九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

久里双水古墳の盤龍鏡はどこからきたのか? そしてその鏡の意味は? (2)

2023-02-02 | 古代からのつながり

今日は、論文の続きを、久里双水古墳に関係のある部分を中心にまとめていきたいと思う。

古墳時代開始前後における 西北九州地域の鏡とその変遷
                 辻 淳一郎 著 

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4372119/158_pa049.pdf

 

久里双水の周辺に大牟田・天園とさらに二つの古墳がある。(論文内の地図に記載あり)

*****
論文より

まず弥生時代後期については、唐津市桜馬場遺跡に代表されるような、大型後漢鏡を副葬する時期(後期前葉~中葉)と、唐津市中原遺跡を中心として完形後漢鏡の破砕副葬が行われる時期(後期後葉~終末期前後)に区分することができる。

(久里双水の鏡は破砕されていない!)

前期後半に魏晋鏡や「仿製」三角縁神獣鏡が副葬される経塚山古墳や谷口古墳は、この図の右上に位置する鏡山を挟んで東側の玉島川流域に築造されており…

(経塚山古墳と谷口古墳は久里双水より9km離れた場所になる。)

(久里双水古墳からは三角縁神獣鏡は出土されていない!ため、前方後円墳が創られ始めた初期かも知れない。)

久里双水古墳で出土された鏡に関しての部分 ↓

B筆者分類(辻田2009a)の B 類(BII類)に該当する(図6)。筆者は、円文を伴う芝草文をもち、これらが2世紀代の画象鏡に多くみられること、主像文様で龍の足が一本省略されること、一段高い位置にやや大きめの長方形の鈕孔をもつこと、上野氏の型式1B 中流域からいわゆる徐州地域、楽浪郡域などで分布することに注目した。

(「九里」という地名があったのは徐州だったように記憶している!)(鏡の作った場所のことだったのかもしれない!)

その上で、製作年代の上限を画象鏡や上方作系浮彫式獣帯鏡の出現年代を前後する時期、下限を長方形の鈕孔を有する三角縁画象鏡などの製作時期と捉え、製作地として楽浪郡域を含む華北東部地域想定した(辻田2009a

岡村氏は、久里双水鏡と同様の特徴をもつ盤龍鏡について、後漢鏡の銘文に関する検討にもとづき、漢鏡5期から6期にかけて尚方から自立した「淮派」の製作によるものと想定している(岡村2010)氏はさらに、この淮派の一部が移動して河北省交河県付近の「成平」で製作した一群が渤海を越えて東方の楽浪郡や列島にもたらされたとする解釈を提示している(岡村2011)この続きの文字が改行できなくなってしまったため、続きは後ほど。。。
 
 
 
 
 



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久里双水古墳の盤龍鏡はどこからきたのか? そしてその鏡の意味は? (1)

2023-02-01 | 古代からのつながり

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/198341

久里双水古墳の盤龍鏡 ↑

何処から来た鏡なのだろうか。

 

古墳時代開始前後における 西北九州地域の鏡とその変遷
                 辻 淳一郎 著 

…の論文の中に答えがあった。

 

中国製・後漢代の盤龍鏡1面が出土した。】とある。

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4372119/158_pa049.pdf

…全体を概観すると、まず弥生時代後期については、唐津市桜馬場遺跡に代表されるような、大型後漢鏡を副葬する時期(後期前葉~中葉)と、唐津市中原遺跡を中心として完形後漢鏡の破砕副葬が行われる時期(後期後葉~終末期前後)に区分することができる。

古墳時代前期については、前期前半と前期後半に区分した場合、久里双水古墳が前期前半、経塚山古墳・谷口古墳・杢路寺古墳が前期後半に該当する。

古園遺跡 ST26古墳は、後述するように前期中葉前後の年代を想定する。

このうち前期後半の3基の古墳から出土しているのは、魏晋鏡と「仿製」三角縁神獣鏡であり、近畿地域の政治権力により贈与されたものと考えられる(辻田2007・2010)


図1は唐津市周辺の拡大図であるが、唐津市西部の松浦川流域に桜馬場遺跡・中原遺跡・久里双水古墳・古園遺跡などが集中することが確認できる。

久里水古墳から見ると、中原遺跡や古園遺跡はいずれも半径2~3km 圏内に位置している。これに対し、前期後半に魏晋鏡や「仿製」三角縁神獣鏡が副葬される経塚山古墳や谷口古墳は、この図の右上に位置する鏡山を挟んで東側の玉島川流域に築造されており、弥生時代後期~古墳時代前期前半とは遺跡の分布を異にするという特徴がある(辻田2009a

久里双水古墳と谷口古墳は直線距離で約9km 離れた位置にある

以上の点をふまえた上で問題となるのは、近畿地域から鏡がもたらされるようになるのがどの段階であるのか、またそれ以前はどのような形での流入形態であったのか、という点である。

・・・

久里双水古墳のことも多々記述があって、明日論文内にある詳しいことは書こうと思うが、私が思っていた以上に大きな重要な古墳であったことがわかり、嬉しい!

 

鏡は中国から朝鮮半島に渡り、そこと近畿とつながりができて移り、九州にということのようだが、朝鮮半島に近い国なのにダイレクトに入っていなかったことには訳があったのだと思う。

例えば、一度近畿に重要人物として来ていた人物や一族の女性かこどもであった…など、

または、過去に末盧國に住んでいたが、近畿に移り住み、歿した後にまた故郷へ。…などなど。

または、末羅国にいた人物に近畿より嫁いできた女性であった…など、

百済・新羅との接点だけではなく、近畿との接点が絡んでくることがわかり、事は複雑である。

明日考えてみよう!

 

*****

 

久里双水古墳にあった【盤龍鏡】とは、どのような意味を持った物だったのか、一例(中国の鏡)の説明を見ると…

盤龍鏡

ばんりゅうきょう

考古資料

中国・西晋時代 4世紀

青銅

13.7

1面

内側には2匹の龍が右回りにうねっている姿が描かれている。また、その周囲には銘文がめぐっており、「陳□氏」がこの鏡を作り、保有する者は高位に就き、富に恵まれるといった内容が記されている。日本列島では出現期の前方後円墳に出土が見られるが、中国では華北から東北地方にかけて分布の集中が見られる。

 

他の例では「龍は魂を天界に運び、龍は悪鬼を食らう」ともある。(兵庫県立考古博物館)

 

また山梨の埋蔵文化財センターでは「日本には、古墳時代に朝鮮半島を渡って伝来したと考えられています。」とある。

 

鏡の他、久里双水古墳の近くの久里小学校で出土されたもの。↓

 

中細形銅矛

なかぼそがたどうほこ

考古資料 / 弥生 / 佐賀県

出土地:佐賀県唐津市久里小学校敷地出土

弥生時代(中期)・前2~前1世紀

1本

 

中細形鉛矛

ちゅうぼそがたなまりぼこ

考古資料 / 弥生 / 佐賀県

出土地:佐賀県唐津市 久里小学校敷地出土

弥生時代(中期)・前2~前1世紀

鉛製

長64.3 ; 現存部 関幅4.8 ; 節帯長1.5 節帯幅3.7 重量1491g

弥生時代の矛の多くは青銅で作られるが、本例は鉛を主成分とした極め稀なものです。鉛は青銅よりも融点が低く、加工し易いという特性をもつものの、実戦用の武器としては不向きな素材のため、鉛矛は当初から祭器として作られたと考えられています。

 

管玉

くだたま

考古資料 / 弥生

出土地:佐賀県唐津市 久里小学校敷地出土出土

弥生時代(中期)・前2~前1世紀

碧玉製

長0.7-1.5cm

9個

 

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前方後円墳と舟形木棺とのセットは珍しいらしい。

2023-02-01 | 古代からのつながり

唐津市 県指定史跡 久里双水古墳より

https://www.city.karatsu.lg.jp/manabee/kyoiku/kyoiku/inkai/bunkazai/bunkazaihogo/kurisouzuikohun.html

後円部墳頂に隅丸長方形の粘土で覆われた石室が発見されました。

しかも掘り方の裏込め控え石がみられず、土が充填されること、墓壙(ぼこう)のコーナーに足掛かり状の小さい段を作り出すこと、また、掘り方の東南側に古式土師器(はじき)の供献土器も確認されました。

しかし、同時に石室上部に平安時代後期の経塚(きょうづか)も発見されました。経塚は外部構造が方形二重の列石で内部に滑石製外筒にいれた銅製経筒をもつという11世紀末の九州でも最古級の完全なものであることが分かり、保存も検討することになりました。

久里双水古墳の保存整備に伴う調査は平成6年度に行われ、全体が厚く粘土被覆された古墳の主体部である竪穴式石室が調査されました。

粘土で覆われた石室は、長さ1.80m~1.94m、幅1.09m~1.17m、厚さ0.04m~0.15mの砂岩製の天井石3枚によって密閉されていました。これを開口した結果、内径が長さ約2.5m、幅0.9m、高さ1.0mの竪穴式石室が検出されました。床面に長さ2.05m、幅0.61mの両端が反り上がった特異な形の、断面がU字形の粘土床がみつかりました。壁面や天井石の裏には一面に赤色顔料が塗られ、粘土の被覆面の中にも顔料の散布面が確認され、密封作業の工程も検討できるものです。粘土床の様態から安置された木棺が従来考えられていた割竹形木棺ではなく、前方後円墳では類例のない舟形木棺であった可能性も指摘されました。

唐津市双水字サコ2776-1番地

 

 

http://kodaisinokai.web.fc2.com/images/karatu-and-itosima.pdf


1.
久里双水古墳
この古 墳は、
唐津地方最大の 全長
108.5
を測る前方後円墳です。
前方後円墳というのは、古墳時代の
有力者のお墓で、上から見ると方形(前方)円形(後円)を組み合わせた巨大な鍵穴の形をした墳墓で、大阪府の応神天皇陵とか、仁徳天皇陵などが有名で、英語では Keyhole-Shaped Tomb などとも呼ばれる日本独特のものです。

世界では日本と韓国の一部にしかありません。韓国のものは日本から伝わったもので、数も限られています。日本では沖縄や北海道東北の一部を除いて各地に沢山残っています。

久里双水古墳もそのうちの一つですが、有名になったのはこの古墳が造られたの時期が、大変早い時期の 3 世紀末から 4 世紀初頭の頃のものであると考えられるからで、調査が始まったころは前方後円墳の最も早いもだとさえ言われたものです。


前方後円墳は、一般には奈良県の箸墓古墳をもって最初のものと言われていますが正
確ではありません。確かに定型化した前方後円墳は箸墓古墳が最も古いものと考えられていますが、前方後円形をした古墳が箸墓古墳より先に、箸墓古墳のある奈良県の纏向地方に幾つか作られていたと考えられています。纏向石塚古墳、纏向矢塚古墳、ホケノ山古墳などです。これらは纏向型前方後円墳と呼ばれ、奈良県以外の九州や、千葉県等にもあるとする研究者もいます。


この
纏向型とは少し異なる前方後円形の古墳が、箸墓古墳以前に九州や四国などで造られています。九州では福岡市の那珂八幡古墳その一つだと言う研究者(久住猛雄氏 1 )がいます。那珂八幡古墳の流れを汲むと思われる幾つかの古墳もあるとのことです。これらは、先ほどの纏向石塚古墳などより少し後に造られたと思われるので、おそらく纏向型前方後円墳の影響を受けていると思われますが、前方部と後円部の径と前方部の長さの比が纏向型前方後円墳と少し異なりますので、前方後円墳は多元的に各地で発生したのではないかと考える人もいるようです。中には前方後円墳は九州で発生したと主張する人もいるようですが、いささか行き過ぎた主張でしょう


箸墓古墳以前のものに、その他
岡山県の楯築古墳があります。この古墳は、円形の両側に方形がついた双方中円墳と呼ばれるもので、前方後円墳の祖源だとする研究者もいます。また東部瀬戸内沿岸や大阪湾沿岸には弥生時代末に造られたもので、周溝墓に通り道を付けた墳墓(前方後円形に近い形)があり、これらが前方後円墳に発展したと考える研究者もいるようです。前方後円墳の起源については、未だ定説はなく今後も議論が続くことでしょう。


前方後円墳の起原はさておき、箸墓古墳以降に大和を中心とする畿内で巨大な前方後
円墳が次々作られ、これらの影響を受けた前方後円墳が全国に波及していきます。但し、初期の大和の前方後円墳祭祀には、九州や瀬戸内の伝統的な祭祀要素も見られ、
前方後円墳が
大和勢力のみで造り出したものではないと主張する研究者もいます。


久里双水古墳は、那珂八幡古墳の形態とは明らかに異なり、
竪穴式石槨(石室)という九州では外来の埋葬施設を採用していて、在地の伝統的埋葬習慣を残しながらも、内の前方後円墳の影響を受けていると考えられます。

 

*****

 

『九州以外の地からの埋葬施設を採用…。』

私が調べたところ、前方後円墳でしかも舟形木棺の形式を持っていたのは、雪野山古墳の墳墓であった。

この古墳は以前より気になっていた。

ここと同じ!とは、何かしらご縁がありそうで、嬉しい。

 

https://e-omi-muse.com/maibun/yukinoyama/index.html

 

 

 

 

 

雪野山古墳群は、どのような一族が被葬者だったのだろうか?

久里双水古墳との関係はないのだろうか?

九里氏の先祖には神功皇后とともに船に乗って松浦郡を通って新羅か馬韓・辰韓・弁韓に行った人物がいたのではないだろうか?

息長氏の一族か、その関係者ではないのだろうか?

雪野山は竜神の住む神聖な山でもあり、貴船神社の祠も在ったそうだ。(貴船は鴨氏の担当だと思う。)

久里双水古墳の鏡も龍である。

平縁盤龍鏡

 古墳時代前期前半(久里双水古墳の出土品) ↓

平縁盤龍鏡は、鏡背面より、赤色顔料が検出されている。完形品で、鏡背外区と鏡面の大部分は緑青に覆われているが、確認できる内区などの鋳上がりは良好である。鈕はやや小さく、内…

平縁盤龍鏡 直径12.85㎝、縁の厚さ0.8㎝、重さ498.6g
 碧玉製管玉 長さ0.7㎝、直径0.35㎝、孔径約0.15㎝/長さ0.9㎝、直径0.35㎝、孔径0.2㎝
鉄製刀子 長さ現存長7.1㎝ 先端から関部分ま…

4点(1面、2点、1口)

 

memo

https://note.com/mochan888/n/nd4f529b70541

古代中国では、舟棺を用いた葬送(舟棺葬)は新石器時代晩期に始まったという。

 

では朝鮮半島では舟形はあったのだろうか? 木棺の情報はあったが‥

https://www.mindan.org/old/front/newsDetaildc7a.html

 

私は、鳥居が太陽と関係があり、そのあたりからエジプトの太陽神と新党が繋がっているのではないかと思っていたが、この船もエジプトでの死者があの世へ向かうための舟なのではないかと思った。が、どうだろうか。

https://www.amorc.jp/material_093/

 

https://lunabura.exblog.jp/30172516/

ルルカーはクフ王ピラミッドの脇で出土した二隻の船(太陽の船)について、「太陽の船を意味したかどうかははっきりしない」と記し、死者が神々を祀る式典に参加するための船ではないかと記している。

ブログの過去記事で、私も太陽の船ではないのではないかと記したので、同意見の学者がいてちょっと嬉しい。

ただし今の所、ルルカーと違うのは、オシリスと月の船ではないかと考えている点だ。

 

舟形にこだわって調べてみると、面白い記事がみつかった。

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/a82f47e84773793545bb50c6631860e3

 

タイのアカ族

  歴史
アカ族は19世紀以後に中国雲南省から、タイやミャンマーに移住してきた民族でタイでの歴史は浅い。
先祖はは中国の古代の先住民チャン族で4世紀から8世紀にかけて雲南省に住みついたと考えられている。

https://craftaid.jp/?mode=grp&gid=593991

鳥居のような家の門

チャン(羌)は、中国西北部のチベット系民族。・・・多胡碑のなかの「羊」かも知れない??

 

 

 

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改めて 久里双水古墳の資料を見て…被葬者は子どもだったかもしれないと思う。そして壱岐島と月読神社

2023-01-31 | 古代からのつながり

久里双水古墳は全長108Mあるのに、其の棺の部分はやけに小さいそうである。

そして銅鏡が被葬者の顔を隠す役割があったとすると、久里双水古墳から出土された銅鏡はやけに小さいので(12.1センチ)ますます、子どもだったと思われる。

大きな前方後円墳まで作ったのだから、それは王族の子どもだったのではないだろうか?

 

*****

昭和56年に発見され、平成6年8月の学術調査の結果、日本でも最も古い古墳の一つであることが確認された。

全長 108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mの3世紀末から4世紀初めの前方後円墳である。

後円部の頂上からは内法で長さ2.5m、幅0.8mの竪穴式石室が検出され、内部には舟船形木棺を安置したと考えられる舟形粘土床が発見された。

竪穴式石室から直径12.1cmの盤龍鏡1面と、管玉2個さらに刀子が出土し、邪馬台国時代の3世紀にさかのぼる前方後円墳の起源を考える上でも、全国的に注目される古墳である。・・・

魏志倭人伝に記述される「末廬国」の首長墓ではないかという見方もある。現在は外観整備、ベンチ、ライトアップ等を整え、石室のレプリカも作成し、古墳公園として市民や観光客に親しまれている。

久里双水古墳 - 邪馬台国大研究より

構造
全長:108.5メートル
後円部径:62.2メートル
前方部幅:42.8メートル

 

文化遺産オンラインでは全長90mとなっている。

前方後円墳(全長約90m)
古墳時代前期/3世紀後半頃
丘陵の先端に立地。前方部の長さと後円部の径がほぼ等しく、前方部が直線的に伸びる「柄鏡形」に近い形態。後円部の中央に配置された竪穴式石室は、全長が100m近い規模をもつ古墳のものとしては著しく短小。

 

*****

 

さて、久里双水古墳にほど近い「唐津」と「朝鮮半島」との間に【壱岐島】もある。

松尾神社を思い出した際に、蘇ってきたのが【月読神社】

この神社は壱岐島と関係が深い。さらに聖徳太子とも。

 

日本書紀の記述によると,古墳時代(西暦487年)阿閉臣事代あへのおみことしろという外交官が朝鮮半島の任那みなまに出掛ける途中,壱岐に立ち寄った際に月読尊が現われ「自分を京都に祀ればこの国に幸いが来る」と告げた。

そのため 天皇に奏上して京都嵐山(現在の松尾神社の近く)に社を創建。

壱岐の月讀神社の神を勧請して壱岐の県主あがたぬしの祖・忍見宿禰おしみのすくねに祀らせた。

これが京都市の月読神社で,壱岐の月讀神社はその元宮とされている。

この記述を基に,中央に神道が根付くきっかけが作られたとして,壱岐は「神道発祥の地」を名乗っている。

ちなみに 壱岐の月讀神社は延喜式内社の一つである。

平安時代に編纂された「延喜式」には,全国の社格の高い神社が記録されている(式内社)が, その中に 壱岐島は24,対馬島は29の神社が記載されている。

九州全体の式内社の数は98なので,壱岐と対馬だけで 全体の半分以上を占めている。 当時の壱岐・対馬がいかに栄え 重要視されていたかが読み取れる。

 

*****

 

この月読神社は始め【山城国葛野郡歌荒樔田】にあったが、

斎衡三年(856)に松尾山南麓である京都市西京区松室山添町の現在の地に移ったという。

周囲の神社等をみると、秦氏と関係の深い場所だったように感じる。

また、同じ郡内に【平野神社】があり今木神をまつっているのだが、平野神社のwikipediaによると

神名の「今木」とは「今来」すなわち新しく来た渡来人の意味であるとして、大和国高市郡(今来郡)において渡来人により祀られた渡来神であったとする説である[5]

この田村後宮における祭祀者は高野新笠と山部親王(桓武天皇)と見られ、高野新笠の父の和乙継の出自である渡来系氏族の和氏(やまとうじ)の祖神として祀られた渡来神といわれる[24][5][9]

続日本紀[原 17]では和氏の出自を百済武寧王の子の純陀太子と記すことから、今木神を特に百済系の渡来神とする説もある

‥‥となり、

5世紀後半~6世紀に朝鮮半島から移住した技術をもった人々を「今来才伎(いまきのてひと)」と呼んでいるそうである。

 

『日本書紀』「雄略紀」によれば今来才伎は百済から献上された人々である(雄略天皇七年「集聚百済所貢今来才伎於大嶋中」)。

 

 

 

 

 

 
 
 

 

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高市という名称より、遡ってみる。(1)舒明天皇の妻  宝姫王(皇極天皇)の母親は吉備姫王

2023-01-29 | 古代からのつながり

この記事を書いて忘れていたので、1月23日の記事の後に読んでいただけると嬉しいです。

高市という名称にこだわりを持って、調べてみました。

 

 

舒明天皇は田村という諱だが、朝鮮半島沖の済州島古代から中世にかけて存在した王国である耽牟羅(たむら)と関係があるのではないだろうか?

 

 

 

舒明天皇の妻の母となった吉備姫王は643年に没して「奈良県高市郡明日香村に埋葬されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%BD%E7%BE%85

 

舒明天皇の母親が宝王、妻となったのが宝皇女で皇極・斉明天皇

宝王は敏達天皇の娘。その敏達天皇の妻となったのが諱が額田部の推古天皇

宝王の息舒明天皇。その舒明天皇の妻となったのが宝皇女

 

宝王は高市郡明日香村に埋葬され、

其の高市郡の8-9割が帰化人(渡来人)であったという。(時代によると思うが。)

日本語に混用された渡来語 より

https://core.ac.uk/download/pdf/229731121.pdf

 

 

更に『高市連は額田部と同祖。』のようだ。

高市許梅(こめ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%82%E8%A8%B1%E6%A2%85

神代巻に「天津日子根命者高市県主等之祖 也」とあり、「日本書紀」天武天皇元年(六七二)七 月条に「高市県主許梅(こめ)」の名がみえる。「延喜式」 神名帳高市郡には高市御県坐鴨事代主神社 (現橿原市雲梯町の河俣神社に比定)

 

 

舒明天皇の妻となった宝皇女(宝女王)は、皇極・斉明天皇となる方だが、最初の夫は『高向王』という。

高向と云えば、私の場合は近江国御家人井口中原系図の中にある『高向利男』が思い浮かぶのだが、時代は天武天皇よりも前の時代となるので、その先祖かと思う。

高向玄理は史氏で高向古足の息、高向王とは別系かもしれない。

 

http://ktymtskz.my.coocan.jp/S/kodai/kodai0.htm

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/newpage12.html

 

上記の長い記事の中に以下があった。

高市皇子はここで育ったのだろうか。

当時、帰化人(漢(あや)氏・秦(はた)氏)が多く、それらの多くは南大和の高市(たけち)飛鳥地方に居住して、あるいは史部(ふひとべ)となって朝廷につかえ、あるいは兵士となり、あるいは工業に従事して、わが国の文化や産業の発展に大きな力を尽くした。

「これら帰化人は奈良朝末期になっても、高市郡の人口の八割ないし九割を占めていたという」

 

高市(古代)  JLOGOSより (読みやすいように改行した)

 

大和期から見える地名武市とも書く奈良盆地の南部,畝傍山の西北から東にかけての地域市場地名か天照大神が天石窟に隠れた時,八十万神は「天高市」に集合し,対策を相談したとあるように,市の語源は一定の地域に人々が集合している所をいう(神代紀第7段一書第1)

「倭の この高市に 小高る 市の高処【つかさ】」(古事記雄略段歌謡)と詠まれるように,土地が少し高くなった所に設けられた市が高市である市には人々が集まり,物品交換・歌垣・会議・神宴など,多様な目的に用いられ,高い土地や大木のある神聖な場所が選ばれた高市は長(タケ)市・竹市の義とも考えられ,式内社天高市神社の鎮座する現橿原【かしはら】市曽我には竹市の小字が残る(大和地名大辞典)

 

なお十市は遠市の義で高市に対する市名か(橿原市史)

のちには舒明天皇の飛鳥岡本宮や天武天皇の建立した大官大寺のあった現明日香村小山付近も高市(里)と称された

 

①高市神話や歌謡に「天高市」(神代紀第7段一書第1・第9段一書第2,古語拾遺)や「高市」(古事記雄略段)の地名が見える

ただし市は多く小高い場所に設定されたので「高市」は一か所に限定できず,雄略朝に見える「高市」は歌謡の内容から磯城【しき】地方に求めるのが自然であり,のちの高市郡内に特定できない一方「天高市」は神話上の地名だが,「延喜式」神名上の高市郡54座のうちに「天高市神社」が見え,現在の橿原市曽我町字宮の久保に比定されることから,当地を意識して発想されたと考えられる

なお同社は貞観元年に従五位下から従五位上へと昇叙されている(三代実録貞観元年正月27日条)現在の橿原市曽我町を中心とする地域か

 

②高市県大和六県の1つ正史には見えないが,高市県が大化前代に存在したことは,「延喜式」神名上の高市郡54座のうちに「高市御県坐鴨事代主神社」と「高市御県神社」の2社が見えることによって知られる

両社はそれぞれ現在の橿原市雲梯【うなて】町字宮ノ脇,同市四条町字宮ノ坪に比定され,畝傍山の北部地域が高市県の範囲であったと推定される事代主命の御魂は「宇奈提」に鎮座し(延喜式出雲国造神賀詞),壬申の乱では「高市郡大領高市県主許梅」が神懸りして,吾は「高市社」に居る事代主神であると託宣していることから(天武紀元年7月条),高市御県坐鴨事代主神社は雲梯(宇奈提)に所在し,高市社と称したことが知られる

「万葉集」には「卯名手の社」と見える(1344・3100)貞観元年従二位から従一位に昇叙されている(三代実録貞観元年正月27日条)一方高市御県神社は大和六御県神社の1つで,葛木・十市・志貴・山辺・曽布の各御県神社とともに,県に生ずる蔬菜を貢進することになっていた(延喜式祈年祭・月次祭祝詞)大同元年に神封2戸が与えられ(新抄格勅符抄),貞観元年には従五位下から従五位上に昇叙されている(三代実録貞観元年正月27日条)

また奈良末期頃成立したとされる「紀氏家牒」(無窮会神習文庫玉簏73)には蘇我・巨勢氏らの祖の家地として高市県江沼里・蘇我里の地名が見え,軽里も高市県に含まれたと考えられるただしこの県名が大化前代のものかのちの修字かは明らかでない地名にちなむ氏族としては,高市県主・高市連などがいる高市県主は凡川内国造らと同族で,天津彦根命の12世孫,建許呂命の後裔を称する(古事記天安河誓約段,姓氏録和泉国神別)

一族には高市郡大領高市県主許梅,山背国愛宕郡の人高市県主笠売らがいる(天武紀元年7月条,正倉院文書神亀3年山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳/大日古編年1)

一方高市連の旧姓も県主で,天武天皇12年に連姓を賜っている(天武紀12年10月己未条)額田部と同祖で天津彦根命の3世孫,彦伊賀都命の後と伝承される(姓氏録左京神別下)一族には万葉歌人の高市連黒人,聖武朝の官人高市連大国・高市連真麻呂,相模国大目高市連種麻呂,高市郡擬大領高市連屋守・同擬少領高市連広君らがいる(万葉集32,続紀天平勝宝元年4月丁未条・同12月丁亥条,薬師院文書天平勝宝7歳11月13日相模国司解/大日古編年4,筒井英俊氏所蔵天平勝宝8歳12月13日東大寺領飛騨坂所公験案/同前25)

天武天皇の子,高市皇子の名も高市県にちなむ

なお養老7年官婢花は高市の姓を賜っている(続紀養老7年12月丁酉条)

高市県は7世紀中葉以後,渡来人の居住地たる今来郡を合わせて,高市郡(評)に改編される高市郡の北部がもと高市県の領域である

 

③高市池推古紀15年是歳冬条に「倭国に,高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る」とあるが,高市県のどこに作られた池か明らかでない

 

④高市里神護景雲元年大安寺に施入された水田の位置表記に「大和国二町〈一町路東十一橋本田一町路東十二岡本田在高市郡高市里専古寺地西辺〉」と見える(神護景雲元年12月1日符/三代格15)この施入田の位置は高市郡京南路東28条3里(高市里)の11坪と12坪に比定できる古寺(大官大寺・高市大寺)の西が岡本と称されていたとあり,舒明天皇の飛鳥岡本宮(舒明紀2年10月癸卯条)の比定地ともなっている

飛鳥岡本宮は「高市岡本宮」とも表記され(万葉集2標注・487左注,延喜式諸陵寮,聖徳太子伝暦/続群8上),舒明天皇は「高市天皇」と別称された(皇極紀2年9月壬午条分注)

なお「帝王編年記」は高市岡本宮の位置について「大和国高市郡島東岳本地是也」とするが,草壁皇子の岡宮と混同したものらしい

一方大官大寺については,百済大寺の近くの子部大神が怨を含んで堂塔を焼いたため,天武天皇2年に天皇が小紫美濃王と小錦下紀臣訶多麻呂を高市大寺を造る司に任じ,寺を百済から高市郡夜部村に遷立させ,同6年に高市大寺を改めて大官大寺(高市大官寺)と号したと伝承される(天武紀2年12月丙戊条,天平19年大安寺資財帳/寧遺中,三代実録元慶4年10月20日条所引大安寺三綱牒)

なお大安寺碑(寧遺下)には「高市村」に移建されたとある現在の明日香村小山付近に比定される

 

⑤高市評駿河浅間大社の大宮司家に伝わる和邇部氏系図(姓氏家系大辞典3)によれば,一族の山栗臣は「高市評久米里」に居住して久米臣を称したとあるこの系図の真偽は明らかではないが,「姓氏録」大和国皇別に和珥氏系の「久米臣」が見えるのと対応している久米里は「和名抄」に見える高市郡久米郷の前身か

 

おまけmemo

温羅伝説1~

https://www.city.soja.okayama.jp/kanko_project/kanko/oninideau/oninideau_kibiji_02.html

 

論文紀要  岡山理科大学
古代の吉備における加耶について
-吉備・加耶交流史に関する覚書一一 志野敏夫著

『崇神天皇(垂仁天皇ともいう)のころ、異国から鬼神が吉備国に飛来した.彼は百済の王子で温羅といい、吉備冠者とも呼ばれた。凶悪な彼は、備中国の新山に居城を構え、西国から都に送る貢物や婦女子しばしば奪ったので、人々は恐れて居城を「鬼ノ城」と呼んで天皇に訴えた。そこで朝廷は孝霊天皇の皇子の五十狭芹彦命を遣わした。大軍を率いたミコトは吉備の中山(吉備津神社がある)に陣を布き、西の片岡山に石楯を築いた。楯築神社(倉敷市王墓山丘北端)はその遺跡である。』とある。

 

*****

 

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固城 古墳 と 読む予定一覧 memo

2023-01-29 | 古代からのつながり

http://yoshida-kofun.in.coocan.jp/kankknkkoson.htm

 

https://www.tabi.kr/korea/iseki/8138

 

https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12564737418.html

固城・栗垈里(ユルデリ)2号墳。(栗という名がついているので気になっているだけ…)

固城・栗垈里2号墳は直径20m、高さ3m程度の円形多槨式封土墳。古墳群の築造年代は出土した大加耶系土器と新羅土器の年代を踏まえて約6世紀中葉頃と考えられる。この頃固城には大伽耶と新羅が強い影響力を及ぼし、小伽耶は徐々に衰退期に入っていた。

 

http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/myweb2_003.htm

https://core.ac.uk/download/pdf/354298042.pdf

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/632/632PDF/choi.pdf

 

https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12564737418.html

 

韓国地図

https://map.konest.com/dpoi/100420655

 

伽耶古墳群 世界遺産登録になるか(写真んがきれい!)

http://japan.hani.co.kr/arti/culture/43041.html

 

 

読む予定の論文を忘れないうちにmemo

(私のPCでしか開けられないのアドレスです。あしからず)

file:///C:/Users/mamo/Downloads/BC06570768_045_113-1.pdf

file:///C:/Users/mamo/Downloads/kenkyuhokoku_047_05.pdf

file:///C:/Users/mamo/Downloads/kenkyuhokoku_217_04.pdf

file:///C:/Users/mamo/Downloads/BC06570768_045_113.pdf

file:///C:/Users/mamo/Downloads/KJ00007843639-1.pdf

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高野槙 武寧王の御棺の木材は倭国のもの の情報を集めてみる。

2023-01-29 | 古代からのつながり

いただいたコメントより「高野槙」に関する情報を集めてみました。

(蛇足ですが、玉造の玉も糸魚川産のものだそうです。朝鮮半島には存在しないようです。)

 

https://hb3.seikyou.ne.jp/home/Hideo.Yoshii/gyouseki/kongju01.html

https://www.mindan.org/old/front/newsDetail5dcb.html

 

写真付き↓

https://www.nishinippon.co.jp/image/20294/

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/377781/

http://nnmymsm.web.fc2.com/2011-3-28kankoku2.html

 

さて、高野槙コウヤマキの『高野』は高野新笠タカノノニイガサの「高野」でもあるのだろうか?

 

さて、武寧王時代に、倭国から高野槙を武寧王のために運んだのであろうか?

それとも、それ以前に、朝鮮半島に持ち込んで育てていたとか??

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%AD

 

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武寧王 は 倭国 加唐島(かから・しま) で生まれた。 

2023-01-29 | 古代からのつながり

加唐島

https://www.mlit.go.jp/crd/chirit/image/100kei-kakara.pdf

 

唐津から一日4往復(所要時間17分)

https://www.sagajikan.com/ritouchiiki/nanatsunoshima/kakarashima

この記事を読むと神功皇后が生まれる子のために帯を付けた場所と、武寧王が生まれた場所が同じ?

 

またwikipediaによると

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E7%94%BB%E5%83%8F%E9%8F%A1

 

和歌山県隅田(すだ)八幡神社所蔵(東京国立博物館寄託)の国宝人物画像鏡」の銘文に以下ある。

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る

「癸未年」(503年)、「男弟王」(武烈継体か)が「意柴沙加宮」(忍坂宮、石坂宮)にいたとき、鏡を作らせて男弟王の長寿を祈って鏡を献上した「斯麻」が知られる。これは武寧王のことであるとの見方が強い。

 

久里双水古墳は唐津からほど近い場所にある。

鏡神社も在る。

神功皇后の伝説もある。

 

 

https://www.sagajikan.com/ritouchiiki/nanatsunoshima/kakarashima

 

久里双水古墳

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/220414

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/198341

http://inoues.net/club/9risousui_kofun.html

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オサラバー(チャルサラバ)「生きてまた会おう」とは、百済の由来の言葉であったかもしれない。

2023-01-28 | 古代からのつながり

刮目天一さんからのコメントにあった『百済王族伝説の謎―日向・百済・飛鳥はトライアングルだった』を調べていて、前に調べていたことと符合する記事に出会った。

そうか、禎嘉王、福智王のことになるんだ!(西の正倉院の話で名前が出ていた。)

https://www.wastours.jp/contents/exploration/75198/

 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%A6%8E%E5%98%89%E7%8E%8B

 

https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/shoko/appeal/jaja/21_01.html

 

https://www.pmiyazaki.com/kagura/takanabe_hiki/index.htm

神楽などの様子が写真に出ているが、これは素晴らしい!

丸ごと伝承されている…熱量がすばらしい!

此の比木神社の「比木」が気になります。 日置・比企氏の一族となったのかなぁ…

 

 

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父親である義慈王に『いつも悪い事をしている』と言われた豊璋の弟(善光)の系が日本における百済王の系となる。

2023-01-26 | 古代からのつながり

善光は、父である義慈王の評判が良くなかったようだが、その裔である人には追贈で従一位にまで登った『慶命』や陸奥守となった『百済王敬福』等輩出した。

 

面白い話が論文に載っていた。

『百済太子余豊(豊璋)が蜜蜂の巣四枚を持って、三輪山(現:奈良県桜井市)に放ち飼いにしたが、うまく繁殖しなかったという。』

この豊璋の弟が善光である。

 

今日は、其の善光の裔(曾孫)である敬福の本より、気になる点を書き留めておきたい。

敬福は天平十年(737年)に大野東人の跡を継いで陸奥守になっている。

その前になるが、霊亀二年(716年)に武蔵国に高麗郡が置かれ、高麗人1799人を以って始められている。

wikipediaによると高麗郡は

716年朝廷駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされる[1]。初代郡司高麗若光で、666年に高麗の副使として天智天皇に貢ぎ物を捧げている[2]

日本書紀に書かれた記録の一部は以下。天智5年(666年)「百済人男女2千余人東国移住」

天武13年(684年)「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」

持統元年(687年)「高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住」「高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住」。

…とある。

 

 

天平宝字二年(758年)には、今度は新羅郡が置かれ 僧32人・尼2人・男19人・女21人を以って始められている。

その新羅郡とは、現在の新座だそうだ。

一本道路を渡ると新座であった志木に住んでいた私には驚きである。

調べてみると、志木市自体も新羅郡に含まれていたようである。

 

wikipediaによると新羅郡は

これより前、武蔵国には持統天皇元年(687年)と4年(690年)等も新羅人が移されていた。

天平5年(733年)「埼玉郡の新羅人徳師ら53人に金姓を与える」、

天平宝字4年(760年)「新羅人131人を武蔵の地へ移す」などがある[3]

 

 

コメント (4)
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