2024 6月13日 (木曜日) 晴れ 時々曇り
梅雨にはまだ遠い天気図だ。
予想してなかったが2個目の球根に花が咲いた。
~~~~~~~~~~~~~~
福島民友の記事にあった。
〇デジタルカメラやスマートフォンに記録した写真は、
保存するのに場所は取らないし、劣化することもない。
唯一、難点はあっという間にたまってしまうこと。
時々、整理しないと、撮った記憶もろとも、どこか遠くに埋もれてしまう
▼フィルムカメラで撮影した昔の写真をデジタル化している、きちょうめんな知人がいる
たまに、彼が懐かしい写真を引っ張り出して交流サイトにアップすると仲間内で話は弾み
懐かしい記憶がよみがえる。記録は、共有されることで共感につながる。
=======================
▼ユダヤ人の少女アンネ・フランクが日記を書き始めたのは、
13歳の誕生日を迎えた1942年6月12日。
ナチスに荒らされた隠れ家に散らばっていたのが見つかり世に出ることになった。
▼豊かな感受性と洞察力でつづったみずみずしい文章は、世界中で読み継がれている。
不安や恐怖の日々を送る中でも
「いまなお希望を―何事につけても希望を忘れていないのです」と
記した彼女の心根は共感を呼ぶ。
▼彼女はジャーナリストか作家になる夢を抱いていた。
日記には、周囲のみんなの役に立つ、みんなに喜びを与える存在でありたい―
と記している。記録し続けることの重みをかみしめ日記を読み返す。
~~~~~~~~~~~~~
メモ
アンネ・フランク(Anne Frank)という名前をご存知でしょう。
第二次世界大戦中、1942年から44年の2年間、
ナチスの目を逃れて家族や他のユダヤ人たちと共に隠れ家で息をひそめながら生活していた
少女の名です。
隠れ家での生活や、平和への想いを綴った彼女の日記は、
その死後に父親の手によって出版されました。
世界的大ベストセラーにもなった彼女の日記がしたためられた隠れ家は、
今では「アンネ・フランクの家」という名の博物館としてその姿を残しています。
今こそ知りたい。少女が2年間隠れ続けた家の博物館「アンネ・フランクの家」
「ナチスの目を逃れて隠れていた」ということから何となくドイツというイメージがあるかもしれませんが、アンネたちが住んでいた隠れ家はオランダの首都アムステルダムにあります。ユダヤ系ドイツ人だったアンネとその家族(両親と姉)は、アンネがまだ幼いころにナチスが勢力を強めるドイツからオランダに移住してきたのです。
平穏な生活はほんの数年間で終わりを告げ、
オランダでもユダヤ人連行が頻繁に行われるようになります。
そこでフランク一家は、アンネの父オットーが経営していた会社の建物の
奥側部分の3階・4階と屋根裏部屋を改築してそこに身を隠すようになりました。
~~~~~~~~~
フランク家の4人以外にも4人のユダヤ人が住んでいたこの隠れ家は、
1944年8月4日にドイツのゲシュタポ(秘密国家警察)に発見されてしまい、
アンネたちの隠れ家生活に終止符が打たれました。
ちなみにアンネの日記の記載は、その3日前の8月1日が最後です。
~~~~~~~~~~~~
隠れ家で暮らした8人のユダヤ人のうち、生きて終戦を迎えられたのは
アンネの父親オットーだけでした。
アンネを含む他の7人は、強制収容所で命を落としてしまいました。
そして唯一生き残ったアンネの父オットーこそが、アンネの日記を出版し、
かつての隠れ家を博物館としてオープンさせたのです。
===========================
★アムステルダムは一度立ち寄ったが他に見る場所も多くて
アンネの博物館は寄れなかった。例えば柔道ヘーシンクの実家やら・・船に乗ったり
跳ね橋を観たり・何といってもゴッホ博物館だ。
とにかく大・小の運河が都市に張り巡らされていて
水上交通の都市で・・・道幅は狭い。自転車専用道路も整備されていて大勢の
通勤客が凄い勢いで通過。歩行者は注意がいる。
梅雨にはまだ遠い天気図だ。
予想してなかったが2個目の球根に花が咲いた。
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福島民友の記事にあった。
〇デジタルカメラやスマートフォンに記録した写真は、
保存するのに場所は取らないし、劣化することもない。
唯一、難点はあっという間にたまってしまうこと。
時々、整理しないと、撮った記憶もろとも、どこか遠くに埋もれてしまう
▼フィルムカメラで撮影した昔の写真をデジタル化している、きちょうめんな知人がいる
たまに、彼が懐かしい写真を引っ張り出して交流サイトにアップすると仲間内で話は弾み
懐かしい記憶がよみがえる。記録は、共有されることで共感につながる。
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▼ユダヤ人の少女アンネ・フランクが日記を書き始めたのは、
13歳の誕生日を迎えた1942年6月12日。
ナチスに荒らされた隠れ家に散らばっていたのが見つかり世に出ることになった。
▼豊かな感受性と洞察力でつづったみずみずしい文章は、世界中で読み継がれている。
不安や恐怖の日々を送る中でも
「いまなお希望を―何事につけても希望を忘れていないのです」と
記した彼女の心根は共感を呼ぶ。
▼彼女はジャーナリストか作家になる夢を抱いていた。
日記には、周囲のみんなの役に立つ、みんなに喜びを与える存在でありたい―
と記している。記録し続けることの重みをかみしめ日記を読み返す。
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メモ
アンネ・フランク(Anne Frank)という名前をご存知でしょう。
第二次世界大戦中、1942年から44年の2年間、
ナチスの目を逃れて家族や他のユダヤ人たちと共に隠れ家で息をひそめながら生活していた
少女の名です。
隠れ家での生活や、平和への想いを綴った彼女の日記は、
その死後に父親の手によって出版されました。
世界的大ベストセラーにもなった彼女の日記がしたためられた隠れ家は、
今では「アンネ・フランクの家」という名の博物館としてその姿を残しています。
今こそ知りたい。少女が2年間隠れ続けた家の博物館「アンネ・フランクの家」
「ナチスの目を逃れて隠れていた」ということから何となくドイツというイメージがあるかもしれませんが、アンネたちが住んでいた隠れ家はオランダの首都アムステルダムにあります。ユダヤ系ドイツ人だったアンネとその家族(両親と姉)は、アンネがまだ幼いころにナチスが勢力を強めるドイツからオランダに移住してきたのです。
平穏な生活はほんの数年間で終わりを告げ、
オランダでもユダヤ人連行が頻繁に行われるようになります。
そこでフランク一家は、アンネの父オットーが経営していた会社の建物の
奥側部分の3階・4階と屋根裏部屋を改築してそこに身を隠すようになりました。
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フランク家の4人以外にも4人のユダヤ人が住んでいたこの隠れ家は、
1944年8月4日にドイツのゲシュタポ(秘密国家警察)に発見されてしまい、
アンネたちの隠れ家生活に終止符が打たれました。
ちなみにアンネの日記の記載は、その3日前の8月1日が最後です。
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隠れ家で暮らした8人のユダヤ人のうち、生きて終戦を迎えられたのは
アンネの父親オットーだけでした。
アンネを含む他の7人は、強制収容所で命を落としてしまいました。
そして唯一生き残ったアンネの父オットーこそが、アンネの日記を出版し、
かつての隠れ家を博物館としてオープンさせたのです。
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★アムステルダムは一度立ち寄ったが他に見る場所も多くて
アンネの博物館は寄れなかった。例えば柔道ヘーシンクの実家やら・・船に乗ったり
跳ね橋を観たり・何といってもゴッホ博物館だ。
とにかく大・小の運河が都市に張り巡らされていて
水上交通の都市で・・・道幅は狭い。自転車専用道路も整備されていて大勢の
通勤客が凄い勢いで通過。歩行者は注意がいる。
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