武蔵小山 ちょっとバー 安心して飲めて、牡蠣シーズンは絶対美味しく、安く、満足

小さなお店 『ほっ!と』安心出来るお店、楽しいスタッフ、冬は牡蠣食べ放題も、美味しい、新鮮安さに驚愕

命日は浅草、お墓参り、

2016-04-07 20:56:35 | 名作の舞台を訪ねて
今、まさに真田太平記が大河ドラマで人気、

真田幸村を清々しい感じで表現し、
人間の敗者美をあれほど楽しく、美しく表現した
池波正太郎、

彼は戦中のど真ん中派、
勉強もままならない中、
戦後小説家をして名を馳せた。

池波文学の中核を成すものは、
人間の表裏一体、
悪い者が意外に良い事をしていたり、
善人顔した人間が裏では悪い奴だったり、

そして、江戸を懐かしみ、
昔の味を追ってみたり、

彼が過ごした浅草、下町、
今はその匂いがだいぶ少なくった、

彼が行ってお店もだいぶ少なくなったし、
変わった。

幼少の頃、

銭湯(蛇骨湯)も新しくなり、
マンションの1階、


叔父さんと銭湯行き、
帰りに並木の『並木蕎麦』で
蕎麦を食べた、

昔の味、
戦後浅草のお好み焼き
『風流・染太郎』

戦後、焼け残った民家で、
戦争に行って帰って来ない亭主を待つ、妻
何かせねば、
家でお好み焼きを出し、
生計を立てて生活していたお好み焼き屋さん、

5月3日 命日、
今まで、
何度も命日の頃、
足を運んだ浅草、

今年も行こう、
5月3日
先ずはお墓にお参り、

浄土真宗東本願寺大谷派のお寺、


そんで、蛇骨湯に浸かり、
その後、
あの、並木蕎麦で
蕎麦に樽酒を一杯、

そんで、昔ながらの『どぜう鍋』がいい、
『飯田屋』
いいなあ~
そうだ、飯田屋がいい、


池波正太郎が愛した街、
と云うよりも、
馴染みの街と言った方が正しい、
『浅草』
今は浅草も新しいお店がどんどん出来て、
時代の流れで仕方ないが、
中には今でも昔の面影を残し、
昭和の風情を醸してるお店も有る、
頑なに昔のままを残してるお店はいいなぁ~
並木藪、尾張屋、アンジェラス、甘味処のなんだったっけ??すぐに思い出せない。
お好み焼き屋さんや昔ながらの駄菓子屋、
裏通りに回ると結構まだ残っている。

浅草徘徊時はそのような店を回るのも結構面白いもののようで楽しい、
心強いばかり、頑張ってもらいたい、
今風のお店もダメとは言わないが、
やはり浅草行って落ち着くのは古びたお店でも昔の匂いがするお店がいいし、
新たに建て替えても昔の味を守ってるお店なんかも素敵な感じがする、

昼過ぎ、
浅草六区から道具屋筋に行く通り道に今半も有るが、
その先に、『どせう料理専門の飯田屋』が有る。

昼でも営業している、
昼下がりの空いた時間帯に行き、
藤畳の感触を感じて、ホッと一息、
えも云えぬ時間が過ぎて行く、
これが最高にいい、

ここの店員さんも昔ながらの風情を感じる、凄くいい人ばかり、、
まだ昭和の人情的風景がいい、

予定は昼に浅草待ち合わせ、
12:00~
池波正太郎記念館~西光寺~蛇骨湯

並木藪蕎麦~相談し、何処へ回るか?

どぜう鍋? 風流『染太郎』?

夏目漱石生誕150年・没後100年

2016-04-06 22:13:27 | 名作の舞台を訪ねて
これは行かねば、
じっくり~~

>明治・大正期の文学界の大家、

夏目漱石没後
100年
生誕150年。


神奈川近代文学館にて、

神奈川文学館HPより、

作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、

漱石は
「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」

と述べています。

そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、
多くの人びとが作品を繰り返し読み、
その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。
漱石文学は読者にとってまさに
「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。

没後100年を記念して開催する本展は、
こうした作品世界と、
英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、
数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。
漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料
そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、
数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、
漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。

【会期】
2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日は月曜日(5月2日は開館)

【開館時間】
午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
【会場】
神奈川近代文学館第1・2・3展示室
【観覧料】
一般700円(500円)、65歳以上/20歳未満及び学生300円(200円)、高校生100円、中学生以下無料
*(  )内は20名以上の団体料金
※東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
【編集委員】
奥泉光
【主催】
県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
【特別協力】
岩波書店
【協力】
東北大学附属図書館
【後援】
NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
【協賛】
集英社、京浜急行電鉄、相模鉄道、東京急行電鉄、神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
【広報協力】
KAAT 神奈川芸術劇場

池波正太郎命日には、

2016-04-06 21:55:13 | 名作の舞台を訪ねて
今、まさに真田太平記が大河ドラマで人気、

真田幸村を清々しい感じで表現し、
人間の敗者美をあれほど楽しく、美しく表現した
池波正太郎、

彼は戦中のど真ん中派、
勉強もままならない中、
戦後小説家をして名を馳せた。

池波文学の中核を成すものは、
人間の表裏一体、
悪い者が意外に良い事をしていたり、
善人顔した人間が裏では悪い奴だったり、

そして、江戸を懐かしみ、
昔の味を追ってみたり、

彼が過ごした浅草、下町、
今はその匂いがだいぶ少なくった、

彼が行ってお店もだいぶ少なくなったし、
変わった。

幼少の頃、
銭湯(蛇骨湯)も新しくなり、
マンションの1階、


叔父さんと銭湯行き、
帰りに並木の『並木蕎麦』で
蕎麦を食べた、

昔の味、
戦後浅草のお好み焼き
『風流・染太郎』

戦後、焼け残った民家で、
戦争に行って帰って来ない亭主を待つ、妻
何かせねば、
家でお好み焼きを出し、
生計を立てて生活していたお好み焼き屋さん、

5月3日 命日、
今まで、
何度も命日の頃、
足を運んだ浅草、

今年も行こう、
5月3日
先ずはお墓にお参り、

浄土真宗東本願寺大谷派のお寺、


そんで、蛇骨湯に浸かり、
その後、
あの、並木蕎麦で
蕎麦に樽酒を一杯、

そんで、昔ながらの『どぜう鍋』がいい、
『飯田屋』
いいなあ~
そうだ、飯田屋がいい、


池波正太郎が愛した街、
と云うよりも、
馴染みの街と言った方が正しい、
『浅草』
今は浅草も新しいお店がどんどん出来て、
時代の流れで仕方ないが、
中には今でも昔の面影を残し、
昭和の風情を醸してるお店も有る、
頑なに昔のままを残してるお店はいいなぁ~
並木藪、尾張屋、アンジェラス、甘味処のなんだったっけ??すぐに思い出せない。
お好み焼き屋さんや昔ながらの駄菓子屋、
裏通りに回ると結構まだ残っている。

浅草徘徊時はそのような店を回るのも結構面白いもののようで楽しい、
心強いばかり、頑張ってもらいたい、
今風のお店もダメとは言わないが、
やはり浅草行って落ち着くのは古びたお店でも昔の匂いがするお店がいいし、
新たに建て替えても昔の味を守ってるお店なんかも素敵な感じがする、

昼過ぎ、
浅草六区から道具屋筋に行く通り道に今半も有るが、
その先に、『どせう料理専門の飯田屋』が有る。

昼でも営業している、
昼下がりの空いた時間帯に行き、
藤畳の感触を感じて、ホッと一息、
えも云えぬ時間が過ぎて行く、
これが最高にいい、

ここの店員さんも昔ながらの風情を感じる、凄くいい人ばかり、、
まだ昭和の人情的風景がいい、

予定は昼に浅草待ち合わせ、




夏目漱石 没後100年

2016-04-05 23:45:24 | 名作の舞台を訪ねて
これは行かねば、
じっくり~~

>明治・大正期の文学界の大家、

夏目漱石没後
100年
生誕150年。

神奈川近代文学館にて、

神奈川文学館HPより、

作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、

漱石は
「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」

と述べています。

そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、
多くの人びとが作品を繰り返し読み、
その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。
漱石文学は読者にとってまさに
「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。

没後100年を記念して開催する本展は、こうした作品世界と、英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料、そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。

【会期】
2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日は月曜日(5月2日は開館)

【開館時間】
午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
【会場】
神奈川近代文学館第1・2・3展示室
【観覧料】
一般700円(500円)、65歳以上/20歳未満及び学生300円(200円)、高校生100円、中学生以下無料
*(  )内は20名以上の団体料金
※東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
【編集委員】
奥泉光
【主催】
県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
【特別協力】
岩波書店
【協力】
東北大学附属図書館
【後援】
NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
【協賛】
集英社、京浜急行電鉄、相模鉄道、東京急行電鉄、神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
【広報協力】
KAAT 神奈川芸術劇場

池波正太郎 手紙(松代)

2016-03-18 23:11:58 | 名作の舞台を訪ねて
子供達との約束はだいじだ、

昔、池波正太郎のエッセイで読んだ、、

池波正太郎は真田家にまつわる小説を数多く書いている。
その関係で長野には何度も足を運んでいた。

その池波先生、
初めて松代へ行った時、
通りがかりの小学生に道を尋ねた。
小学生は懸命に説明してくれる。
先生はその小学生がいたくお気に入りになられたのだろう。
写真を撮ってあげたそうだ、

もう40年以上も頃の話、
当時はカメラもねえ~~高価な頃、

先生は少年に、
『東京に帰ったら、送ってあげるよ』
と言って先生は別れた、

少年はその約束を皆に話しました。
ところが、誰も信じてくれません。
『行きすりの人の口約束なぞ、あてにならない』


しかし、少年は熱心に、楽しみに待っていた
『約束したんだ、必ず来る』
その時、少年は相手が小説家池波正太郎とは一切知らなかった。

写真が少年の手元に届いた。
少年は喜んだ

それからしばらくして、池波先生の元に少年の父親からお礼の手紙が来た。
『小さな者の為に、約束を守って頂き、これは私の息子にとって写真以上の、
かけがえのないモノを頂きました』

良い話だ、
その後、先生とその御家族は便り絶やさず、
先生は自分の家族を連れそのご家族の家にまで行った事もあるそうだ。

その少年の名前はここでは出せない。

復興支援で
福島の子供達に、また来るね。
と言った。
その約束は口約束で守るのが正論。
約束を守りに行き続け、既に40回近くになる、福島行き、

よく言われる。
『福島出身?』
違います。
『なんで、そんなんよく行くの?』
怪訝な顔をする人すらいる。
物資運び、それから話をしてるうちに、
『また来るね』
それが今まで~~

作家御用達の宿、山の上ホテル

2016-03-18 23:06:09 | 名作の舞台を訪ねて
「山の上ホテル」で火災=宿泊客ら避難、けが人なし―東京(時事通信) - goo ニュース

山の上ホテル、
神田の比較的小高い丘の上、

池波正太郎ゆかりの宿、
今でも、
行くと当時の感じが出て、
そこに池波先生がタバコを咥え座っているような感覚を覚える、
いい感じだが、

違うところが有る、
禁煙
池波正太郎が聞いたら激怒する。
今でも池波先生の霊が漂っていて、
激怒して、その怨念火か


川端康成、三島由紀夫もよく使っていた、
彼らはヘビースモーカー

因みにこの近くに先日火事になった『神田藪蕎麦』
あそこも建物が木造で重要文化財みたいになった時、禁煙になった、、
池波先生がその時、激怒して、
『もう二度と来てやんねえよ』
と捨て台詞を言ったとか、言わないとか!

そう、あそこも火事になった、
まだ、この世が大好きだった池波先生の霊が彷徨い、
席に座ってタバコを燻らせないから、
その怨念か!
これは失礼かも知れないが、
たまたま、神田で池波正太郎ゆかりの場所が火事、
次はニューグランドホテルか?
あそこの『シーガデァイアン』も禁煙になったなあ~。



池波正太郎が愛したバー

2016-03-10 00:54:18 | 名作の舞台を訪ねて
山下公園前、
横浜ニューグランドホテル。
1階、バー『シーガディアン』

池波正太郎が愛したお店

英国風の重厚な感じのお店、
ここのソファーはほんとゆっくり出来る。
先ず、ビール飲んで、

それから折角だから、
シングルモルトをと思ってなかなか決まらない、
アートベック?、
ラフロイグがイイか?
それともダルモアシガーモルト?

お!、飲んだ事のないシングルモルト発見、

『The Fuji-Gotemba』 
シングルモルト18年 700ml Alc.43%
説明書きを読むと、
『霊峰富士の伏流水をマザーウォーターに、
吟味されたピート麦芽、純粋培養した酵母等を使用して、
ハートオブハーツ蒸留法、
小樽熟成法など独自の方法で丁寧に作りました。
なめらかで柔らかな味わい、長期熟成による豊かなコク、
フルーティーな香りがあります。』
早速、頂く、
風味よく、コクもいい、舐めるように飲む、
アイリッシュみたいな辛みはないが、やわらかく、
流石18年。


もう一杯、今度は『シングルグレーン15年』
このウィスキー、
グレーンのシングルとは、バーボンじゃないか?
飲んでみると甘い、香りもバニラの風味、

説明書きを『The Fuji-Gotembaシングルグレーン15年』
 700ml Alc.43%
グレーンウイスキーだけを商品化したもの自体珍しいが、
単一の蒸溜所で蒸溜したものだけを壜詰めしたものはさらに世界でも珍しい商品です。

霊峰富士の伏流水をマザーウォーターに、
良質のトウモロコシ、
純粋培養した酵母等を使用して仕込み、
させたもろみをケトルと呼ぶバッチ式蒸留器で蒸留し、
乾いたオークの古樽で長期熟成しました。
非常になめらかな口当たりと適度なコクの絶妙なバランスに特徴があります。
バニラ香を含んだ穏やかな香りの中に、甘さを感じる奥行きの深いウイスキーとなっています。』・・・・・との事、確かに!!!

貧乏人の為、ガブ飲みは出来ない。
もう、ちびりちびりと飲んで、大満足、また飲みたい。


このニューグランドホテル、今年で80周年、
本来外国からの賓客の為のゲストハウスとして誕生したホテル。
私的には大佛次郎の定宿で有名だった。
戦前戦後、外国の著名人の宿泊先として有名、
チャップリンも泊まり、戦後の賓客の第一号はマッカーサー元帥、
その影響で私はこのホテルは嫌いなのだが、
池波正太郎も横浜に来ると必ずのように訪れたバーがこの『シーガーディアン』
大沸次郎の影響だと思われるが、
確かにここのバーは落ち着く、薄暗く、深いソファーはいい感じ、

店を出る、
もうマリンタワーはない、

昔、親が横浜行きたいとの事で陳さんのお店『生香園』の新館に行き、
周富輝さんと記念写真を撮り、マリンタワーへ来たのはもう何年前かなぁ~~。


与謝野晶子の旅、

2016-03-09 23:46:41 | 名作の舞台を訪ねて
ふと思えば、与謝野晶子ゆかり宿だった。
となる事がしばしば、
今年も、
会津の東山温泉のあの宿には幾つもの名残の唄、
そして、人吉は熊本の奥、山間の里、ここにも泊まり、
大正の終わり、
昭和の初めの頃だったら、こんな山奥まで来るだけでも大変、

当時からすると関東から来るとなん日掛かったのだろうか?凄い。

与謝野晶子は子供が11人、
サッカーチームじゃん、
与謝野晶子って、
短歌は余り知らないが、
凄いパワーの持ち主だったのは容易に想像出来る。

我もコクリコ、君もコクリコ、

せう言えば、

与謝野馨はその子孫、
政界一の経済通と勘違いされてる財務省の操り人形だか、
与謝野晶子みたいにぶれない精神力とパワー、
慈愛に満ちた心が有れば良かったのに、残念至極。
球磨川の畔はいいな


西郷隆盛、人吉にて、

2016-03-09 23:36:19 | 名作の舞台を訪ねて
西郷隆盛が一時
休息した人吉、

西郷隆盛は人生の最後に熊本の山間の人吉で暫しのんびりする時間を過ごした。
人吉で西郷軍の本営、
永国寺からほど近い武家屋敷、
新宮家を宿舎とした。

新宮 嘉善は西郷軍の人吉1番隊の小隊長として参戦しており、
西郷軍が田原坂の戦いに破れ、
人吉まで撤退した時の道案内として西郷隆盛を導いた。
その経路が凄い、山の中、 椎葉村、五木村を通ったと有る。

今でも大変、当時の行程としては
考えられない。

道無き道を進み、人吉に辿り着いた。
新宮 嘉善は自らの屋敷を西郷隆盛に進んで提供した。
新宮家の屋敷は当時としては立派だった事が今でも偲ばれる。


隠れ階段、天井からの抜け道も有る、

しかし、西郷ドンが天井から屋根へ実際逃げれる体格ではないな、
そう思うと何となく笑える。

庭は東海道を表現しているそうだが凡人にはよくわからないが、

縁側に座り暫し、庭を眺めていると、なんとも言えない。
また、西郷が何日この屋敷逗留したのかも分からない。
政府軍が人吉まで進軍して来た時、
その指揮を取っていたが、新宮 簡( たけま)、
新宮 嘉善の父親で有る。

父、新宮簡は現在の人吉駅の裏の村山台地に本陣を置き、
我が屋敷めがけ、
最初に大砲打ち込みを命じた。
なんとすざましい親子だ、


西郷は元々先祖を辿れば???
西郷家の先祖は肥後の国、菊池、現在の熊本県菊池市七城辺り、
菊池の一族だった。当時は西郷と云う地名に住んでいたい一族、
その一族は新天地を求め、南下し、薩摩に定住し、西郷と名乗ったのが薩摩西郷家の始まり、

菊池の名を冠するとどうしても当時は肥後の菊池一族となり、薩摩で馴染まないとの判断だったと思われる。
逆に南北朝の頃、東北へ南朝方として従軍した菊池一族はそのまま名を名乗った。
それは誇り高き武門の一族として東北の民が受け入れたからだろう。

因みに競馬の武一族は、
江戸時代は薩摩で『園田』の名で薩摩藩の馬奉行をやっていた一族、
これも元々は熊本、
明治期に入り、
函館に牧場経営する為に武士を捨てた。
その際、この一族は『園田』から『武』に苗字を替えた。

何故なのだろう。
その薩摩の園田家の元々は肥後、
菊池の一族、
肥後、菊池家は南北朝、
足利尊氏が九州に攻め込んだ時、
南朝方として、最後まで義を貫き、
滅ぶ一歩手前までになった。
菊池家の血を遺さねば、
確か?菊池小太郎を菊池から八代の落ち延びさせた。

八代には熱心な南朝方の武士が殆ど。
その時、
名を『園田』と名乗らせたのが始まり、
それらがその地で増え、あっちこっちに散らばった。
一部は南下し、薩摩の島津藩に仕えた者達も多い。
特に馬関係、農村管理関係、


小天温泉、那古井旅館

2016-03-09 23:25:12 | 名作の舞台を訪ねて
漱石が熊本で年越しに過ごした宿、

入口を入ると綺麗に整えられた庭、

小天温泉、今は移築、改装して小綺麗な宿、昼の料理安くて美味しい、
食べて温泉、垢を落とそ、




坂を上りながら、考えた。智 を唱えれば角が立ち、情に竿さしゃ、流される。
意地を通せば窮屈だ、兎角この世は住みづらい。
だったかな?

さて、毒舌家の漱石にしてはこの小天温泉を余程気に入ったみたいで、
その後、小説『草枕』の舞台として小天温泉を使ってる、
また、イギリスからの手紙で、『今度は日本的な旅をしてみたい、そう、あの子天温泉みたいな』
なんて書き送っている。

漱石が大晦日から正月に滞在した
部屋、


旧前田家、



こんな人達が草枕の登場人物、
この場所でどんな話をしたのだろう、
正月のお節を一緒にたべたのだろうか?
ムツゴロウの甘露煮も、

当時は海の近く、
屋敷がまるで城だ、

昔の共同浴場は上に脱衣所、
下に石造りの風呂が多い、
特に西の方の造りは

入り口の右側に共同浴場、
それを石段で登って家屋(母屋)
共同浴場の奥に今は朽ちてしまったが、大きな家屋、
これは何人もの使用人が住んでいたのだろう、

那古井旅館、





三島由紀夫 永遠に

2016-03-09 23:13:58 | 名作の舞台を訪ねて
今も色褪せぬ三島思想、
三島文学


没後45年あの事件から、

享年45歳、
惜しい人材、国家の財産だった、
生きていれば、
ノーベル文学賞獲れた。

生きていれば、
石原慎太郎以上に直言が素晴らしく
英知に満ちていた。

生誕90年生きていれば90歳かあ

十一月二十五日 午後二時 乃木神社
神道による修祓式(祭主 松本徹・三島文学館館長) 
 
神道形式により、慰霊祭を行いますが、平服で構いません。
玉串料二千円をお納め下さい

(なお、引き続き午后六時からの「憂国忌」に参加される方は、憂国忌資料代が無料となります)。

慰霊祭は予約が必要です(会場定員が百名ですので、先着順とします)。
なお慰霊祭は一時間の予定、
その後、憂国忌会場(星陵会館)への移動は各自で。
FAXでお申し込みの方は(03)3260―9633

何をおいても行かねば、




三島思想の凄みは、
今でも充分通用する

と、言うより
言っていた事が本当だった事、
当時言っていた憂いが本当だった、

なんとか、安倍ちゃんがいてやっとなんとかなってるが、

司馬遼太郎が言った、カレーライスを引っくり返したような島

2016-03-09 22:47:14 | 名作の舞台を訪ねて


竹富島の猫は昼は寝てる、
起きない、起こしても

星の砂の浜、

慰霊祭まで時間が有るなあ!、

石垣島桟橋から 朝1番の船に乗り、
竹富島へ、
竹富島 柳田国男 司馬遼太郎が書いた事の確認のような島渡り、
石垣島から高速船で約15分、
まさしく小さな島。島民は350人程度、
コンビニもない、信号もない、車も少ない、
島の村落をそのまま保存している感じだとは知っていたが、
さすがにいい、
道はサンゴの白い砂、赤瓦を大切にしている感じがいかにもいい、

今は夏、島民より、観光客の方が多いのではないか

星の砂、本当にあったわ、
さて、
竹富島にもハブがいるんだとさ、
まあ 島の猫は昼は寝て、
夜活動し、たまにハブに噛まれて腫らして帰って来るとさ、

福木について、
この島は司馬遼太郎に言わせると、
カレーライスの皿をひっくり帰りたような島、
雑木林が海岸までせりだしたような島、

その雑木林の中でひときわ大きい木が「福木」
鬱蒼として色濃い緑の葉、
この木は建築材料として現地重宝されてる、
さて、この木、皮が着物の染め材料として使われる、
あの『びん型』の黄色い色、
あの鮮やかな黄色、
遠い昔からあの黄色はあった、
いつの頃からはわからない、
原産地はインドらしい、
インドからどのようにして渡って来たのか?
この黄色い衣装はお祭り、結婚の時に着たのだろう。

高倉健 夜叉

2016-03-09 22:40:34 | 名作の舞台を訪ねて
大震災慰霊で敦賀の灯籠流しに行った。

灯籠は先着で頂ける。









翌日
若狭湾の中、ひなびた漁港、
日向、
夏には何度か行った事ある。
勿論、日本海の釣り、大物狙い、
たまたま昼飯美味しいところがないか?
旅館で昼飯を出してるところが有るとの事、
行ってみた。
美浜温泉、錦波、とろばこ亭、

なんと眺めよい客室に通され、食事、
旨いのなんの、真夏なのに、
風通しがよいのか、暑くない、
炭火焼きで獲れたての魚介類、刺身も旨いのなんの、

こうなると酒が進み、真昼の宴会、
時間の流れが違う。
後ろ髪を引かれる思いで帰った。

旅館のすぐ横で海水浴も出来、水綺麗、
また夏に行きたいな、
さて、この日向、高倉建の映画、
夜叉の舞台だった、偶然知ったが、

情緒的な日本海の小さな漁港、

帰ってビデオ借りてみた。おーあそこじゃん、
それにしても、
映画の冬の情景、
是非行ってみたい。
誰もいない海、
冬の日向の港、
あの眼鏡橋、

のんびり、とごばこ亭で食事、
朝飯もさぞ美味しい事だろう
http://gxc.google.com/gwt/x?client=ms-nttr_docomo_gws-jp&gl=JP&guid=on&source=sg&u=http%3A%2F%2Fwww7.489ban.net/v4/client/plan/list/customer/kinpa&wsi=8ca52c8eeaa5d3c1&ei=BagoT9GvFIfXkAWY3PWdDA&wsc=tb

夏目漱石 草枕 二百十日

2016-03-09 21:28:12 | 名作の舞台を訪ねて
これで繋がった、
謎だった、


熊本日日新聞、井上さんの講義

二百十日の不思議 
コースについての謎?

 夏目漱石の小説「二百十日」は、
「草枕」に比べると短く、
読めばわかるという感じがあり、

これまで研究者はあまり詳しく調べていませんでした。
しかし
、実は不思議でわからないことがたくさんあります。
 まず、戸下温泉に漱石は五高の同僚山川信次郎と泊まっていますが、
その宿はどこか。長野一誠という人物がいます。

長野は阿蘇南郷地方の産業・地域開発に努め、代議士にもなります。
五高ができる時には多額の寄付をしています。  
二人はたぶん、
長野を頼って戸下の別邸に泊まったものと思われます。

長野は国権党です。

「草枕」の舞台となっている前田家別邸の当主、
前田案山子も国権党です。
山川あっての「草枕」の前田ですし、
また「二百十日」の旅行の段取りもすべて山川が考えたと見て間違いありません。  

熊本時代、漱石は多くの俳句を残しています。

後年作ることになる小説は、構成しなおすなど後から「つくるもの」ですが、俳句はその場その場でその時のことを素直に詠んでいます。

ですから、俳句を見ていけば大体歩いた道筋や日にちがわかります。

 それでは、
なぜ漱石と山川はあのコースを通ったのでしょう?  
戸下か栃木、
地獄を通って阿蘇山上に登るのが距離的にも近いし、普通です。

国木田独歩も五足の靴のメンバーもそうでした。

ところが、漱石たちはわざわざ内牧に回っています。

一高教授に転出する山川信次郎にとってゆっくりする時間的なゆとりはなかったはずです。

それにもかかわらず、なぜ回り道をしたのか?答えは簡単です。

実はそのちょっと前に集中豪雨があり、
登山道が壊れていて戸下からは登れなかったからです。

(そうだったのか!)


武蔵と漱石の接点
 「顕彰本・宮本武蔵」という本があります。

これが吉川英治をはじめとする
「宮本武蔵」のネタ本になっているのですが、
その刊行を企画したのが先の長野です。

また武蔵の「五輪書」写本は、
実はあの草枕の前田家にありました。

その後事情があって細川家(永青文庫)に移っていきます。

そして、
漱石も武蔵に関心を持っていました。

それは今日のような吉川英治の描く武蔵像とは違うもので、
草枕の世界と宮本武蔵の世界は近いものがあると思います。


阿蘇山に登った日はいつ?
 「二百十日」の阿蘇神社は山上神社のイメージが強いようです。

当時、阿蘇神社前は門前町のようで、
娼婦もいて、客引きをしていました。

漱石はそんなことは書いていないし、
もし夜にそこを歩いていれば袖を引っ張られたでしょう。

漱石は内牧から宮地まで馬車で通ったと思います。

そして阿蘇神社境内でぽつりと雨…。漱石はそこで三句詠んでいます。

阿蘇山に登った日はいつかという問題になります。  

阿蘇神社の当時の社務所日誌を読んで見ますと、明治32(1899)年8月30・31日は「美晴」と書いてあります。

9月1日は天候の記述がありません。

月初祭で忙しかったのでしょう。

2日は「強風、午後美晴」となっています。つまり9月1日から2日にかけて前線が通ったのでしょう。

それと俳句とを照らし合わせると漱石が阿蘇山に登ったのは9月1日と断定して間違いないと思います。


なぜ書いたのか?
 「二百十日」は何かわびしく、寒い感じがします。

漱石はなにか心細さを感じていたのではないでしょうか。

冒頭で寺の鉦、鍛冶屋の音を聴きますが、明治はじめの江戸人の感覚を素直に表しているのだと思います。

一方で、ビール=恵比寿、

さらに半熟卵というのは西洋文明的です。

これはパンに半熟卵という、
ロンドン滞在のときの漱石の習慣でしょう。   

「坊ちゃん」は小説の舞台が松山であることから、

松山の物語とされていますが、
内容は五高の人間関係だと思います。

山嵐が黒本稼堂、
うらなりが浅井栄煕、
そして坊ちゃんは漱石かというと、
これはそうではなくて漱石は赤シャツです。

漱石は自分の中にある西洋文明のいやなところもちゃんと認識し受け止めている、
そういう偉さが漱石にはありました。

そして、客観的に自分を見つめるというのが近代的な文学の手法です。

そういう意味で言えば、「草枕」と「二百十日」は別々の物語ではなく、
実は熊本を舞台にしたひとつの物語であるということもいえると思います。

 「草枕」、「二百十日」の100周年を迎えるこの機会に二つの作品世界を読み、
あなたが100年後の漱石になってゆっくりその舞台を訪ねてみるのも一興でしょう。


草枕の舞台 『小天温泉』

漱石が熊本で年越しに過ごした宿、

入口を入ると綺麗に整えられた庭、

小天温泉、今は移築、改装して小綺麗な宿、昼の料理安くて美味しい、
食べて温泉、垢を落とそ、




坂を上りながら、考えた。

智 を唱えれば角が立ち、情に竿さしゃ、流される。
意地を通せば窮屈だ、兎角この世は住みづらい。

だったかな?

さて、毒舌家の漱石にしてはこの小天温泉を余程気に入ったみたいで、
その後、
小説『草枕』の舞台として小天温泉を使ってる、
また、イギリスからの手紙で、
『今度は日本的な旅をしてみたい、そう、あの子天温泉みたいな』
なんて書き送っている。

漱石が大晦日から正月に滞在した
部屋、


旧前田家、



こんな人達が草枕の登場人物、
この場所でどんな話をしたのだろう、
正月のお節を一緒にたべたのだろうか?
ムツゴロウの甘露煮も、

当時は海の近く、
屋敷がまるで城だ、

昔の共同浴場は上に脱衣所、
下に石造りの風呂が多い、
特に西の方の造りは

入り口の右側に共同浴場、
それを石段で登って家屋(母屋)
共同浴場の奥に今は朽ちてしまったが、大きな家屋、
これは何人もの使用人が住んでいたのだろう、

那古井旅館、いいなあ~~


二百十日の舞台

阿蘇内牧温泉、山王閣、
漱石が熊本の第五高等学校(現熊大)の同僚と共に訪れ、
二百十日を書いた舞台。

今も現存しているとの事で黒川温泉への途中で立ち寄って観た。

ビックリした事に宿泊客でなくても簡単に無料で見学出来る、
旅館のフロントでお願いすると気安く承諾してくれた。
宿泊した部屋は旅館の庭の離れに有り、
2階建ての至って実に簡素な作り、
手入れも行き届いていない、
本当に簡素との言葉がぴったり、

今。ここに泊まれと言われたら、
絶対嫌だぁ~、夜とか怖いだろうなぁ~。


『ビールは無かですが、恵比寿なら有ります、』
『え!、恵比寿はビールではないの?』

二人は大笑い、

 こんな感じの会話だったかなぁ~
阿蘇の山の中の人はビールの中の銘柄が恵比寿と云う事すら知らなかった時代』

ここで女中さんが運んで来たビールではない恵比寿を飲み、
阿蘇五山を眺めたのだろうなぁ~、

この場所に何泊しかたは不明だが15の俳句を残した。

ついでに温泉だけ入らせて頂いた、
無色透明、結構熱めの純粋な温泉。
漱石が『純透明な湯』と称した湯!

内牧温泉、山王閣の人達、穏やかでとてもいい感じでした。
有難うございました。
その後、内牧散策、
質素だがいい感じ、薬膳料理のお店で昼食、
とても野菜の味が濃厚で、美味しい、
町並み穏やか、時間がゆっくり過ぎて行く、
黒川への道のりも車の窓を開け、新鮮な空気が美味しい、体の中を風が吹き抜けてゆく感覚、

考えてみたら、漱石はこの阿蘇で多くの俳句を残しているし、
漱石は熊本の事を『杜の都』と初めてよんだ人物でも有る。


熊本に5年弱漱石はいた、

『三四郎』の出身高も第五高等学校だし、

『我輩は猫』の書生も五校の生徒で有った。

『草枕』も熊本が舞台だし、熊本と漱石を語ればきりがなく、

漱石と熊本はゆかりが深い筈なのに、熊本には漱石に関するお土産が無い。
(一部、小天温泉の玉名市が漱石が通った温泉として『草枕』云々でやってはいるが、)
何故だぁ~、何故もっと全体でやらないのかなぁ~

何故もっと漱石を出して観光誘致につなげるとか、文化向上につなげないのか?

阿蘇の街々にしても温泉地にしても、例えば、三四郎ラーメンとか?三四郎オコシ、草枕団子、温泉水二百十日とか、我輩は猫のストラップ、熊本漱石文学賞とか、いくらでも考えられる、

何故やらないのか?不思議としか言いようがない。
経済効果は計り知れない埋蔵量なにになぁ~
参考までにネットで出ている漱石と熊本
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/kumabun.html

逆に、
四国の松山行けば、どこもかしこも『坊ちゃん』、『坊ちゃん』、坊ちゃん団子は小説坊ちゃんの中で道後温泉に入浴の後、近くの評判の団子屋に立ち寄った話が有る。

確かに、だが美味しいとは一言も言っていない、
温泉だけは素晴らしいと言っているが、
それはまあ、
いいとして、
坊ちゃん饅頭、坊ちゃん煎餅から坊ちゃんを冠したお土産ばかり、
まあ何でもかんでも夏目漱石にあやかり、
地名さえも、
伊予鉄道も坊ちゃん列車、
劇場も坊ちゃん劇場、最近でも球場の名称も『坊ちゃん球場』、
漱石自身松山にいた時期は短い、
但し正岡子規と漱石が仲良くその縁で松山を訪ねているが、
漱石は理由はよくわからないが、
松山の人々を小馬鹿にしている

小説『坊ちゃん』の中で松山の事、
散々悪く書かれているのに
、漱石から小馬鹿にされても、
松山の人々は漱石に強烈な片想いでもしているかのような観が松山の商店街を覆っているように感じられた。

松山の商魂なのか?、
伊予人の寛容なのか?
わからんです。
小説の中でアレだけ小馬鹿に散々な事を言われても怒らない。何故?!?

小馬鹿とは少し失礼な言葉。
漱石の言葉を借りるともっと失礼になる。
適当な言葉を今度、捜そう。
松山尋常中学からすぐに熊本の第五高等学校に赴任して、
いきなり熊本、
肥後人の気質が気に入ってしまったのか、
熊本題材の小説でも熊本の人達の事を良いように書いているのは確かな事実。

もう一つ漱石が散々に言っている都市がロンドン、
ロンドンみたいな都市になってはならない、
文明がもたらす不幸を警告してるのですが、
続は今度、