シャルル5+3+8=16世。宮廷内にはピカソ風の肖像画も飾られていたけど、ピカソの絵の方がましだと思われるくらいに不気味な顔をしていた。
これがまたとんでもないほどの暴君ぶり。高層階の王宮から気に入らない奴は皆落とし穴に落としてしまう。一人落ち着くための秘密の部屋は彼の孤独をも象徴しているが、その部屋に飾られた彫像や絵の中の人間が生きているのだ。三枚の絵。羊飼いの娘と煙突掃除の青年、そして狩猟姿の王がいる。愛し合い、王から逃れるため絵から抜け出した二人に対して王は嫉妬し、二人を追って彼も飛び出してしまう・・・
本物の王も肖像画から抜け出した偽物の王によって落とし穴に落とされる。日頃から粛清しか興味のない王も自分の分身によって粛清されたわけだ。しかし性格はちっとも変わらない。現世に当てはめてみても、統治者が代わっても圧政は変わらないといったところだろうか。二人を追いかけ回し、家臣も秘密警察のごとき捕らえるのに懸命になる。チェイスシーンではジブリの高畑勲氏がほれ込んだだけあって、半世紀も前に作られたというのに躍動感のあるアニメーション。主人公たる鳥が彼らを助けてくれるものの、途中捕まり、青年だけがライオンの檻に落とされてしまった。
民主化されていない絶対権力の階層社会。最下層では太陽も当たらず、鳥さえ見たことのない人ばかりなのです。ライオンに食べられそうになった青年は、その最下層の盲人の音楽によって一時的に助けられたが、鳥が再三助けてくれる。ここでの鳥は単純に王への憎しみのため、正しいことというよりもヘリクツとしか思えない演説により猛獣たちを説得するのです。何が正しくて、何が悪いことなのか、子供にも理解できるようになってる一方で、アニメの国の中だけではなく現代社会の問題点に全て通じているような奥深さもある。
「鳥たち万歳!」と地下の住民たちは革命が起こったかのように喜ぶのですが、彼らにとってみれば虎もライオンもみな同じ。人民主導の革命と思いきや、単に独裁者が交替するだけの皮肉とも受け止められます。その証拠に狂ったように暴れ回る巨大ロボットが・・・
★★★★・
音楽も素敵でしたが、「ロバと王様と私」という曲が笑えます。
これがまたとんでもないほどの暴君ぶり。高層階の王宮から気に入らない奴は皆落とし穴に落としてしまう。一人落ち着くための秘密の部屋は彼の孤独をも象徴しているが、その部屋に飾られた彫像や絵の中の人間が生きているのだ。三枚の絵。羊飼いの娘と煙突掃除の青年、そして狩猟姿の王がいる。愛し合い、王から逃れるため絵から抜け出した二人に対して王は嫉妬し、二人を追って彼も飛び出してしまう・・・
本物の王も肖像画から抜け出した偽物の王によって落とし穴に落とされる。日頃から粛清しか興味のない王も自分の分身によって粛清されたわけだ。しかし性格はちっとも変わらない。現世に当てはめてみても、統治者が代わっても圧政は変わらないといったところだろうか。二人を追いかけ回し、家臣も秘密警察のごとき捕らえるのに懸命になる。チェイスシーンではジブリの高畑勲氏がほれ込んだだけあって、半世紀も前に作られたというのに躍動感のあるアニメーション。主人公たる鳥が彼らを助けてくれるものの、途中捕まり、青年だけがライオンの檻に落とされてしまった。
民主化されていない絶対権力の階層社会。最下層では太陽も当たらず、鳥さえ見たことのない人ばかりなのです。ライオンに食べられそうになった青年は、その最下層の盲人の音楽によって一時的に助けられたが、鳥が再三助けてくれる。ここでの鳥は単純に王への憎しみのため、正しいことというよりもヘリクツとしか思えない演説により猛獣たちを説得するのです。何が正しくて、何が悪いことなのか、子供にも理解できるようになってる一方で、アニメの国の中だけではなく現代社会の問題点に全て通じているような奥深さもある。
「鳥たち万歳!」と地下の住民たちは革命が起こったかのように喜ぶのですが、彼らにとってみれば虎もライオンもみな同じ。人民主導の革命と思いきや、単に独裁者が交替するだけの皮肉とも受け止められます。その証拠に狂ったように暴れ回る巨大ロボットが・・・
★★★★・
音楽も素敵でしたが、「ロバと王様と私」という曲が笑えます。
>気に入らない奴は皆落とし穴に落としてしまう
もろに「カリオストロの城」でしたね。
穴の開き方と閉じ方も。
どんだけ影響受けてんだよ、と思いましたけど(宮崎駿が)。
追っかけてくる黒メガネの集団とか
城の感じとか。ウィーンと伸びる渡り廊下とか
屋根のへりでのアクションとか
「カリオストロ」ではないけど、巨大ロボとか。
チェイスシーン。
たしかに階段を駆け下りるシーンはすごかったですね。
あれは気持ちよかったです。
たしかにこの映画、政治的な寓意性も込められていると思いますが
ぼくがおもしろかったのは、冒頭のやぶにらみの暴君です。
やぶにらみの暴君というのは、真っ直ぐものを見ようとしても、右目と左目があっちとこっちを向いてしまう「やぶにらみ」で、そのコンプレックスの強さのせいで
肖像画を描かせても、ついつい、目がちゃんと正面を向けて描かれているかをチェックしてしまう
という辺り、なにか物哀しさを感じてしまいました。
自分の力では一生どうすることも出来ないコンプレックスを抱えた暴君、という話は
現代の少年犯罪の背景にも、どこかしら通じる気がしますし
背の低さが生涯のコンプレックスだったヒトラーに、この暴君が例えられるという話も、そこら辺が、理由なのかな、と思います。
そんなわけで、僕はこの暴君にわりと感情移入して観ていたので、いきなりニセモノと入れ替わって、しかも2度と帰って来ないという展開には驚きました(笑)
こちらの「解釈」の先を次々とすり抜けていくような映画だった気がします。
あと、羊飼いの娘がムダにセクシーでした。
(服が破れてんだもの・・)
そうそう、宮崎アニメの原点という言葉がよくわかる映画でした。落とし穴はカリオストロ、階段は千と千尋、飛び降りるところなんてのはコナンなのでしょうか・・・
古い作品なので、製作当時に観ることができたのなら、間違いなく満点評価ですよ。まぁ、生まれていませんでしたけど・・・
たしかにコンプレックスから生まれた犯罪ってのは多そうですよね。俺は肉体的なコンプレックスはさほど無いのかもしれないけど、貧乏コンプレックス(?)はあるなぁ(汗)
「王が帰ってこれない」なんて、脚本としても考えさせられる。どういう意味があるんだ?と、あれこれ考え、後味も最高ですよね~
でも、『ゲド』と同時期に(盗作のカミングアウトするような)、コノ作品を上映するのは・・話題を分散させるため?と、思ってしまいました。
作品については、ラストで、瓦礫の山に、考える人ポーズで座るロボットのシルエットが印象的でした。
鳥籠の扉を開け、鳥籠を潰すのに、巨大ロボットはいらない。
巨大な力を使うには、正しい知識が必要で、操作を誤れば、抑制が効かず、全てを崩壊させてしまう。情報操作に惑わされる、猛獣や無知な下層住民。
普遍的名作だと思いました。
『ゲド』の公開の裏でジブリの配給映画という昔のアニメがどんどん出てきますね~
巨大ロボットで終わるという、結果的に色々と考えさせる映画でしたけど、何に対する暗喩なのか・・・やはり国家や軍隊。もろ刃の剣となる存在を考えさせられます。
意味深で考えさせられる作品って素敵ですよね。
社会フウシや、自然との共存なら、いくらでもネタはありそうな現代なのに・・
他国の秀作アニメを紹介する配給会社となるのか?
素晴らしい価値あることだけど・・技術力が・・宝の持ちグサレ・・
他国の作品をリメイクするもよし、ベストセラー小説をアニメ化するもよし、ジブリを愛する新しい脚本家を雇用するもよし。一般公募するもよし。いろいろ手はありそうですが。
ジブリファンとしては、書き下ろしのオリジナルを待ちわびます。
これで最後、これで最後と言い続けて、監督をずっと続けている宮崎駿。たいしたものです。
ネタ切れというより、今まで以上のものを作らない使命を考えたら、やっぱり引退でもいいのかな・・・
まぁ、駿先生じゃなくて、ジブリってことを考えたら、どんどんオリジナルは作るはずですよ。
なぜ王は肖像の中の王と入れ替わったのか
入れ替わった後なぜ王は印象的な目の違いがあるにもかかわらず誰もきづかないのか
ロボットは何を意味するのか
なぜ籠を潰したのか
予備知識無ければただの映画
でも、これは深い意味がこめられた映画
ただの映画と思って見ずに、シーンごとに何を意味するかしっかり考えてみて欲しいものです