山楽ぶらり探訪

国のまほろば大和の山野、寺社をぶらっと訪ね歩きます。
山川草木。日々是好日。

涸沢の紅葉02

2007-10-16 11:01:05 | Weblog
涸沢の紅葉02

 この画像も源画像には男前のT君が真ん中でピースのポーズをとっていました。肖像権を尊重して泣く泣く(!?)4分の3割愛して縦長としました。ごめんなさい。
 
 残雪・紅葉・青空の三つが揃うのを三段紅葉と言うそうですが、こんな素晴らしい風景に出会えて最高の山行きだったことでしょう。私も体力、気力を出して来年こそは・・・・と思っていますが、年寄りは無理せぬ方がいいかも!?

 ※ 画像の差替え(10.18)

涸沢の紅葉03

2007-10-16 10:40:11 | Weblog
涸沢の紅葉03

 紅葉の穂高連峰と槍ヶ岳(涸沢カール下)
 「高度を上げるにつれ紅葉は黄色からオレンジ、そして赤と鮮やかになる。穂高と槍の威容が何とも言えない。

 この画像と上の説明文は、和田義男フォトギャリー感動の写真集「紅葉の涸沢」より借用いたしました。 「和田フォト 涸沢」で検索
 感動的な写真満載のHPです。ごゆっくりとご覧下さい。

    http://wadaphoto.jp/

 ※ 画像の差替え(10.18)
  
 

世尊寺 彼岸花01

2007-10-09 14:06:52 | Weblog
世尊寺 彼岸花01

 世尊寺(せそんじ)は奈良県吉野郡大淀町比曽にある曹洞宗の寺院である。吉野寺,比蘇(比曽)寺,現光寺,栗天奉寺とも呼ばれた。
 聖徳太子が建立した48ヶ寺のひとつとされているが、詳細は不明である。『日本書紀』や同寺に残っている瓦や伽藍配置などから、少なくとも飛鳥時代(7世紀後半)には存在していたとされる。平安時代には清和天皇や宇多天皇が行幸され、また藤原道長が参詣するなど大いに栄えた。中世以降は、相次ぐ戦乱などにより荒廃した。 (フリー百科事典ウィキベディアより抜粋)

 彼岸の頃訪れたときは、周辺の田んぼの畔には咲いていましたが、境内では数本しか見つけることが出来ませんでした。今年は異常に開花が遅いと言うことと成育条件の違いにより開花に10日以上の差があることがわかり、昨日ぶらっと探訪しました。遅ればせながら例年のように燃えるような赤い彼岸花が群生していました。


世尊寺 彼岸花03

2007-10-09 13:36:45 | Weblog
世尊寺 彼岸花03

 本堂(講堂跡)裏側の壇上桜の木の下には俳聖松尾芭蕉の句碑が建っていますが、その向こうにも彼岸花が一面に咲いていました。

 芭蕉の謳った「世にさかる花にも念仏まうしけり」の花は桜の花を指しますが、彼岸の頃に命が燃えるように真っ赤に咲く彼岸花(曼珠沙華)に風情・無情を感じました。境内は周囲の山のムードにとけ込んで静寂でした。

http://www4.kcn.ne.jp/~ktmr/ ○花の寺「史跡比曽寺跡探訪」も併せてご覧いただければ幸いです、

再々 葛城古道 九品寺01

2007-10-08 09:34:10 | Weblog
再々 葛城古道 九品寺01

 葛城山麓の御所市一帯は日本神話のふるさとともいわれ、神々が住まわれていた高天原は、その昔、葛城山と呼ばれていた金剛山の山麓にあったと伝えられています。このように神代の時代から数々の史実の舞台になった「葛城古道」は、そうした遺跡や社寺を訪れる全長13キロメートルの散策路です。
 葛城山麓の九品寺近くの高台からは、彼岸花の咲く向こうに奈良盆地中南部の三輪山、耳成山、畝傍山などの眺望が開けていました。 ※9.22付け再掲
  例年なら彼岸頃になると一斉に咲き出す彼岸花ですが、今夏の酷暑少雨の影響からか、九品寺周辺では彼岸の日から2週間過ぎた昨日、赤い絨毯を敷き詰めたように一面に咲いていました。

再々 葛城古道 九品寺02

2007-10-08 09:21:11 | Weblog
再々 葛城古道 九品寺02

 九品寺は奈良時代、聖武天皇の勅により行基が開祖したと伝えられ、室町時代に兵火をまぬがれて、今に残ります。本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)は藤原時代と見られ優しい円満な姿で気品が高く稀にみる優秀作であると言われています。
 本堂の裏側には千体仏があります。この千体仏は、南北朝時代、城主楢原氏が楠木正成公とともに南朝に味方し、北朝と戦ったとき家族や地元の人々が身代りに奉納したと伝えら九品寺は奈良時代、聖武天皇の勅により行基が開祖したと伝えられ、室町時代に兵火をまぬがれて、今に残ります。本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)は藤原時代と見られ優しい円満な姿で気品が高く稀にみる優秀作であると言われています。 ※以上、9.22付け再掲 

葛城古道02 一言主神社01

2007-10-05 20:12:51 | Weblog
葛城古道02 一言主神社01

 葛城古道は、奈良盆地の南西の隅、葛城川に沿った山裾ののどかな農村の中を辿る全長13kmの散策路です。
 古代(6世紀以前)に勢力を誇っていた葛城氏や鴨氏の根拠地で、歴史的に貴重な遺跡及び由緒ある一言主神社や仏閣がたくさんあります。※9/22付け葛城古道参照

 

葛城古道02 一言主神社02

2007-10-05 20:00:09 | Weblog
葛城古道02 一言主神社02

 一言主神は[古事記」に登場します。雄略天皇が葛城山に狩猟したとき、赤い紐に青づりの衣という装束の全く同じ一行に出会いました。誰かと問うとこれも同じ言葉で答えました。天皇はおおいに怒り、弓に矢をつがえ、戦いの名乗りを上げると相手は「吾は悪事も一言、善事も一言、ことさかの神、葛城の一言主神なり」と答えました。天皇は驚いて恭順の意を表わしたと言われています。

 現在は一つだけ願いを叶えてくれる神として、土地の人々から「一言神(いちごん)さん」と呼ばれ親しまれています。

 画像は、10.7に撮影したものです。

葛城古道02 一言主神社03

2007-10-05 19:58:45 | Weblog
葛城古道02 一言主神社03

 境内に、樹高25m、幹周り3.8mのイチョウ(保護樹木)の巨木があります。
 幹の途中から乳房のようなものがたくさん出ており「乳イチョウ」「宿り木」と呼ばれています。この木に祈願すると子供を授かりお乳が良く出ると伝えられており、古くから親しまれています。白い蛇が住みついていると言われ人々の信仰を集めています。

 また、本殿左側には万葉歌碑が建てられています。
    葛木の 襲津彦真弓 荒木にも
        憑(たの)めや君が わが名告(の)りけむ(巻第11ー2639)
 [歌意]一言主神のいます葛城の山の麓は、葛城氏の本拠地であった。襲津彦は    4世紀末前後に活躍した武将で、葛城氏の祖と仰がれています。 あの葛城    襲津彦が使う強い弓のように、あなたは私を思う気持ちが強いと安心して    いるからですか。あなたが、私の名を人に明かしてしまったのは。