今回は前回の続きで、『京洛八社集印めぐり』の一社、京都の御霊神社をとりあげます。
『京洛八社集印めぐり』を私は、「たのしい怨霊めぐり」とも呼んでいましたが、ここもその名からもわかるように、いわゆる怨霊‥‥「歴史の敗者」として無念の死を遂げた人たちの魂を祀った神社のひとつです。
「上御霊神社」というのは俗称で、法人としての正式名は「御霊神社」です。
それでは、前回の続き。
今回は、門から入って本殿に至るまでのところをとりあげます。
まずは門のところから。
堂々とした鳥居と門です。
門の両脇の大木も、堂々とそびえ立っています。
門を守る唐獅子と狛犬も、いい面構えです。
なおこの写真は、前回のと違って、冬場に訪れた時のものです。
それでは、境内に失礼します。
訪れたのが平日だったこともあって、境内は静かに落ち着いた雰囲気です。
ここが、天下を恐れさせたほどの恐ろしい怨霊たちの眠る地だとは思えないほどです。
彼らも今は安らかな眠りについているのでしょうか?
あの松尾芭蕉の句碑がありました。
元禄(1690)年に松尾芭蕉がここを参詣し、次の句を奉納したそうです。
「半日は 神を友にや 年忘れ」
さらに進むと、境内にも唐獅子と狛犬がありました。
門前の唐獅子・狛犬ほどの迫力はありませんが、こちらは随分と古いというか、歴史を感じさせます。
おや?
こんな珍しい碑もありました。
しかもこの石碑に埋め込まれている時計は、今も現役で動いているようです。
ちょっと時間を知りたい時や、腕時計がない時などは便利ですね。
こういう古い歴史の遺産がある中に、ぽつんと近代的なものがあり、しかも全体の雰囲気を損なっていない。こういうのも、面白くていいかもしれません。
舞殿の辺りまでやってきました。
これは、しだれ桜でしょうか?
訪れたのがまだ肌寒い時期だったので、ご覧の通り花は咲いていませんでした。
その代わりに、境内には梅が芽吹き始めていました。
また、舞殿には、こんな生け花が。
どなたが生けられたのでしょうか?
次の碑は、文学博士・新村出(しんむら いずる、1876~1967年)が遺した歌の碑です。
歌碑には、次のような文と歌が刻まれています。
上御霊のみやしろに
詣でてよめる
千早振る神のみめぐみ
ふかくして
八十ぢに満つる
幸を得にけり
昭和三十一年十月四日
新村博士は、あの『広辞苑』の編纂など、優れた業績を残した研究者だったようです。
イギリス・ドイツ・フランスに留学して帰国後、終生この神社の近くに住んだそうです。
境内が広い上に、いろいろな歴史を感じさせるものがあったので、進むのについつい時間がかかってしまいましたが。
ようやく、本殿までたどり着きました。
まずは、蝋燭をお供えしてきちんと参拝をします。
さて、また長くなってしまいましたので、今回はここで一旦切ります。
次回は、上御霊神社の摂社・末社について書きます。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
‥‥っと、ここでちょっと余談。
次の写真は、境内にある納札所です。
ここは納札所。
古くなったお札やお守りなどを返納するところであって、ゴミ捨て場ではないはずです。
それなのに、このゴミの山は一体‥‥。
しかもここは、本来は怖い神様、祟る怨霊神を何体も祀った場所ですよ。
誰がこんなことをしたのかはわかりませんが、おそれを知らないというか‥‥。
またこの神社は、歴史文化遺産でもあります。
神仏や怨霊などの存在を信じない人であっても、このような非常識なことをしてはいけないことぐらいわかるはずですよね?
「ゴミを捨てるな」の注意書きもあるのですが。
やっている人たちの、モラルや常識などが問われる問題です。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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