どうも。
京都妖怪探訪シリーズを再開します。
このところオフの多忙に加えて、ネットでも大阪・海遊館の話。
ツイッターでは、ほとんどあの尖閣諸島をめぐる一連の騒動のことばかり話してしまって‥‥。
私自身も、このままあまり熱くなりすぎてもいかんと思ったので、ここいらで気分転換もかねて。
さて、シリーズ再開に加えて、7月以来途中で切れたままになっている『京洛八社集印めぐり』の記事も再開します。
7月頃は、祇園祭やら、千本えんま堂の風祭りやらあって、これも中途半端なままでしたので。
『京洛八社集印めぐり』の6つ目は、護王神社をとりあげます。
この神社だけは、他の7社とは異質なのです。
私は『京洛八社集印めぐり』を「たのしい怨霊めぐり」と呼んでいましたが、この8社のうち護王神社だけが怨霊を祭った神社ではないのです。
ここに主祭神として祭られているのは、和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)とその姉・和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)です。
和気清麻呂は、平安京建都の時の造営太夫など、晩年まで政治の世界で活躍した人物です。
つまり、歴史の敗者として闇に葬られた怨霊たちとは違って、「歴史の勝者」であるわけです。
もうひとつ。
この神社の面白いところは、この神社が猪を神の使いとして祀っているところです。
そのため、境内のいたるところに猪の像が見られるという、いわばここは「イノシシ神社」なのです。
護王神社は、同じく『京洛八社集印めぐり』の神社のひとつで、シリーズ第38回でとりあげた菅原院天満宮のすぐ近くです。
京都市営地下鉄・丸太町駅の2番出口。
そこから、そのまままっすぐ、烏丸通りを北へ進みます。
烏丸通りを挟んで東側には、御所の外壁が延々と続いています。
少し歩けば、左手に菅原院天満宮の入り口が見えてきます。
そこからさらにもう少し歩けば、やはり左手に護王神社の正面入り口が見えてきます。
普通の神社ならば、入り口の両脇を狛犬と唐獅子が守っていますが、ここは猪です。
狛犬ならぬ、狛イノシシでしょうか?
ちなみに、このすぐ近くには「蛤御門の変」で有名な、京都御所の蛤御門があります。
この辺りには、京都の地方テレビ局・KBS京都や、有名な老舗の和菓子屋・とらやもあります。
さて、護王神社の話に戻ります。
鳥居より内側、入り口脇にある猪の像と、主祭神の一人である広虫姫の図です。
764年に起きた藤原仲麻呂の乱で、乱に連座した375名の死刑者の減刑を天皇に願い出て、その刑を流罪に改めさせ、身寄りを失った83人の子供を養育したという、非常にヒューマニズムにあふれる女性として伝えられています。
その話から広虫姫は、子育明神(子育て・子供の成長の神様)としても祀られています。
入り口から入ってすぐの舞殿(まいどの)。
やはり、両脇を狛イノシシが守っています。
さらにこの舞殿の東西南北の四方は、玄武、朱雀、青龍、白虎という、四方を守護する聖獣に守られています。
舞殿のさらに奥にある本殿です。
まずは、ここでお参りを。
境内にある護王会館と、その脇にある主祭神・和気清麻呂の像です。
護王会館の前にある、あの「君が代」の歌にも出てくるという「さざれ石」です。
さて、ここで。
主祭神として祭られている和気清麻呂とは、何者か。
何故、この神社では猪が神の使いとして祭られているのか。
護王神社に伝わる伝記によれば、だいたい次のとおり。
奈良時代、称徳天皇の時代。
当時、天皇の病を治したことから絶大な権力を得た、歴史に悪名高い怪僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、天皇の位を我が物にしようと企んでいました。
そのために、「宇佐八幡より、“道鏡を皇位に就かせたなら天下は太平になる”との神託があった」とでっちあげました。
天皇は、高潔な人格で知られていた和気清麻呂に、宇佐八幡の神託を確かめさせました。
清麻呂は、「道鏡を皇位に就かせてはいけない」という宇佐八幡の本当の神託を確かめ、天皇にそのように奏上しました。
こうして皇位を狙った道鏡の企みは防がれましたが、道鏡は怒り狂って、清麻呂と広虫姫を処刑しようとしました。天皇が二人をかばったために、罪一等を減じられ、清麻呂は大隅国(鹿児島県)へ、広虫姫は備後(広島県)へと流罪になりました。
しかも清麻呂は、大隈国へ行く途中で道鏡の放った刺客によって手足の筋を切られてしまいました。
不自由な身体になりながらも清麻呂は、「今一度、宇佐八幡に参りたい」と思っていると、無数の猪が現れ、清麻呂を護衛するかのように取り囲み、宇佐八幡まで送り届けました。
さらに不思議なことに、筋を切られたはずの足が元通りに治っていました。
この伝説から、護王神社は「厄除け・災難除け」や、「足腰の健康・病気怪我回復」にご利益があるとされ、猪を神の使いとして祀るようになったそうです。
なお、流罪から一年後、称徳天皇が亡くなり、後ろ盾を失った道鏡が失脚して後は、清麻呂と広虫姫は都へ戻ることができました。
その後は、平安京建都の造営太夫を務めたり、日本最初の私学「弘文院」の創設に尽力するなどの活躍をしました。
境内に立つカリンの神木。
撮影したのが冬場だったので、このような姿になっていますが。
その実の効能から、「ぜん息封じ」の御利益もあるとされています。
本殿前にそびえ立つ神木・招魂木(おがたまのき)の下には、願かけ猪の石像があり、その周りには座立亥串(くらたていぐし)という、願かけの串がたくさん刺し立ててあります。
この他にも、境内のあっちこっちに、たくさんの猪の姿が見られます。
これだけたくさんの猪が。
まさに、イノシシ神社。
さて、こうして楽しんできたのにケチをつけるというわけではないのですが‥‥。
今回の護王神社と、ここに伝わる伝記は、いわば「歴史の勝者」によって作られたものです。
その輝かしい栄光や美談・武勇伝などの影にはしばしば、「歴史の敗者」として闇に葬られた人々の存在があるものです。
例えば、和気清麻呂と共にこの神社に祀られている藤原百川(ふじわらのももかわ)という人が居ます。
この人物は、道鏡によって流罪に処せられた和気清麻呂のために密かに仕送りを続けるなど、清麻呂の恩人や盟友のような人です。
実際の藤原百川は、当時の政治の世界で巧みに振る舞い、常に権力の中枢に居続けてきた非常に老獪な政治家だったようです。
さらに百川は、山部親王(やまべしんのう。後の桓武天皇)を皇位に就けるために、山部親王の異母兄弟である他戸親王(おさべしんのう)と、その母・井上内親王(いのえないしんのう)とに、「天皇を呪詛した」との罪を着せて葬るなどという、えげつないこともやってのけています。
後に怨霊となった井上内親王によって、百川は祟り殺されたという話も遺されています。
シリーズの次回は、同じく『京洛八社集印めぐり』の1社で、その他戸親王・井上内親王の母子の怨霊が祀られているという、上御霊神社をとりあげます。
それにしても、『京洛八社集印めぐり』において、「歴史の勝者・敗者」、「祟る側と祟られる側」を一緒にしていたとは‥‥。
これを企画した人は、ある意味なかなか面白いことをしてくれます。
それでは、今回はここまで。
また次回に。
*護王神社のホームページ
http://www.gooujinja.or.jp/
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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