九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

空海の風景 司馬遼太郎 (遼のしんにょうは、点二つ)

2023-02-18 | 雑記

「空海」

そのネーミングからして素敵と思う私はミーハーである。

 

以前トライしたが読むことが難しかった「空海の風景」が手許にある。

今回は一気読みすることができた。

 

この本の中に、イラン人・阿羅本に関しての記述があった。

 

また、昨日記事にもしていた「はし」=「波斯」と関係がある記述もあった。

ペルシャ人の持っていた宗教は『祆教』(けんきょう)と言っていたようだ。

 

空海の生きていた時代の【唐】は国際的で、様々な国からの僧も住んでいた。

 

 

空海の風景(上) 司馬遼太郎(中公文庫)より

p.337~

『波斯僧は、この宇宙の二大要素は善と悪である、宇宙は善と悪の相克する場でもある、とまず最初にいったにちがいない。

 善にして光明なるアフラ・マズラは、いっさいの善なるものを創造し、一方、悪にして暗黒なるアンラ・マイニュはいっさいの悪を創造し、たがいに戦い、たがいに相手を滅ぼそうとしている。それが、宇宙だ、と波斯僧は説くのである。この善神と悪神はそれぞれ軍隊をもって戦う。善神は天にあって天上の軍隊をひきい、悪神は地獄にあって地獄の軍隊をひきいる。天にある善神が、多くの天使や精霊をひきいているという構造は、祆教と同様、この長安に来ている景教(ネストリウス派のキリスト教)と酷似している。景教といえば、景教と同様、祆教にも人間に対する審判もある。現世界が存続するのは一万二千年で、その世界の終末のときに最後の審判がおこなわれるが、その審判によって死者も復活するという。』

・・・・・

p.339~

『この祆教の説く霊魂の生態―― 死後、三日間死体を離れないとか、風にはこばれて橋のそばにゆくなど――― といった内容に酷似した話が、いつのほどか日本に伝わったのか、日本にあって仏教俗信として存在している。祆教が、ある部分はキリスト教を教祖とする景教を思わせ、ある部分は日本の俗信を連想させるのは、どういうことなのか。日本に形を変えて伝来したとすれば、長安へ行った物好きの僧が、あるいは媒体者だったかもしれず、その媒体者を空海に擬するのは、思想というものを純粋に結晶体のようなものでありたいと志向しているかれに対して、むろん酷であることは言うまでもない。』

 

・・・・

p.344~

本の続きで、景教の話からになる。

『中国に入った伝道団の長老は、阿羅本(アラポン・・・アブラハム?)というイランの僧だった。貞観九年、太宗は、時の宰相房玄齢・魏徴らに命じ、阿羅本らを宮中に迎えてその説くところを聴き、経典の漢訳をゆるし、天下に布教することを許した。つぎの高宗も阿羅本をあがめて鎮護大法主とし、のちやや衰えたが、玄宗の保護によってふたたびさかんになった。玄宗は特に勅命して、それまで景教の教会が波斯寺とよばれて祆教と混同されがちなのをふせぐため、太秦寺と称せしめた。』

 

*****

 

以前、聖徳太子は635年に唐に景教が入る以前に亡くなっていた、と書いたが、もしも太子が生存していた年代が60年ズレていたとすれば、歿が622+60年となり、682年迄生存していたこととなり、景教として日本に渡ってきた時期にも重なると思う。

 

*****

祆教と景教、少し詳しくなったような気分となっている。

祆教は、拝火教とも、ゾロアスター教とも同じ宗教であろうと思う。

 

世界史の窓

「イランの民族宗教であるゾロアスター教が、中国の唐代に伝えられて、祆教または拝火教と言われた。

 けんきょう。祆は示へんに天。祅は「よう」で別字であるので注意しよう。イランのササン朝の国教であったゾロアスター教は、南北朝時代の北魏に西域から中国に入ってきたイラン系の商人によって伝えられた。唐では祆教、または拝火教といった。」

 

ややこやしいが、以下を読んで欲しい。外務省のHPより

https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_000039.html

「ヨーロッパ言語でいわれる「ペルシャ」という国名は、古代ギリシャの歴史家が、ペルシャ人が移住したイラン平原西南の「ファルス」地方にちなみPerse、Persanと呼んだことに由来するものであり、日本でもそれにならい「ペルシャ」、あるいはその漢字表記である「波斯」が用いられていました。しかし、パハラヴィー体制のもと、上記のような古代礼賛を起源とするナショナリズムが高まると、ペルシャ国民の間に「ペルシャ」という名称ではなく歴史的・地理的および民族的にもより広い意味を持つ「イラン」(「アーリア人」を語源とする)を自称すべきとの考えが広がりました。そこでペルシャは「イラン」への国号の変更を各国に通告しました。

 

ペルセポリスは、素敵な街であったはずだが、アケメネス朝における「ペルシャの都」という意味である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9

 

今も 多くの民族・言語・宗教混在の多文化国家と思う。

 

*****

 

私の叔父が、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」の中に「九里氏」を見つけたと言っていた。

北海道道東に関する巻であったそうだが、私はまだ見ていない。(15巻か、オホーツク38巻?かもしれない)

 

もしもご存知の方がいらっしゃいましたら、是非教えていただきたく思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孝徳天皇と間人大后(皇女) 

2023-02-16 | 古代からのつながり

この二人の周辺は不明な点が多く、しかもドロドロとしているかもしれない。

そこは今はパスして、気になる情報のみを載せてここに留めることにしておきたいと思う。

間人「はしひと」とは、ペルシャ人の意味にも通じていると思う。

穴穂部間人皇女にも「はしひと」の文字が入っている。

 

 

https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=10081

 

https://narayado.info/nara/hashihitono-himemiko.html

 

https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main00123.html

 

https://kazetabi.hatenablog.com/entry/2022/03/17/091521

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇極天皇 memo

2023-02-14 | 古代からのつながり

 

皇極(斉明)天皇の出自をめぐって 神崎勝 著

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kanzaki.pdf

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇極4年に記載のある【諱孝徳天皇】という不思議。 

2023-02-13 | 古代からのつながり

 

 

平安遺文に記載があったようなので、書き間違いか、はたまた平安時代の研究者の見解なのか。。。

奇妙である。日本書紀 原文の書き間違えかも知れない。

年代すり替えの工作部分を工作し忘れてしまった部分かも知れない。

 

 

ジャパンナレッジによると

孝徳天皇
こうとくてんのう
597?-654(推古5?-白雉5)

第36代に数えられる天皇。在位645-654年。名は軽皇子。皇極女帝の同母弟で,父は舒明天皇の弟の茅渟(ちぬ)王,母は欽明天皇の孫の吉備姫王。

《日本書紀》や《大織冠伝》には,中臣鎌足が皇室中の人材を求めて天皇に接近し,天皇がこれを厚く待遇した話がみえるが,《上宮聖徳太子伝補闕記》によれば,643年(皇極2)11月に蘇我入鹿が山背大兄王を攻め滅ぼしたとき,天皇はその軍に加わっていたという。645年(大化1)6月に甥の中大兄皇子(天智天皇)らが蘇我氏権力を打倒すると,皇極女帝の譲位をうけて即位し,中大兄皇子を皇太子とし,年号を大化と定め,同年末に都を難波の長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)に移した。また中大兄皇子の妹の間人(はしひと)皇女を皇后としたが,即位以前にすでに妃の阿倍小足媛(おたらしひめ)との間に有間皇子を生んでいた。

天皇の治世は改新政治の発足期で,中大兄皇子が実権を握って政治を推進したとみられるが,653年(白雉4)に至って,皇子は天皇が同意しなかったにもかかわらず,皇極上皇,間人皇后以下公卿百官人を率いて大和の飛鳥に戻った。ひとり難波に残された天皇はこれを恨んで退位を考え,山碕に宮を造らせていたが,翌年10月に難波の宮殿で病死し,翌月河内の大坂磯長陵(おおさかのしながのみさざき)に葬られた。
[関 晃]

 

乙巳の変の濡れ衣を着せられた…など何かありそうな…

 

さらに、もしも孝徳天皇の崩御の時を皇極天皇としていたのならば、9年の差ができる。

または、孝徳天皇の崩御した年が645年で、皇極天皇(後の斉明天皇)が在位中であったのだろうか?

 

実は、孝徳天皇という人物はいなかったという可能性もあるのだろうか?

中大兄皇子は626年生まれなので、19歳の時である。

 

さて、孝徳天皇の父親は茅渟王 母親は、吉備姫王(吉備島皇祖母命)

かつて百済の王が逃げてきたという「温羅伝説」のある場所である。

父親の茅渟王の『茅』は『加耶』を連想させる。

 

孝徳天皇の息である有間皇子は中大兄皇子に誅されている。

wikipediaよりひくと

父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴いた。飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。なお近年、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ている(森浩一『万葉集の考古学』など)。

ところが蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石坂合部薬たちと捕らえられた。斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えたといわれる。翌々日に藤白坂[2]絞首刑に処せられた。享年19。

 

藤白神社境内には有間皇子神社が創建されたそうである。

藤白神社は藤白鈴木氏が代々神職であるそうだ。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前方後円墳のはじまり 「孝元天皇」あたりからのようである。

2023-02-12 | 古代からのつながり

歴代天皇データ(西暦・元号)より

https://kyotofukoh.jp/emperors.html

 

歴代天皇年号辞典 米田雄介 編 吉川弘文館

 

この二つから、前方後円墳のはじまりは「孝元天皇」の時からのようである。

孝元天皇は紀元前158年に崩御と思われるため、当ブログの2023年 2月7日の年代の表から考えるにちょうど360年をプラスすることとなる。202年である。

【剣池嶋上陵】

https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/008/index.html

 

前方後円墳の前期とは200年代なのだということがわかる。

 

古墳時代前期とは3世紀後半と言われているので、久里双水古墳は200年後半という事になろうかと思う。

 

3世紀以前の古墳で末蘆国王墓とも言われている古墳が唐津にある。

桜馬場遺跡である。とても立派。

http://inoues.net/club/sakurababa.html

 

緑のマルは久里双水古墳周辺である。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

檜前(ひのくま)と バイリンガル

2023-02-11 | 古代からのつながり

武少広国押楯(宣化天皇)の父は継体天皇で、母は尾張目子媛(尾張草香の娘)である。

そして「鏡の渡」の伝承によると、

「昔、檜隈の盧入野の宮『(ひのくまのいおりののみや、現在の奈良県高市郡明日香村檜前)』に天の下を治められた少広国押楯(宣化天皇:継体天皇の息)のみ世に」

 

とあるように、檜前は宮のあった場所となる。東漢氏の本拠地だそうである。

 

この場所の地図

 

 

続日本紀延暦四年(785年)六月の条の坂上大忌寸苅田麻呂によれば漢氏東漢氏)の祖・阿智王は後漢霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守坂上苅田麻呂が述べた[4]。(wikipedia)

 

この場所で【高向玄理】も育った為に、バイリンガル(マルチリンガル?)となった可能性も考えられると思う。

 

渡来の東漢氏 奈良明日香村の真弓鑵子塚

https://www.mindan.org/old/front/newsDetail1100.html

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武少広国押楯 

2023-02-10 | 古代からのつながり

鏡の渡

昔、檜隈の盧入野の宮『(ひのくまのいおりののみや、現在の奈良県高市郡明日香村檜前)』に天の下を治められた少広国押楯(宣化天皇:継体天皇の息)のみ世に、大伴の狭手彦連を派遣して、任那の国を鎮めさせ、かたがた百済の国を救援させ給うた。狭手彦は命を奉じてこの村まで来て、篠原の村の弟日姫子を妻問いして結婚した《日下部君らの祖である》。

 

上の話、松浦の佐用姫と同じような‥‥と思っていたら、同じ話であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E4%BD%90%E7%94%A8%E5%A7%AB

 

「武」は武寧王にあやかったものであったかも知れない。

檜前は「ひのくま」で、大和国高市郡にある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%9C%E9%9A%88

 

前々回の隅田八幡鏡を斯麻から賜わった「男弟王」が継体天皇とした場合、その息(二男)である宣化天皇となった人物が少広国押楯であり、大伴の狭手彦連を派遣して、任那の国を鎮めさせ、百済の国を救援させたその人となる。

 

其の大伴狭手彦連の妻となった人が弟日姫子であり、イコール佐賀の松浦の豪族の娘であった佐用姫となる。

 

【唐津道】

https://www.karatsu-kankou.jp/files/Book/0/Book_6_file.pdf

 

 

久里双水古墳が見える

 

右の下部に「双水」と見える。

(こちらはボケていますので、唐津道のwebパンフレットで、ご覧いただけます。)

 

ピンクの線で結ばれているのが、佐用姫の伝承地(跡)である。

松浦郡の豪族とは、松浦氏なのだろうか?

 

 

百済国からやってきた一世の王の名は、以下のように短い名前なのではないだろうか?

私の個人的な感触なのだが、他は長い名前がついているのに対し、やけに短い。

淡海三船が付ける以前の名のことなのだが、

 

ホムタ

オオサザギ?

イザホワケ?

ミズハワケ?

アナホ

ヲケ

ヲケ(二世)

ヲホド(男弟王)

 

全く違いましたら、失礼!!

 

以下の列記を見ていたら、そのように感じて…

在日二世天皇の名前はそれよりも長くなっているのではないか…など。

 

https://www.google.co.jp/books/edition/%E7%90%86%E7%B3%BB%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%8F_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80_%E3%81%AE%E8%AC%8E/31GZEAAAQBAJ?hl=ja&gbpv=1&dq=%E5%BA%83%E5%9B%BD%E6%8A%BC%E6%A5%AF&pg=PA13&printsec=frontcover

 

かなり、妄想に近いデス。

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倭の五王 『武』に関する件 百済武寧王の世界 海洋大国大百済 蘇鎮轍 氏 著作 彩流社より

2023-02-10 | 古代からのつながり

百済武寧王の世界 海洋大国大百済 蘇鎮轍 氏 著作 彩流社より、気になる点を書き留めておきたい。

倭の五王の『武』に関してである。

本書では武寧王が倭の五王の中の『武』であるとの説であり、五王の先代に『倭王旨』がいるという。

其の事は七支刀の銘文から解釈できるそうである。

「秦△四年△月十六日丙午の正午に銑鉄を百回もたたいて七支刀を造る。この刀は百兵(災殃)を避けることができ当然候王(旨)に与えるべきだ。

先世以来だれもこのような刀を持っていなかったが百慈王は世々に寄生聖音(吉祥語)があり倭王旨のために造った。後世にながく伝えよ。」

『七支刀は百済(漢城百済)後で造られ、またそこから百慈王が直接それを彼の候王(倭王旨)に賜わったものであるとみなければならない。』と書かれている。

 

銑鉄(せんてつ)の銑:純度が低い鉄という意味がある。艶がある金属という意味もある。

 

百慈王が「大王」であり、倭王旨が「候王」

百済に本拠地があって、倭王として日本の中に百済の支店のような場所があり、そこに派遣していたのかもしれない。(仮想)

 

更に本書は、倭王旨とは誰なのか?と論を進めている。

が、私には「百慈王」の方も情報が無い。

本書よりだが、

「七支刀銘文にみる「倭王」の名は「旨」という一字だけの王名であって、これは歴代百済王家の単字名に王名である余句(近肖古王)、余毗(毗有王)、余映(典支王)、余慶(蓋鹵王)と余昆(昆支王)と同じもので、彼は多分百済王家の成員の一人であるとみられる。」

「彼は百済の骨族(王族)として「余旨」(よし)という名をもって…」とある。

上記の 典支王の典は、腆の字かと思われる。

再び本書から

『「倭の五王」という「讃」をはじめ「珍」・「済」・「興」と「武」ら五王の名が出てくるが、これらの名は始終百慈王の候王である倭王旨の名と同じで、百済王家の単字名の王名である。だから、これら「倭の五王」と旨との関係を考えてみないわけにはいかない。‥‥その点に対し、文定昌は「倭王武」の歴史的活動と姓が扶余氏という点から推して「倭の五王は百済系である」と主張したことがあるが、それは適切は指摘だと思う。」

 

以上のことから、私も倭の五王は百済の王族と思っているのだが、一方で、日本の中では倭の五王の「武」は、雄略天皇である・・・などが、有力なのだそうである。

その理由は、以下にあるようなのだが…

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80

wikipediaより

雄略天皇については雄略5年が西暦461年にあたることが研究者の間で一致を見ている。これは雄略5年条に百済の武寧王の誕生記事があり、その干支(辛丑)が武寧王陵出土の墓誌の崩御年である癸卯(523年)および年齢(62歳で死亡、辛丑の年から癸卯の年まで還暦を挟んで62年)と整合することによる[108]

 

これを読むと、倭の五王の武=武寧王=雄略天皇…とはならないので、複雑な気分である。

雄略五年に武寧王が誕生…ここがどうも引っかかる。

 

*****

龍神と百済は深く繋がっている。

以前書いた記事なのだが、気になることがあるので、ココに貼っておく。

 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/a7b065190321b0ded47c775ce017ae4d

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代においての鏡の意味 百済武寧王の世界ー海洋大国大百済 蘇 鎮轍 氏 著作

2023-02-08 | 古代からのつながり

百済武寧王の世界ー海洋大国大百済 蘇 鎮轍 氏 著作 彩流社

この本から、古代の鏡がどのような意味を持っていたのかがわかるクダリを書き留めておこうと思う。

 

1.鏡は「除魔具」(厄よけ)であり「権威の象徴」

「神威」をうけたものとして、呪術的性格が与えられたものと信じたようである。

全ての災厄(本では災殃 殃は災いという意味)を退けると信じていた。

 

2.鏡は「神器」であり「信任付与」

銅鏡に対する古代の人のそのような信仰は、鏡をまるで「神器」のように宝物扱いにするようにし、特に統治者の銅鏡保有は必須不可欠の条件となった。(政治道具になった)

授受は先王(または上王)から付与する一つの「信任」を意味するもの。

この「信任」を通じて新しい政治権力が誕生する。

 

此の後に、続く段として

隅田八幡鏡に関しての記述がある。

銘文から繙くと「斯麻=武寧王」から継体天皇に下賜した鏡となるそうである。

継体天皇はこの銘文では「男弟王」と呼ばれていたそうである。

 

そして武寧王はやはり加唐島で生まれたのちに日本本土に渡り、41歳までは日本で暮らしていたことが真実に近いようである。

 

本書によると隅田八幡鏡の銘文は

「百済大王年(あるいは斯麻大王年)癸未年(五〇三年)八月十日、大王斯麻は意紫沙加宮にある男弟王(継体)の長寿を念願するため、穢人河内国王(費直)今州利と他の一人に命じて、良質の白銅二百棹(貫?)でこの鏡を制作した。」となるそうである。

 

507年に男弟王(継体)は武烈天皇の跡を継ぐこととなるのだが、その場合はなぜ前回の当記事でご紹介した第4グループの180年を繰り下げすることに該当しないのだろうか?

 

この場合は、鏡の銘文もwikipediaの年代もそのまま507年が該当するようである。

 

どれがすでに直されていて、どれが未だ直されていない年代なのか…

 

書記では507年とは、前記事での計算だと、180年をプラスしなければいけないような気もするのだが、そうなると687年となり、武寧王は462年生 - 523年歿であり、在位は462年 - 523年であったため、おかしなことになる。

 

という事は、この507年とは、そのままで正しい年であることになる。

 

本書は、非常に読みごたえがある。

「キトラ」古墳のことにもふれてあり、被葬者は百済王族(候王)であったと見ている。

キトラ古墳の源流は忠清南道扶余にある「陵山里壁画古墳」から探すことができるという。

しかも久里双水古墳と同じく石槨構造なのだそうだ。

更に「キトラ」古墳の被葬者は木棺を使っていたそうで、木棺を使う身分の所有者であること。

久里双水古墳も舟形木棺である。

木棺直葬は、百済王室の墓制だそうだ。

この百済王室が王陵に木棺(松棺)だけを使う理由はかならず『礼記』の律法に従うためである。

『礼記』によると天子は死後には「天王」と呼ばなければならないし、彼の棺は必ず松棺材をつかうようになった。‥‥

 

百済の墓制に乗っ取った造りの久里双水古墳かも知れない。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代の年代

2023-02-07 | 古代からのつながり

仁徳陵の被葬者は継体天皇だ 林順治 著 河出書房新社

古代の日本と加耶 田中俊明 著 山川出版社

などから、

神功皇后の年代が120年ずれていて201-270年を321-390年と考える、と良いようである。

例として、神功摂政五十五年(255年)に肖古王が崩じたとするが、…『三国史記』によれば、肖古王をさす近肖古王の死は375年で、120年の差ができている…と云う事で、120年の繰り下げで史実と合うのではないかという事のようである。

【日本書紀】は、卑弥呼と神功皇后をオーバーラップさせようとしたとのことである。

 

4期に渡って、繰り下げの年数が変わってくるのだそうだ。

(仁徳陵の被葬者は継体天皇だ 林順治 著 河出書房新社)

第一グループ 神武(初代)から孝安(六代)まで・・・・・370年

 

第二グループ 孝霊(七代)から垂仁(十一代)まで・・・・360年

       景行(十二代)          ・・・・ 60年

       成務(十三代)          ・・・・ 60年

       仲哀(十四代)から応神(十五代)まで・・・120年

       神功摂政期含む       第二G合計  600年

 

第三グループ 仁徳(十六代)から履中(十七代)まで・・・・ 95年

 

第四グループ 反正(十八代)から敏達(三十代)まで・・・・180年

 

       用明(三十一代)から皇極(三十五代)まで・・ 60年 

                 

                 第一Gから第四G 合計 1305年

 

なのだそうだが、そうなると、起点は紀元前から?となるはずである。

架空の天皇と実在の天皇が混在しているのが日本書紀という。

wikipediaの「日本書紀」の中ほどに神功紀の紀年と外国史書との対照という表があり、参考となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80

 

が、釈然としない。

日本書紀と古事記の年代を比べている論文を見つけた。

古事記と日本書紀の暦日
満月の証明 谷崎俊之 著

この論文中の表1.での古事記と日本書紀との年代比較のほうが、私には分かりやすい。

 

久里双水古墳は、神功皇后よりも以前か、古墳の年代が321年以降か、になりそうだ。

いずれにせよ、はっきりした答えは今のところは出ないだろうな‥‥と思い、ココでこの話は中途なのだが終ろうと思う。

 

久里という名(もとは九里)が、鏡の製作に関わった場所(徐州)であったかもしれない‥‥という可能性が、少し開けたことが今回の収穫かも知れない。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする