京都の闇に魅せられて(新館)

法住寺と後白河陵 @ 京都妖怪探訪(420)





 どうも、こんにちは。
 今回は、シリーズ前回でも紹介しました、京都・東山の古刹「法住寺」を紹介します。
 シリーズ前回では「白拍子」というテーマでとりあげましたが、よく調べてみると、法住寺それ自体にもいろいろ面白いところや不思議な伝承がありましたので、今回紹介することにしました。



 まずは、シリーズ前回の繰り返しになりますが、法住寺までのアクセスを。
 最寄りの交通機関は、七条通りにある京都市営バス「博物館三十三間堂前」停留所





 その名の通り、「京都国立博物館と、歴史的にも有名な「三十三間堂」のすぐそばにあります。
 ですが今回は七条通りから、「三十三間堂」の東側にある小さな道を南へと歩きます。
 なおこの辺りには、「血天井」で有名な寺院「養源院(ようげんいん)」もありますが、また別の機会にでも紹介しましょう。
 





 「法住寺」の入り口です。







 ここで法住寺について、簡単な説明を。
 法住寺は、永そ元年(989年)に藤原為光が、寛和元年(985年)に亡くなった夫人と娘の菩提を弔うために創立されたそうです。
 応保元年(1161年)、後白河法皇が法住寺の地を新造御所に定めて移ってきた頃には、ここは法皇の院政の拠点となり、現在よりも遙かに広大な敷地を誇っていたそうです。
 あの有名な三十三間堂(蓮華王院)も、元々は長寛2年(1164年)に後白河法皇が法住寺殿域内に建てたお堂だったという話ですから、当時の法住寺の勢いが偲ばれます。
 その後明治に至るまで、後白河天皇陵を守る役割を担うなど、皇室と深い関係にありましたが、明治以後は後白河陵が宮内庁の所管になりました。
 しかし現在もなお、後白河天皇ゆかりの寺院として、また多くの信仰を集める天台宗の寺院として存続しています。



 中へ入ります。
 門をくぐって、すぐ横に「荼枳尼天」(だきにてん)をまつったお堂があります。





 ところでシリーズ第113回等で少し取り上げましたが、荼枳尼天とは、元々は人を喰うインドの鬼神でもあったのですね。
 そういう知識があって見ると、一見何事もないようなお堂もまた違って見えてくるのですが……。
 荼枳尼天や鬼子母神など、元は異教の神々が、しかも人を喰う恐ろしい鬼神が仏教の仏や守護神になっていたりするのも、面白いものですね。


 境内の庭を散策します。














 「今様合せ」や、毎年11月に行われる「身代り不動尊大祭」などの行事の時は、大勢の参拝者や観光客で賑わいますが、普段は静かで、落ち着いた場所です。
 藤の花が咲く季節に訪れたら、面白そうです。


 境内に静かに佇むお地蔵さんたち。









 本堂と、本尊の不動明王が描かれた絵馬です。








 この本尊の不動明王像は「身代り不動明王」とか「身代りさん」とか呼ばれ、あらゆる災厄から身を守ってくれると信じられています。
 というのは、木曽義仲がここに攻めてきた、いわゆる「法住寺合戦」の時、後白河法皇があやうく生命を落としそうになったところを、当時の天台座主・明雲が敵の矢に倒れました。その時、後白河法皇が
「お不動様が、明雲となって身代わりになってくれた」
と涙を流した、と伝えられています。
 そのエピソードから、ここの不動明王像は「身代り不動」として信仰されるようになったそうですが。
 うーん。
 味方の戦死を悼むのはわかりますが。また、死んだ仲間が「自分の身代りになってくれたのだ」と思う気持ちも理解はできますが……。
 ただ、「戦死した味方や仲間が、実は自分の身代わりになる為にこの世に現れた神仏の化身だった」というのは、何とも凄い発想だな、と思うのですが。
 当時の人は、そんな風に考えたのでしょうか。
 私のような凡人は、とてもそこまでは思いつきませんが。
 とはいえ、法皇のその言葉によって、法住寺の不動明王像は「身代り不動」として信仰されることになったのは、間違いないようです。






 この寺には、親鸞上人自作の阿弥陀如来像や、「忠臣蔵」の四十七士像などの面白いものがたくさんありますが、ここで、
『京都妖怪探訪』シリーズの本記事であえてとりあげるとすれば、「親鸞上人のそば喰いの木像」でしょう。
 この木像には、その呼び名の通り、そばを食べたという伝承が遺されているのです。
 以下が、その木像です。





 さすがに貴重な寺宝をそう簡単に直接撮影させてもらえるはずもないので、法住寺のパンフレットの写真から撮影するしかなかったのですが。
 この座像は親鸞上人自身の作で、次のようなエピソードが遺されています。
 健仁元年(1201年)親鸞が28歳、比叡山の無量寿院に所属していた時、密かに比叡山を抜け出して、京都の六角堂に百日間参籠していた頃。この木像が親鸞上人の代わりに、留守居をつとめていたそうです。
 当時の天台座主が衆僧にそばを振る舞った時、この木像は本人の代わりにそばを食べた、と伝えられています。
 この話は、その当時の苦労を物語るものとされていますが。
 ただ、実家が代々の浄土真宗の門徒(信者)である私からすれば。浄土真宗の教えって、もっと合理的なものでり、そういう不可思議な話、通常では考えられないような非合理な話とかは、あまり信じないと言いますか。どちらかといえば、そういったものとは距離を置いているような感じなのですが。それでも、歴史や伝承に名を遺すような偉人には、そうした不思議なエピソードがついて回るものなんでしょうかね。
 それと、歴史に名を遺す高僧には、彫刻の名人が多かったのかな、などと思ったりもします。空海や親鸞などの偉いお坊さんには、このように見事な仏像を幾つも自作したという話がありますし、その中には国宝や重要文化財クラスの名作もありますし。



 境内を観て回った後は、一旦門の外に出て、その横から延びている後白河法皇陵への参道を進みます。









 参道を進んだ先に現在も佇む後白河法皇陵です。





 ここでは崇徳上皇や早良親王みたいな怨霊話も聞きませんので、後白河法皇の御霊は安らかに眠っているようです。
 ただ。
 兄・崇徳上皇と保元元年(1156年)の「保元の乱」で争ったこととか、現在国宝にもなっている『地獄絵図』を制作させたこととか、面白いエピソードがいくつもあるので、今後も
本シリーズで後白河上皇の話にふれるかもしれません。
 また、ここ法住寺で毎年11月に行われる「身代り不動尊大祭」も、鬼や天狗が登場する面白いお祭りなので、いずれとりあげようかと思います。






 それでは今回はここまで。
 また次回。




*法住寺へのアクセス・周辺地図はこちら




*法住寺のHP
http://hojyuji.jp/




*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm





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