探しているが、今の所まだ情報はない。
しかし、盛を使った人物が一名 
「乾城は、築城年代や築城者は定かでないが、六角氏に仕えた乾盛国が居城していたと伝えられている。」
https://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/inui.htm

妙に気になる「盛国」である。

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美濃源氏 乾氏の祖 道謙 と その周辺(2)

2019-11-03 | 乾氏

佐々木哲学校記事より

土岐伯耆守頼貞の弟舟木頼重は、土岐章氏所蔵土岐系図にあるように実名は頼久で、その子に建武の新政下の讃岐守護高松三郎頼重がいたと考えられるのです。それは、舟木頼重の子に土岐左近蔵人頼員がいますが、系図では「頼春」と記されており、春の字の草書体が重の字に似ているからです。

実は『太平記』諸国朝敵蜂起事に高松頼重の父が戦死したという記事があるのですが、このときすでに系図上の舟木頼重の父土岐光定は亡くなっており、戦死などできないのです。しかし系図上の舟木頼重の子頼春が高松頼重であれば、父戦死も考えられます。

~~*~~~
以下のようになるのかな?と思う。

舟木頼重=実名は頼久
高松頼重の息は頼員(本当は頼春)
この高松氏とは、舟木氏の祖のことでもある。

前回の明智頼重とは別人だが(年代も違う)、上記では通称と実名が違い、また、春が員に誤読されたり、とある。
このようなことは、他にもあるに違いない。

また、乾の祖である道謙の諱も依然としてわからない。乾頼里(道謙/周済)という説もある。頼兼という説もある。
前回は頼明として考えてみたが、今度は頼兼として考えてみたい。
道謙の「謙」に「兼」の文字が入っていて「かね」とも読めるためである。

頼兼は【土岐伯耆前司】であったことが「越前藤島神社文書(元亨4年)9月26日」で判る。
正中の変で亡くなっているとのことなので、道謙と同一人物ではないことがわかるのだが、
実は頼兼と名のついた人物は土岐氏の中に3人もいるのだそうだ。↓のアドレスより(私が少々文面を変更もしている)
上記での人物は「一人目」となる。

https://akechi1582.com/2107/

【1人目】
【土岐頼兼】
土岐頼兼⇒ 美濃国守護の土岐頼貞の10男。
通称は十郎。
【兄弟】
頼直・高頼(妙光)・乾頼里(道謙/周済)・
舟木頼衡・墨俣頼連(周崔)
・頼清(頼宗)・頼遠・頼仲・長山頼基の弟、
頼明・徳山貞信室の兄とされています。
鎌倉時代後期の元亨4年9月(1324年10月)に起きた
「正中の変」で自害する。

【2人目】
【明智頼兼】
通称は明智次郎。
明智の祖とされています。
土岐頼貞の6男である土岐頼清(頼宗)の子です。
頼康の弟、頼雄・久々利康定(康貞)・
頼直(よりただ)・直氏(ただうじ)
・頼忠の兄です。
惟任光行の父親になります。
但し惟任光行は早世しています。
明智氏の祖で、妻は豊後大神氏の娘とされています。
嗣子の光行が早世したために、
従弟の頼重(頼助)(長山頼基の子)を養子に迎えて、
明智姓を名乗らせその後を継がせました。


👆私は、この部分が道謙の後裔とつながってくるために「道謙」イコール「頼兼」という説が出てきたのかもしれないと…
頼重と頼助が同一人物ではなく、二人としている系図もある。
この頼重の次息に肥田頼寿がおり「よりひさ」と読めるのではと思う。
何だかめちゃくちゃに思えるが、今は名前だけに注目しているのでご勘弁を。


【3人目】
【土岐頼兼】
土岐頼貞の6男である土岐頼清(頼宗)の
更に6男である土岐頼忠の三男と言われています。
土岐頼忠は美濃守護となっています。
【兄弟】
光忠(月海入道)・頼益の弟、
頼音(よりおと)・鷲巣之康・光兼・頼錦(よりかね)
頼郷・大桑頼名・頼長の兄です。
生母は徳山貞信の娘とされています。

明智城築城主は【2人目】の「土岐頼兼」である「明智頼兼」ですね。

===*===

上記の記載の中に「徳山氏」が二度ほど出ている。
徳山貞信室の兄・徳山貞信の娘である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B1%B1%E5%89%87%E7%A7%80

https://tokuyama.net/zzzoldsite/toki.htm

徳山家の系図3点を東京大学史料編纂所DBで見ることができる。
細かな情報もあって、参考になる。


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美濃源氏 乾氏の祖 道謙 と その周辺

2019-11-03 | 乾氏


この系図の中に
佐々木道誉 二階堂時綱娘が妻となっている。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E6%99%82%E7%B6%B1-1098759


そして、美濃国武儀郡関 二階堂行藤の娘が関氏に嫁いでいる。
この行藤の息の貞藤は夢窓疎石を招いて浄居寺を再興している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%B0%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E8%97%A4

この鎌倉時代後期から室町時代初期にかけて「武儀郡」に二階堂氏もはいりこんでいたとは。
何かとても魅力があったと思われるのだが。絹?紙?鉱物?人脈?なんだったのだろう。
北条氏ともつながりがあり、二階堂氏ともつながりがある。

さらに1315 正和4年 9月7日 (宮城家本明智系図 )○土岐頼清の男頼康池田郡小島で誕生、母は佐々木備中崇西の女とあり、佐々木氏とも繋がっている。

佐々木哲学校の記事よりだが、
佐々木頼綱(崇西のこと。)
佐々木頼綱(一二四二-一三一〇)泰綱の次男。母は足利氏(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略では「母足利頼氏女」とするが年代が一致しない)。壱岐三郎。左衛門尉、検非違使、大夫判官、従五位上、備中守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。佐々木備中入道崇西。「金田殿」(『比牟礼八幡宮領条々』)。

さらに、この「金田殿」の金田荘付近にいたのが九里氏である。六角氏被官であったと思う。
(和歌山九里系図の中には六角氏頼家人と書かれている。←頼綱の孫にあたる。)

佐々木頼綱の妻は二階堂行章で、孫の氏頼の妻は佐々木道誉の娘となっている。

土岐頼忠の妻も佐々木京極氏の娘とある。(wikipedia)この頼忠の養父は頼貞となっている。

===*===

土岐氏の系図の中に「道謙 備後国 浄土寺」と記載あるものを見つけた。


そして、以前の道謙が頼明と同一人物ではないかという系図。確かに道謙が僧としての名とすれば、自分の読みをどこかに入れているパターンもあるので謙が「あき」とも読めることから、そうであるかもしれないとも思う。


そうすると、頼明は娘が一人で、しかも頼康の室となっていたが、頼康には息がいなかったようで、更に養子となったと思われるのだ。頼康の娘は二条良基に嫁いで、二条師嗣、経嗣を産んでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%97%A3
この経嗣は、一条家(養父経通)に養子として入ることとなる。
二条家・一条家・洞院家・西園寺家・鷹司家などつながっている。

===*===

武儀郡乾に住んだ道謙の裔として「頼宣」という系図がある。
頼宣を探したが、頼基の息「頼重」ではないだろうか。重も「のぶ」とも読める。

頼基は長山頼基で、その息は明智を名のる。
明智 頼重(あけち よりしげ)は、南北朝時代から室町時代の武将。美濃国可児郡明智城主。美濃守護土岐頼貞の九男長山頼基の子。土岐氏支流の明智氏の祖、あるいは二代目とされる。

『太平記』に記されている土岐頼貞の九男長山頼基(堀口貞満の女婿)とある。(wikipedia)
堀口氏を調べると「美濃国本巣郡(岐阜県の揖斐川上流)には、堀口一族の子孫が土着した。戦国時代に齋藤氏や明智氏に仕えた坂本氏は、貞満の末子貞安の子孫とされる」とあった。(wikipedia)

上記の頼忠の息も養子に入っているかもしれない。頼宣の息三人は、自分の息の他に兄弟や叔父の息なども養子として入っているのかもしれない。頼忠の息に二名の光忠がいるので、一人はこのどちらかの光忠とも考えられると思う。

頼宣の三人の息は「頼久・光忠・頼冬」
乾将監頼久・乾内記光忠・乾三郎左衛門頼冬 である。

この乾氏方々が「佐々木流の乾氏」と関係があるのかないのかを知りたい!
周辺には佐々木氏との婚姻関係もあり、どこかで繋がっていると私は思っているのだが…




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天童氏の系図の中の乾氏・乾祐直・乾首座など加賀藩と関係のある乾氏

2019-06-21 | 乾氏

バラバラな情報ではあるが、ここに留めておきたい。
「根来山兵燹史」






乾五郎太橘光好。 どこかでまた出てくるかもしれない。

次の乾五郎は、天童氏系図の中にあった。部分だけ紹介させていただきたい。



https://web.archive.org/save/http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-399.html


定直を“乾内蔵允義直”となされ給う
足利義昭

義昭(足利義昭)を都に据え置かれたが、信長と不和になって天正の初めに山城宇治にて合戦あり
(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継)を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。

そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。

義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。

――『阿州将裔記』

足利義維は、足利義澄の息である。義晴の弟となる人物である。

===*===

乾次左衛門藤原忠元
乾次郎太郎元資

細川利昌の家臣にも「乾」の名がみえる。乾五郎兵衛利定

以前調べた際には確か浅小井長家の五男が乾五郎だったように記憶しているが、何を見てそう思ったのかが思い出せない。しかし、浅小井氏や深尾氏そして九里氏に関係している「乾氏」であると思う。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hukao_om.html


===*===

最後に加賀藩の中に見つけた乾氏である。
乾祐直、












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鳥羽乾氏 ・ 深尾氏 

2019-05-26 | 乾氏


東寺の文書にたくさんの乾氏が登場する。1400年代
そのなかのいくつかに【鳥羽乾氏】と書かれている。





さらに佐々木氏の一族の中に、鳥羽氏がいて、
鳥羽氏は近江国野洲郡富波庄の地頭らしい。


古地図の中に【美濃国 鳥羽】を見つけた。
乾氏の活動範囲?に近いと思われる。

鎌倉や牧 という記載も見つけた。



さらに深尾重良のいた「太郎丸」もちかい!(下のアドレスに詳しいデス)
http://tikugo.com/osaka/busho/yamauti/b-fukao-sige.html


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越前 俳諧の世界にいた「乾 貞恕」(犬ヰとも・・・)

2019-05-18 | 乾氏











いろいろな乾氏がいる。

貞恕は「江州乾村 秦氏を名のる。」と書かれていたので、この乾村を探し出したい。

どなたか、ご存知ではないでしょうか?

近江八幡、坂田?長浜? 乾村はいくつかあったのでしょうか?




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近江国 乾氏や本佐々木氏が居住していたあたりの古地図 他

2019-05-17 | 乾氏

古地図(江戸時代のもの)


今の滋賀県近江八幡付近にある「乾」を冠したお店




この分布は本佐々木氏が居住していた場所だったのではないだろうか。



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椿井 春日神社 平群町 乾氏

2019-05-12 | 乾氏

これは、私が乾氏を探していた5年前にみつけた情報であるが…

今またwebで偶然に出会ったので、載せておきたい。

「椿井寺の一部仏像は当村乾氏宅にあり、五十七代椿井中納言氏房は実は征夷大将軍藤原頼経の 三男なり、母の遺命により血脈を継ぐ為養子となり、弘安五年六月二日菊桐の御紋を賜し、 伊賀大和河内安房、四ヶ国の太守として勅贈正二位大納言となり当村に椿井城を築城せり。」

http://kamnavi.jp/as/ikoma/tubaki.htm

『平群町史』によれば、古文書に紀氏神社、旧社地の隣の田の坪名が見え、これは復元条里制地図より見て、椿井邑に当たり、 紀氏神社は元は椿井邑にあったのではないかと指摘し、その神社が当春日神社であろうと推定している。

近鉄生駒線 竜田川駅 北東に20分

~~~*~~~
もう一つ、すごい情報が…

「志紀県主(志貴県主。録・和泉。志貴、惣社-駿河府中惣社神主家)、志貴連(録・大和。吉野郡十津川の蛛手氏は磯城姓というが、族裔か)、志紀宿祢、志紀朝臣、十市部首、十市部宿祢(十市宿祢。十市、山尾、新賀、八田、味間-大和国十市郡人で、称中原姓。その一族と伝えるものには、大和の田原本南、釜口、白土、、西尾、喜多、辰巳、吉田。津田-河内国交野郡人)、」

前にも何度かこの河内国交野郡は出てきているはず。

同じ中原姓の中に「乾氏」がいたなんて!! 私的には素晴らしい発見である。





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雅楽の家 楽家 大神姓 乾氏

2019-05-12 | 乾氏

忠富王記の中にいた「乾大夫」と大阪茨木にいた隠れキリシタンの里の「乾大夫」は同じではないかと思う。

なぜならば、家の中で楽器を奏でていたようである。

この系はいまでも東儀秀樹さんのように今でも続いているのではないだろうかと思う。

雅楽の素敵なHP 雅楽研究所の中にもたくさんの乾氏が出ている!

1369年付近が乾家の始りであるようだ。
http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-1784.html

http://houteki.blog106.fc2.com/blog-entry-1785.html

http://houteki.web.fc2.com/ooga.html


で、この乾氏と佐々木氏の中の乾氏とが関係あるのかどうか‥‥も知りたい所である。

(大神氏の周辺の系図も非常に興味深く、学びも大きいです。)

追記(wikipedia)

中世には大神氏の子孫と称する地下官人の大神氏(おおがし)があり、代々楽人として活躍して、後に家名を山井家(やまのいけ)と称した。南北朝時代に活躍した山井景光(大神景光)は笛の名人として知られ、後醍醐・光明両天皇に笛を伝授し、その功績から雅楽頭を経て従五位上安芸守まで昇った。


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近江国の「乾氏」

2019-05-07 | 乾氏

城郭探訪さんのwebページよりお借りします!







『滋賀県中世城郭分布調査旧滋賀郡』 真野城に説明資料

「真野城は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいた。その子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。」


城の歴史

真野元貞の室町時代の城と言われています。

築城年代は定かではない。城主は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいた。その子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。

永正15年(1518年)の城主は真野土佐守信重で、小谷城主浅井備前守亮政に攻められ落城した。

『浅井三代記』は、永正15年(1518)浅井亮政が赤尾駿河守に3,500余騎を与えて、8月15日に高島玄蕃の大溝城を攻略させ、さらに伊黒城、深溝城、小松城、真野城を降伏させて、8月26日小谷に帰陣させたと記すが、浅井氏が高島郡を征服したのは、朽木氏が浅井氏と和した永禄11年(1568)とすべきと指摘している。 浅井氏の高島郡支配時には、家臣の海津氏や林氏が城主であったが、その期間は織田信長が高島郡を攻略する天正年間初頭までの5~6年であった。

元亀元年(1570年)の城主は真野十郎左衛門元貞で、佐々木六角氏に従って織田信長と対立したが落城した。                                    城を脱した元貞はその後、出家して西養坊宗誉と号し、その子孫は旗本神保氏の代官を勤めたという。

真野城は南へ張り出した丘陵に築かれていたという。

現在山上の北側は新興住宅地となって開発されている。その中にある小公園に真野古墳の案内板とともに石室が展示されている。南側の墓地部分は現在遺跡発掘中で、昌法寺の背後にある墓地一帯が城跡と云われ、それに伴うものであろうか。墓地も一部が削平地が拡がるだけのようだ。

真野元貞の室町時代の城と言われています。城跡は、ローズタウン東側の低丘陵地(真野6丁目)にありますが、真野から堅田、更に対岸まで一望でき、城に適した位置にあることがうなづけます。



春日山の麓の琵琶湖を見渡す場所に造られた真野古墳がもし春日皇子の墓なのであれば、真野城跡には6~7世紀には春日皇子の宮があり、妹子はここで生まれたと思われます。妹子が生まれ育ったのは、「草深い田舎」ではなく、当時は先端文化が都より先に入ってくる国際都市だったのです。

真野川の合戦

 真野川周辺で起こった歴史上の合戦について、時代別に記録してみよう。

平 安時代の末ごろ、平治元年(1159年)平治の乱がおこり、源義朝(みなもとのよしとも)が京都で破れ 真野川近くで合戦する。平清盛の追手のために兵を多数失い、この地より船を出して東国に逃れる。寿永三年 (1184年)、木曾義仲、平家の軍を真野周辺で追撃し、京都に入る。のち、瀬田・粟津の戦いで破れ死ぬ。 このころ、源義経、京都鞍馬からこの地を通り、鏡山で元服する。南北朝時代、延元三年(1336年)、 新田義貞一行、北陸に落ちる。

室町時代、戦国の世、文明十一年(1479年)、佐々木六角の武将、多 賀高忠、真野川をはさんで合戦に及び敗走する。永禄十一年(1568年)、真野城主真野十左衛門元貞、 この地で浅井・朝倉の軍と戦い破れ、真野城焼失する。真野の多くの民家も焼ける。

元亀二年(1571年)、織田信長、 比叡山延暦寺を攻め、そり堂塔をことごとく焼くに至る。真野川周辺の天台宗系の寺社、大野坊、普門 坊なども続いて焼き払う。この時、真野坊焼き払いのため、古文書、寺宝の多くを焼失する。天正元年(1573年)、 足利義昭、織田信長に反し、真野川水域に立てこもる。このとき、織田信長の先軍は、陸路羽柴秀吉、 海路明智光秀であった。義昭は真野川南流をうまく利用し、水城を作って防戦したが破れ、真野から途 中に至り宇治に逃げる。そして死ぬ。足利幕府が亡んだわけである。天正十年(1582年)、豊臣秀吉、 明智光秀の軍、天王山で戦い、明智治政ノ湖西に軍馬が動く。その後、

江戸時代にいたって真野川一帯は 合戦なく現在に至る。この真野川周辺の歴史もまた、近江真野の歴史であった。平安時代から鎌倉、南北朝、 室町にかけて日本歴史が物語っているような戦乱の歴史であった。まして、京都に近く、その影響もかな り受けている。しかし、真野川周辺に住んでいた真野の人たちは、古代から中世、近世にかけて、先祖の遺 産を守るために田畑の営みに努力するのであった。

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査3、 県年報(縄文-土坑・落込み/古墳-横穴式石室1+掘立柱建物+溝)、大津かんきょう宝箱、浅井三代記

<1568年以降の反 織田信長勢力>

1570年4月落窪「野洲川の合戦」六角氏再興をかけて、柴田・佐久間軍との合戦。 (六角側:三雲・高野瀬・永原・乾) 1572年「金森の合戦」に一揆勢力は鎮圧される。

https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/18166911b68ef41211351032a523f73a

以上地図以外はすべて「城郭探訪」さんよりお借りしました!ありがとうございました!!
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