先週で終了しました。
もっとじっくり時間をかけて、改善案とか、技術的なこととか、やり合えたら良かったな、と思っています。
でも、デッサン会と同じで、うまい下手とは関係なく、言葉で何かを表現することの楽しさみたいな物を、もう一度体感することが出来た気がしています。
後期、10月から再開します。それまでに、進め方も少し相談したいし、興味を持ってくれている「部外者」の人も一緒に出来たらいいなぁ。
で、一大決心をしました。
前期の間に私が書いたものをひとつだけついに公開!
ドキドキ……。
まぁ、笑ってやってください(誤字など、多少訂正してあります)。
最終回の自由課題の時のです。
ありがちなのは承知で、一回こういうの書いてみたかったので。
アイデアの大元は江戸時代にありますが、最初の設定の一部を借りただけです。
読んだ人は必ず御意見を!
この雨が、今度こそ正銘「やまない雨」なのかも知れない、と、源蔵は暗い空を見上げてそう思った。地蔵堂の庇は男ひとりを雨から守るだけの広さもない。
それならその方が良いのかも知れぬ。このまま降り続けて全てを流し去ってしまえば良い。九郎左衛門も、ときも。俺も、佐々木の家も。
元々、九郎左衛門の想い人だったのだ。迂闊だった。十七で江戸屋敷に出された弟が、親友の妹と兼ねてからそういう仲になっていようとは。ときは、それを覚悟で俺に嫁いだのか。子まで成して、それが、こうなる物と知っていて、それでも奔ったのか。佐々木の惣領は、筆は立つし人は良いが少し抜けた所がある、いつか人に騙されて家を潰すことになろうも知れぬ、そんな噂が城下にあったのを、俺も知らないわけではない。実際、友達甲斐に五日限りと百両貸した伊藤はいつの間にか行方知れず、穴を埋めてくれたのも国に戻った九郎左衛門だ。俺が伊藤を捜して家を空けている内に、ときと通じてしまったことを誰が責められよう。ほれ見たことか、佐々木の惣領はあろうことか弟に寝取られたぞ、あれでおめおめ生きていられよう物か。妻敵討って自ら腹切らいでは武士の一分も立つまいぞと専らの噂。武士の一分、佐々木の御家。虚け者と言われようが、この小さな家は俺が守らねば幼い我が子が路頭に迷う。老いた母にも何も知らずに逝った父にも申し訳が立たない。
九郎左衛門は講釈師となって駿府に居ると告げる者があって、東海道を下ってきた。この峠道を下り、川を越せば府中だが、この雨では川も易々とは越されまい。そういえばまだ富士も拝んでいない。それにしても、弟はどうしてこの街道随一の城下町で人目に付く講釈師なぞしているのだろう。俺に追われているのは百も承知、江戸の往還で気づく者があれば自然と俺の耳に入るのは必定。或いは、俺に見いだされる覚悟でいるのか。いや、それなら最初から討たれれば良いではないか、否、そもそも兄の嫁と通じることなどせぬが良い。とき、か。あいつが弟をそそのかしたのか。思いを巡らせば巡らすほど、兄弟の不幸、暗い行く末を考えてしまう。皆流れてしまえばいい。
ふと、視界の端に動く物を認めて我に返ると、堂に寄りかかるように立つ紫陽花の大きな葉に蝸牛がいて、細い枝を不安定に揺らしている。枝はしなって、登って来たはずの蝸牛は今は下を向いて進んでいるように見える。その先は行き止まりだと、こいつは知っているのだろうか。
俺は、何を追ってこの道を下っているのか。その先に何があるのだろう。家を守るために弟と妻を討ち果たす。それで武士の一分は立つのだと言う。家は安泰だと。しかし小太郎は実の母を失う。虚けの父と不義の母を持った子として生きていくことが、果たして幸せなことなのか否か。ときは、九郎左衛門も、俺のことを、家のことを、老いた母や小太郎のことを、棄てたではないか。或いは、自らの存在そのものを棄ててしまったのかも知れぬ。俺は疾うに世間から見放されている。武士の一分を通したとて、実の弟に寝取られた評判はついて回る。家を守るために有能な実弟を討った男として生きることに、何の意味があろう。
川を越えれば弟が居る。子を成した妻が居る。俺は、会って、何をしようとしているのか。斬れるはずがない。弟は討たれる覚悟で首を差し出すのだろう。そうまでして貫きたかった想いを、俺は何のために断とうとしているのか。急かされるまま熱に浮かされたように此処まで来たのではあったが、いよいよと言う段になって、折からの雨を言い訳に、枝を行き来する蝸牛よろしく逡巡を続けているのである。
ああ、俺が抑も武士である必然は在るのだろうか。学問なら藩中に並ぶ者がなかった。読み書きでも学問でも、身一つならば何処でも生きて行かれよう。家が無くなれば母や小太郎は悲しむだろうが一族の者達が放っておくはずもない。親が殺し合うよりは遙かにましではないか。弟たちがそうしたように、世の中の決めごとを棄てて思う通りに生きてみれば良いではないか。ときが俺を棄てたのも、恋故とばかりは言われまい。俺は、実際に、何のためにこれまで生きてきたのか解らぬ。そんな男と連れ添うて、子を産むために抱かれて、何が楽しかろう。惚れた男と苦労をして、命を失うことになろうともその方がどんなに幸せか。
佐々木の家はこれで終わりだな。それも良い。それぞれに、それぞれの思い通りに生きていけばよい。このままもう生涯交わることはないかも知れぬ。或いは何時か何処かで偶然に出会って斬り合うかも知れぬし、肩を抱き合って涙を流すやも知れぬ。そう考えてふと見上げると、視界を遮る一叢の竹が風を受けて大きくそよぎ、切り取られた空が動いたようにほんの一時明るさが増した。雲の流れが速い。雨は相変わらず激しく降っている。それでもやまぬ雨はないのだとつぶやいて、少し口元に笑いを含ませてから大きく息を吸い込むと、源蔵は滝のようになった山道を登り始めた。
もっとじっくり時間をかけて、改善案とか、技術的なこととか、やり合えたら良かったな、と思っています。
でも、デッサン会と同じで、うまい下手とは関係なく、言葉で何かを表現することの楽しさみたいな物を、もう一度体感することが出来た気がしています。
後期、10月から再開します。それまでに、進め方も少し相談したいし、興味を持ってくれている「部外者」の人も一緒に出来たらいいなぁ。
で、一大決心をしました。
前期の間に私が書いたものをひとつだけついに公開!
ドキドキ……。
まぁ、笑ってやってください(誤字など、多少訂正してあります)。
最終回の自由課題の時のです。
ありがちなのは承知で、一回こういうの書いてみたかったので。
アイデアの大元は江戸時代にありますが、最初の設定の一部を借りただけです。
読んだ人は必ず御意見を!
この雨が、今度こそ正銘「やまない雨」なのかも知れない、と、源蔵は暗い空を見上げてそう思った。地蔵堂の庇は男ひとりを雨から守るだけの広さもない。
それならその方が良いのかも知れぬ。このまま降り続けて全てを流し去ってしまえば良い。九郎左衛門も、ときも。俺も、佐々木の家も。
元々、九郎左衛門の想い人だったのだ。迂闊だった。十七で江戸屋敷に出された弟が、親友の妹と兼ねてからそういう仲になっていようとは。ときは、それを覚悟で俺に嫁いだのか。子まで成して、それが、こうなる物と知っていて、それでも奔ったのか。佐々木の惣領は、筆は立つし人は良いが少し抜けた所がある、いつか人に騙されて家を潰すことになろうも知れぬ、そんな噂が城下にあったのを、俺も知らないわけではない。実際、友達甲斐に五日限りと百両貸した伊藤はいつの間にか行方知れず、穴を埋めてくれたのも国に戻った九郎左衛門だ。俺が伊藤を捜して家を空けている内に、ときと通じてしまったことを誰が責められよう。ほれ見たことか、佐々木の惣領はあろうことか弟に寝取られたぞ、あれでおめおめ生きていられよう物か。妻敵討って自ら腹切らいでは武士の一分も立つまいぞと専らの噂。武士の一分、佐々木の御家。虚け者と言われようが、この小さな家は俺が守らねば幼い我が子が路頭に迷う。老いた母にも何も知らずに逝った父にも申し訳が立たない。
九郎左衛門は講釈師となって駿府に居ると告げる者があって、東海道を下ってきた。この峠道を下り、川を越せば府中だが、この雨では川も易々とは越されまい。そういえばまだ富士も拝んでいない。それにしても、弟はどうしてこの街道随一の城下町で人目に付く講釈師なぞしているのだろう。俺に追われているのは百も承知、江戸の往還で気づく者があれば自然と俺の耳に入るのは必定。或いは、俺に見いだされる覚悟でいるのか。いや、それなら最初から討たれれば良いではないか、否、そもそも兄の嫁と通じることなどせぬが良い。とき、か。あいつが弟をそそのかしたのか。思いを巡らせば巡らすほど、兄弟の不幸、暗い行く末を考えてしまう。皆流れてしまえばいい。
ふと、視界の端に動く物を認めて我に返ると、堂に寄りかかるように立つ紫陽花の大きな葉に蝸牛がいて、細い枝を不安定に揺らしている。枝はしなって、登って来たはずの蝸牛は今は下を向いて進んでいるように見える。その先は行き止まりだと、こいつは知っているのだろうか。
俺は、何を追ってこの道を下っているのか。その先に何があるのだろう。家を守るために弟と妻を討ち果たす。それで武士の一分は立つのだと言う。家は安泰だと。しかし小太郎は実の母を失う。虚けの父と不義の母を持った子として生きていくことが、果たして幸せなことなのか否か。ときは、九郎左衛門も、俺のことを、家のことを、老いた母や小太郎のことを、棄てたではないか。或いは、自らの存在そのものを棄ててしまったのかも知れぬ。俺は疾うに世間から見放されている。武士の一分を通したとて、実の弟に寝取られた評判はついて回る。家を守るために有能な実弟を討った男として生きることに、何の意味があろう。
川を越えれば弟が居る。子を成した妻が居る。俺は、会って、何をしようとしているのか。斬れるはずがない。弟は討たれる覚悟で首を差し出すのだろう。そうまでして貫きたかった想いを、俺は何のために断とうとしているのか。急かされるまま熱に浮かされたように此処まで来たのではあったが、いよいよと言う段になって、折からの雨を言い訳に、枝を行き来する蝸牛よろしく逡巡を続けているのである。
ああ、俺が抑も武士である必然は在るのだろうか。学問なら藩中に並ぶ者がなかった。読み書きでも学問でも、身一つならば何処でも生きて行かれよう。家が無くなれば母や小太郎は悲しむだろうが一族の者達が放っておくはずもない。親が殺し合うよりは遙かにましではないか。弟たちがそうしたように、世の中の決めごとを棄てて思う通りに生きてみれば良いではないか。ときが俺を棄てたのも、恋故とばかりは言われまい。俺は、実際に、何のためにこれまで生きてきたのか解らぬ。そんな男と連れ添うて、子を産むために抱かれて、何が楽しかろう。惚れた男と苦労をして、命を失うことになろうともその方がどんなに幸せか。
佐々木の家はこれで終わりだな。それも良い。それぞれに、それぞれの思い通りに生きていけばよい。このままもう生涯交わることはないかも知れぬ。或いは何時か何処かで偶然に出会って斬り合うかも知れぬし、肩を抱き合って涙を流すやも知れぬ。そう考えてふと見上げると、視界を遮る一叢の竹が風を受けて大きくそよぎ、切り取られた空が動いたようにほんの一時明るさが増した。雲の流れが速い。雨は相変わらず激しく降っている。それでもやまぬ雨はないのだとつぶやいて、少し口元に笑いを含ませてから大きく息を吸い込むと、源蔵は滝のようになった山道を登り始めた。
「俺」の葛藤はよく伝わります。
綺麗な文章で、そこはそれ、ベテランという感じです。
話の展開というか、設定説明が早いので、
勿体無い感じしました(僭越(ばく
暗い空と地蔵堂と雨
あっという間に情景が流れてしまうので
どう座ってて、雨との距離感がどうで温度がどうで
というのが、もちっと長くあってもいいかなぁ。
弟に対する心境が、最初から「仕方なかった」という
許す方向で書かれているけど、なんか段々変わる方が楽しそうカモ(ぇー
しかも赤い字で!!(笑)
さて、要求に従い愚見をば。
最後の場面も雨が降り続いているのは、重みを増すという点で効果的ですね。
雨を止ませて主人公に「止まない雨はない」と実感させないあたり、先生のストイックさを見て取れるような取れないような・・・(笑)
何はともあれ、先生の内面を写したモノであるとは言えるんじゃないでしょうか。
senさん、早速詳細な批評、感謝感激。
いや、実はこれ、字数制限(二千字)があったんです。もっとも、自由に書けたらディテイルが書けないのがバレバレになるので、こんなとこかな、と。
長い小説を書こうという気がないと言うこともあって、このくらいで詰めるのは結構楽しい作業でした。
でも、前とかあととか、あっても良いですねぇ。
書いて頂けませんか?
内面か、無い面か、微妙。
今度カワセ君も参加してよね。
絵が浮かびます。
また、良い絵は言葉やストーリーが浮かぶことがあります。
それ以外の感想は文章で書けません。
逆に私の新作をウェブで公開して「感想」を求められたら困ってしまうのでは?
感想は、こんど御会いした時に私の態度を見てお察し下さい。
です。
やはり男性はこういう形の表現なのでしょうか。
だが、そこがいい。
久しぶりに正しい文学に出会いましたよ。
優等生な方の作品は匿名にしても先生の書いたものだってわかってしまうくらいオリジナリティがあるものかもしれませんね!
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そのピュアさに衝撃でした。
…文章的スキがなくあまりにもテキストなのはお人柄なんですね~。あ、文章のお教室なんでしたっけ。
読者としては、前のユミの小説の方がとりとめない正直な青くささでスキです。