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与謝野晶子の旅、

2016-03-09 23:46:41 | 名作の舞台を訪ねて
ふと思えば、与謝野晶子ゆかり宿だった。
となる事がしばしば、
今年も、
会津の東山温泉のあの宿には幾つもの名残の唄、
そして、人吉は熊本の奥、山間の里、ここにも泊まり、
大正の終わり、
昭和の初めの頃だったら、こんな山奥まで来るだけでも大変、

当時からすると関東から来るとなん日掛かったのだろうか?凄い。

与謝野晶子は子供が11人、
サッカーチームじゃん、
与謝野晶子って、
短歌は余り知らないが、
凄いパワーの持ち主だったのは容易に想像出来る。

我もコクリコ、君もコクリコ、

せう言えば、

与謝野馨はその子孫、
政界一の経済通と勘違いされてる財務省の操り人形だか、
与謝野晶子みたいにぶれない精神力とパワー、
慈愛に満ちた心が有れば良かったのに、残念至極。
球磨川の畔はいいな


西郷隆盛、人吉にて、

2016-03-09 23:36:19 | 名作の舞台を訪ねて
西郷隆盛が一時
休息した人吉、

西郷隆盛は人生の最後に熊本の山間の人吉で暫しのんびりする時間を過ごした。
人吉で西郷軍の本営、
永国寺からほど近い武家屋敷、
新宮家を宿舎とした。

新宮 嘉善は西郷軍の人吉1番隊の小隊長として参戦しており、
西郷軍が田原坂の戦いに破れ、
人吉まで撤退した時の道案内として西郷隆盛を導いた。
その経路が凄い、山の中、 椎葉村、五木村を通ったと有る。

今でも大変、当時の行程としては
考えられない。

道無き道を進み、人吉に辿り着いた。
新宮 嘉善は自らの屋敷を西郷隆盛に進んで提供した。
新宮家の屋敷は当時としては立派だった事が今でも偲ばれる。


隠れ階段、天井からの抜け道も有る、

しかし、西郷ドンが天井から屋根へ実際逃げれる体格ではないな、
そう思うと何となく笑える。

庭は東海道を表現しているそうだが凡人にはよくわからないが、

縁側に座り暫し、庭を眺めていると、なんとも言えない。
また、西郷が何日この屋敷逗留したのかも分からない。
政府軍が人吉まで進軍して来た時、
その指揮を取っていたが、新宮 簡( たけま)、
新宮 嘉善の父親で有る。

父、新宮簡は現在の人吉駅の裏の村山台地に本陣を置き、
我が屋敷めがけ、
最初に大砲打ち込みを命じた。
なんとすざましい親子だ、


西郷は元々先祖を辿れば???
西郷家の先祖は肥後の国、菊池、現在の熊本県菊池市七城辺り、
菊池の一族だった。当時は西郷と云う地名に住んでいたい一族、
その一族は新天地を求め、南下し、薩摩に定住し、西郷と名乗ったのが薩摩西郷家の始まり、

菊池の名を冠するとどうしても当時は肥後の菊池一族となり、薩摩で馴染まないとの判断だったと思われる。
逆に南北朝の頃、東北へ南朝方として従軍した菊池一族はそのまま名を名乗った。
それは誇り高き武門の一族として東北の民が受け入れたからだろう。

因みに競馬の武一族は、
江戸時代は薩摩で『園田』の名で薩摩藩の馬奉行をやっていた一族、
これも元々は熊本、
明治期に入り、
函館に牧場経営する為に武士を捨てた。
その際、この一族は『園田』から『武』に苗字を替えた。

何故なのだろう。
その薩摩の園田家の元々は肥後、
菊池の一族、
肥後、菊池家は南北朝、
足利尊氏が九州に攻め込んだ時、
南朝方として、最後まで義を貫き、
滅ぶ一歩手前までになった。
菊池家の血を遺さねば、
確か?菊池小太郎を菊池から八代の落ち延びさせた。

八代には熱心な南朝方の武士が殆ど。
その時、
名を『園田』と名乗らせたのが始まり、
それらがその地で増え、あっちこっちに散らばった。
一部は南下し、薩摩の島津藩に仕えた者達も多い。
特に馬関係、農村管理関係、


小天温泉、那古井旅館

2016-03-09 23:25:12 | 名作の舞台を訪ねて
漱石が熊本で年越しに過ごした宿、

入口を入ると綺麗に整えられた庭、

小天温泉、今は移築、改装して小綺麗な宿、昼の料理安くて美味しい、
食べて温泉、垢を落とそ、




坂を上りながら、考えた。智 を唱えれば角が立ち、情に竿さしゃ、流される。
意地を通せば窮屈だ、兎角この世は住みづらい。
だったかな?

さて、毒舌家の漱石にしてはこの小天温泉を余程気に入ったみたいで、
その後、小説『草枕』の舞台として小天温泉を使ってる、
また、イギリスからの手紙で、『今度は日本的な旅をしてみたい、そう、あの子天温泉みたいな』
なんて書き送っている。

漱石が大晦日から正月に滞在した
部屋、


旧前田家、



こんな人達が草枕の登場人物、
この場所でどんな話をしたのだろう、
正月のお節を一緒にたべたのだろうか?
ムツゴロウの甘露煮も、

当時は海の近く、
屋敷がまるで城だ、

昔の共同浴場は上に脱衣所、
下に石造りの風呂が多い、
特に西の方の造りは

入り口の右側に共同浴場、
それを石段で登って家屋(母屋)
共同浴場の奥に今は朽ちてしまったが、大きな家屋、
これは何人もの使用人が住んでいたのだろう、

那古井旅館、





三島由紀夫 永遠に

2016-03-09 23:13:58 | 名作の舞台を訪ねて
今も色褪せぬ三島思想、
三島文学


没後45年あの事件から、

享年45歳、
惜しい人材、国家の財産だった、
生きていれば、
ノーベル文学賞獲れた。

生きていれば、
石原慎太郎以上に直言が素晴らしく
英知に満ちていた。

生誕90年生きていれば90歳かあ

十一月二十五日 午後二時 乃木神社
神道による修祓式(祭主 松本徹・三島文学館館長) 
 
神道形式により、慰霊祭を行いますが、平服で構いません。
玉串料二千円をお納め下さい

(なお、引き続き午后六時からの「憂国忌」に参加される方は、憂国忌資料代が無料となります)。

慰霊祭は予約が必要です(会場定員が百名ですので、先着順とします)。
なお慰霊祭は一時間の予定、
その後、憂国忌会場(星陵会館)への移動は各自で。
FAXでお申し込みの方は(03)3260―9633

何をおいても行かねば、




三島思想の凄みは、
今でも充分通用する

と、言うより
言っていた事が本当だった事、
当時言っていた憂いが本当だった、

なんとか、安倍ちゃんがいてやっとなんとかなってるが、

司馬遼太郎が言った、カレーライスを引っくり返したような島

2016-03-09 22:47:14 | 名作の舞台を訪ねて


竹富島の猫は昼は寝てる、
起きない、起こしても

星の砂の浜、

慰霊祭まで時間が有るなあ!、

石垣島桟橋から 朝1番の船に乗り、
竹富島へ、
竹富島 柳田国男 司馬遼太郎が書いた事の確認のような島渡り、
石垣島から高速船で約15分、
まさしく小さな島。島民は350人程度、
コンビニもない、信号もない、車も少ない、
島の村落をそのまま保存している感じだとは知っていたが、
さすがにいい、
道はサンゴの白い砂、赤瓦を大切にしている感じがいかにもいい、

今は夏、島民より、観光客の方が多いのではないか

星の砂、本当にあったわ、
さて、
竹富島にもハブがいるんだとさ、
まあ 島の猫は昼は寝て、
夜活動し、たまにハブに噛まれて腫らして帰って来るとさ、

福木について、
この島は司馬遼太郎に言わせると、
カレーライスの皿をひっくり帰りたような島、
雑木林が海岸までせりだしたような島、

その雑木林の中でひときわ大きい木が「福木」
鬱蒼として色濃い緑の葉、
この木は建築材料として現地重宝されてる、
さて、この木、皮が着物の染め材料として使われる、
あの『びん型』の黄色い色、
あの鮮やかな黄色、
遠い昔からあの黄色はあった、
いつの頃からはわからない、
原産地はインドらしい、
インドからどのようにして渡って来たのか?
この黄色い衣装はお祭り、結婚の時に着たのだろう。

高倉健 夜叉

2016-03-09 22:40:34 | 名作の舞台を訪ねて
大震災慰霊で敦賀の灯籠流しに行った。

灯籠は先着で頂ける。









翌日
若狭湾の中、ひなびた漁港、
日向、
夏には何度か行った事ある。
勿論、日本海の釣り、大物狙い、
たまたま昼飯美味しいところがないか?
旅館で昼飯を出してるところが有るとの事、
行ってみた。
美浜温泉、錦波、とろばこ亭、

なんと眺めよい客室に通され、食事、
旨いのなんの、真夏なのに、
風通しがよいのか、暑くない、
炭火焼きで獲れたての魚介類、刺身も旨いのなんの、

こうなると酒が進み、真昼の宴会、
時間の流れが違う。
後ろ髪を引かれる思いで帰った。

旅館のすぐ横で海水浴も出来、水綺麗、
また夏に行きたいな、
さて、この日向、高倉建の映画、
夜叉の舞台だった、偶然知ったが、

情緒的な日本海の小さな漁港、

帰ってビデオ借りてみた。おーあそこじゃん、
それにしても、
映画の冬の情景、
是非行ってみたい。
誰もいない海、
冬の日向の港、
あの眼鏡橋、

のんびり、とごばこ亭で食事、
朝飯もさぞ美味しい事だろう
http://gxc.google.com/gwt/x?client=ms-nttr_docomo_gws-jp&gl=JP&guid=on&source=sg&u=http%3A%2F%2Fwww7.489ban.net/v4/client/plan/list/customer/kinpa&wsi=8ca52c8eeaa5d3c1&ei=BagoT9GvFIfXkAWY3PWdDA&wsc=tb

夏目漱石 草枕 二百十日

2016-03-09 21:28:12 | 名作の舞台を訪ねて
これで繋がった、
謎だった、


熊本日日新聞、井上さんの講義

二百十日の不思議 
コースについての謎?

 夏目漱石の小説「二百十日」は、
「草枕」に比べると短く、
読めばわかるという感じがあり、

これまで研究者はあまり詳しく調べていませんでした。
しかし
、実は不思議でわからないことがたくさんあります。
 まず、戸下温泉に漱石は五高の同僚山川信次郎と泊まっていますが、
その宿はどこか。長野一誠という人物がいます。

長野は阿蘇南郷地方の産業・地域開発に努め、代議士にもなります。
五高ができる時には多額の寄付をしています。  
二人はたぶん、
長野を頼って戸下の別邸に泊まったものと思われます。

長野は国権党です。

「草枕」の舞台となっている前田家別邸の当主、
前田案山子も国権党です。
山川あっての「草枕」の前田ですし、
また「二百十日」の旅行の段取りもすべて山川が考えたと見て間違いありません。  

熊本時代、漱石は多くの俳句を残しています。

後年作ることになる小説は、構成しなおすなど後から「つくるもの」ですが、俳句はその場その場でその時のことを素直に詠んでいます。

ですから、俳句を見ていけば大体歩いた道筋や日にちがわかります。

 それでは、
なぜ漱石と山川はあのコースを通ったのでしょう?  
戸下か栃木、
地獄を通って阿蘇山上に登るのが距離的にも近いし、普通です。

国木田独歩も五足の靴のメンバーもそうでした。

ところが、漱石たちはわざわざ内牧に回っています。

一高教授に転出する山川信次郎にとってゆっくりする時間的なゆとりはなかったはずです。

それにもかかわらず、なぜ回り道をしたのか?答えは簡単です。

実はそのちょっと前に集中豪雨があり、
登山道が壊れていて戸下からは登れなかったからです。

(そうだったのか!)


武蔵と漱石の接点
 「顕彰本・宮本武蔵」という本があります。

これが吉川英治をはじめとする
「宮本武蔵」のネタ本になっているのですが、
その刊行を企画したのが先の長野です。

また武蔵の「五輪書」写本は、
実はあの草枕の前田家にありました。

その後事情があって細川家(永青文庫)に移っていきます。

そして、
漱石も武蔵に関心を持っていました。

それは今日のような吉川英治の描く武蔵像とは違うもので、
草枕の世界と宮本武蔵の世界は近いものがあると思います。


阿蘇山に登った日はいつ?
 「二百十日」の阿蘇神社は山上神社のイメージが強いようです。

当時、阿蘇神社前は門前町のようで、
娼婦もいて、客引きをしていました。

漱石はそんなことは書いていないし、
もし夜にそこを歩いていれば袖を引っ張られたでしょう。

漱石は内牧から宮地まで馬車で通ったと思います。

そして阿蘇神社境内でぽつりと雨…。漱石はそこで三句詠んでいます。

阿蘇山に登った日はいつかという問題になります。  

阿蘇神社の当時の社務所日誌を読んで見ますと、明治32(1899)年8月30・31日は「美晴」と書いてあります。

9月1日は天候の記述がありません。

月初祭で忙しかったのでしょう。

2日は「強風、午後美晴」となっています。つまり9月1日から2日にかけて前線が通ったのでしょう。

それと俳句とを照らし合わせると漱石が阿蘇山に登ったのは9月1日と断定して間違いないと思います。


なぜ書いたのか?
 「二百十日」は何かわびしく、寒い感じがします。

漱石はなにか心細さを感じていたのではないでしょうか。

冒頭で寺の鉦、鍛冶屋の音を聴きますが、明治はじめの江戸人の感覚を素直に表しているのだと思います。

一方で、ビール=恵比寿、

さらに半熟卵というのは西洋文明的です。

これはパンに半熟卵という、
ロンドン滞在のときの漱石の習慣でしょう。   

「坊ちゃん」は小説の舞台が松山であることから、

松山の物語とされていますが、
内容は五高の人間関係だと思います。

山嵐が黒本稼堂、
うらなりが浅井栄煕、
そして坊ちゃんは漱石かというと、
これはそうではなくて漱石は赤シャツです。

漱石は自分の中にある西洋文明のいやなところもちゃんと認識し受け止めている、
そういう偉さが漱石にはありました。

そして、客観的に自分を見つめるというのが近代的な文学の手法です。

そういう意味で言えば、「草枕」と「二百十日」は別々の物語ではなく、
実は熊本を舞台にしたひとつの物語であるということもいえると思います。

 「草枕」、「二百十日」の100周年を迎えるこの機会に二つの作品世界を読み、
あなたが100年後の漱石になってゆっくりその舞台を訪ねてみるのも一興でしょう。


草枕の舞台 『小天温泉』

漱石が熊本で年越しに過ごした宿、

入口を入ると綺麗に整えられた庭、

小天温泉、今は移築、改装して小綺麗な宿、昼の料理安くて美味しい、
食べて温泉、垢を落とそ、




坂を上りながら、考えた。

智 を唱えれば角が立ち、情に竿さしゃ、流される。
意地を通せば窮屈だ、兎角この世は住みづらい。

だったかな?

さて、毒舌家の漱石にしてはこの小天温泉を余程気に入ったみたいで、
その後、
小説『草枕』の舞台として小天温泉を使ってる、
また、イギリスからの手紙で、
『今度は日本的な旅をしてみたい、そう、あの子天温泉みたいな』
なんて書き送っている。

漱石が大晦日から正月に滞在した
部屋、


旧前田家、



こんな人達が草枕の登場人物、
この場所でどんな話をしたのだろう、
正月のお節を一緒にたべたのだろうか?
ムツゴロウの甘露煮も、

当時は海の近く、
屋敷がまるで城だ、

昔の共同浴場は上に脱衣所、
下に石造りの風呂が多い、
特に西の方の造りは

入り口の右側に共同浴場、
それを石段で登って家屋(母屋)
共同浴場の奥に今は朽ちてしまったが、大きな家屋、
これは何人もの使用人が住んでいたのだろう、

那古井旅館、いいなあ~~


二百十日の舞台

阿蘇内牧温泉、山王閣、
漱石が熊本の第五高等学校(現熊大)の同僚と共に訪れ、
二百十日を書いた舞台。

今も現存しているとの事で黒川温泉への途中で立ち寄って観た。

ビックリした事に宿泊客でなくても簡単に無料で見学出来る、
旅館のフロントでお願いすると気安く承諾してくれた。
宿泊した部屋は旅館の庭の離れに有り、
2階建ての至って実に簡素な作り、
手入れも行き届いていない、
本当に簡素との言葉がぴったり、

今。ここに泊まれと言われたら、
絶対嫌だぁ~、夜とか怖いだろうなぁ~。


『ビールは無かですが、恵比寿なら有ります、』
『え!、恵比寿はビールではないの?』

二人は大笑い、

 こんな感じの会話だったかなぁ~
阿蘇の山の中の人はビールの中の銘柄が恵比寿と云う事すら知らなかった時代』

ここで女中さんが運んで来たビールではない恵比寿を飲み、
阿蘇五山を眺めたのだろうなぁ~、

この場所に何泊しかたは不明だが15の俳句を残した。

ついでに温泉だけ入らせて頂いた、
無色透明、結構熱めの純粋な温泉。
漱石が『純透明な湯』と称した湯!

内牧温泉、山王閣の人達、穏やかでとてもいい感じでした。
有難うございました。
その後、内牧散策、
質素だがいい感じ、薬膳料理のお店で昼食、
とても野菜の味が濃厚で、美味しい、
町並み穏やか、時間がゆっくり過ぎて行く、
黒川への道のりも車の窓を開け、新鮮な空気が美味しい、体の中を風が吹き抜けてゆく感覚、

考えてみたら、漱石はこの阿蘇で多くの俳句を残しているし、
漱石は熊本の事を『杜の都』と初めてよんだ人物でも有る。


熊本に5年弱漱石はいた、

『三四郎』の出身高も第五高等学校だし、

『我輩は猫』の書生も五校の生徒で有った。

『草枕』も熊本が舞台だし、熊本と漱石を語ればきりがなく、

漱石と熊本はゆかりが深い筈なのに、熊本には漱石に関するお土産が無い。
(一部、小天温泉の玉名市が漱石が通った温泉として『草枕』云々でやってはいるが、)
何故だぁ~、何故もっと全体でやらないのかなぁ~

何故もっと漱石を出して観光誘致につなげるとか、文化向上につなげないのか?

阿蘇の街々にしても温泉地にしても、例えば、三四郎ラーメンとか?三四郎オコシ、草枕団子、温泉水二百十日とか、我輩は猫のストラップ、熊本漱石文学賞とか、いくらでも考えられる、

何故やらないのか?不思議としか言いようがない。
経済効果は計り知れない埋蔵量なにになぁ~
参考までにネットで出ている漱石と熊本
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/kumabun.html

逆に、
四国の松山行けば、どこもかしこも『坊ちゃん』、『坊ちゃん』、坊ちゃん団子は小説坊ちゃんの中で道後温泉に入浴の後、近くの評判の団子屋に立ち寄った話が有る。

確かに、だが美味しいとは一言も言っていない、
温泉だけは素晴らしいと言っているが、
それはまあ、
いいとして、
坊ちゃん饅頭、坊ちゃん煎餅から坊ちゃんを冠したお土産ばかり、
まあ何でもかんでも夏目漱石にあやかり、
地名さえも、
伊予鉄道も坊ちゃん列車、
劇場も坊ちゃん劇場、最近でも球場の名称も『坊ちゃん球場』、
漱石自身松山にいた時期は短い、
但し正岡子規と漱石が仲良くその縁で松山を訪ねているが、
漱石は理由はよくわからないが、
松山の人々を小馬鹿にしている

小説『坊ちゃん』の中で松山の事、
散々悪く書かれているのに
、漱石から小馬鹿にされても、
松山の人々は漱石に強烈な片想いでもしているかのような観が松山の商店街を覆っているように感じられた。

松山の商魂なのか?、
伊予人の寛容なのか?
わからんです。
小説の中でアレだけ小馬鹿に散々な事を言われても怒らない。何故?!?

小馬鹿とは少し失礼な言葉。
漱石の言葉を借りるともっと失礼になる。
適当な言葉を今度、捜そう。
松山尋常中学からすぐに熊本の第五高等学校に赴任して、
いきなり熊本、
肥後人の気質が気に入ってしまったのか、
熊本題材の小説でも熊本の人達の事を良いように書いているのは確かな事実。

もう一つ漱石が散々に言っている都市がロンドン、
ロンドンみたいな都市になってはならない、
文明がもたらす不幸を警告してるのですが、
続は今度、


夏目漱石 明暗 湯河原

2016-03-09 20:57:33 | 名作の舞台を訪ねて
雪の湯河原、
東京は雪の予想の月曜日、

山歩き&温泉に入りに湯河原へ
東海道線で、
夏目漱石の時代は東京から湯河原まで半日ほど掛かった。
府川辺りで漱石の乗った蒸気機関車はエンストを起し、
乗客が降りて機関車を押した。
なんだかのんびりした話、

湯河原は雪、、
朝方沢山降ったそうで、
山は雪化粧、
山歩きをしようにも積雪の為、
余り上まで行けず、

春先の土肥の山の頂上は眺めがまことにいい、
空気が澄んで、綺麗

しかし、
諦める。

湯河原駅からバスで箱根方面のバスに乗る。

バスを不動の滝で降りる。


夏目漱石最後の小説
『明暗』で
漱石の頃はこの滝、
三筋の滝だった。
今では二筋、一筋、

不動の滝から少し下る。

藤木橋を右に大きく曲がり、
また左に曲がる、
青木荘の前を通り、
山道を万葉の湯までの山道、、
足元が泥濘(ヌカルミ)、

やっとの思いで万葉の湯、
そこを千歳川沿いの散歩道を下る、
川は木々に覆われまさしく木のアーケード状態、
雪で木々達が濡れているせいだろう、
いつもにまして木々の香りが湿っていい感じ、、
マイナスイオンを感じる、
深呼吸すると清清しい、、濡れた散歩道を抜けると、
通りに出る。
道路の反対側に『酒屋の灘屋』が見える、
店に入ると、若女将の親しげで元気の良い声が聞こえた。

いつものように、一通り、酒を眺めまわし、
利き酒、
この灘屋さんのテーブルはなんだろういつも妙に落ち着く、

今日の酒、

①、初亀醸造の『亀』、、、3年熟成の為、深みが実にいい感じ、あとを引く旨さ、
②、初亀醸造の『初亀』、、、すっきりした大吟醸、飲み易さ、美味しい、

静岡の岡部の酒、質の良い山田錦を35%まで精米した亀は美味しい、

ちなみに
『南アルプスの伏流水で仕込まれる酒は数あれど、
このお酒にかなうお酒はそうないはずです。
米は山田錦を使用し35%まで精米、
梨のようなフルーティーな香りで、
酸が少なく、
ぴりりと尻上がりで粋な味わいです。
初亀醸造様は早くから吟醸の販売をされており、数々の鑑評会で1位に輝いています。
純米大吟醸 初亀 亀 は、初亀醸造代表作でもあり、
地元でも入手困難な、極めて人気の高いお酒です。』・・・・・との事です。

③、神奈川の酒 『隆』 地元の足柄米を使った日本酒、  
 川西屋酒造店(神奈川県足柄上郡山北町)の気合の入った手造りの酒、

さて、ここで初めて見たチョコレートビール
頂いてみた、
味は黒ビールに少しチョコが入っている感じ、、

いつもながらにここの女将さんは凄い、、
商品をよく熟知している、
蔵元もこのような人がお酒売ってくれると造り甲斐が有ると云える。


女将の勧めで『上野屋』さんの風呂へ、
江戸時代からの温泉宿、、
源泉上野屋は創業三百余年を数え、

その昔、
水戸光圀公立ち寄りの湯といわれる歴史を誇る宿だそうで。
敷地内の二本の源泉は良質で湯量も豊富。
古風で鄙びた情緒有る二階建ての宿、
不完全燃焼の石油ストーブの二酸化炭素の臭いが鼻につくが、
これもこの建物雰囲気に馴染んでいる、
夕暮れ時の旅館、
応接間のような待合室のようなスペースがとても懐かしい感じ、
ひょいと夏目漱石が今にも出来てきても不思議ではない錯覚を覚える、

でも我等は泊まるには敷居と値段が高い、
温泉だけ頂いて、いざ、秀寿司へGO~~~、


名作の舞台を訪ねて

2016-03-09 19:57:21 | 名作の舞台を訪ねて
時間が有れば
どんどん追加、

夏目漱石

漱石『明暗』湯河原温泉

二百十日・草枕


小天温泉


三島由紀夫

憂国忌

金閣寺


太宰治

川端康成

池波正太郎

池波正太郎が愛したバー


池波正太郎の手紙(松代)

作家御用達のホテル

司馬遼太郎


竹富島


番外版
高倉腱『夜叉』

福井県・若狭湾 日向

西郷隆盛 人吉にて、