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どうも、こんにちは。
シリーズ前回まで、西院にある「護国寺賽院別院・妖怪堂」の記事を書いていたので、今回は西院にかつて広がっていたという葬送地「賽の河原」をとりあげます。
現在では、バスや鉄道などの交通が行き交う賑やかな場所ですが、平安京の時代には「賽の河原」と呼ばれる葬送の地が広がっていたそうです。
その名残として、西大路四条に現在も建つ高山寺(こうざんじ)には、多くの地蔵などの石仏が数多く祀られているそうです。
西大路四条交差点の北東角、京都市営バス「西大路四条《阪急・嵐電西院駅》」のすぐそばにある、高山寺の山門。
阪急電車「西院(さいいん)」駅か、嵐電「西院(さい)」駅からも、歩いてすぐ行けます。
門前に立つ「西院(さい)の河原旧跡」の石柱。
これが示す様に、昔この付近には「賽(さい)の河原」と呼ばれる葬送地があったそうです。
川が流れ、その付近に死者が葬られていた。しかし貧しい人々には、きちんとした埋葬をし、墓を創ることも出来ないので、遺体を埋めた場所に石を積んだ石塔を建てていた。それが幾つも立つ光景が、まるで三途の川の河原に並ぶ石積みの光景みたいなので、「賽の河原」と呼ばれるようになったそうです。
今でもここ「西院」を「さいいん」よりも「さい」と呼ぶ場合もあったり、近くを通る「佐井(さい)通り」などの地名などは、その名残りでしょう。
この辺りには、第53代・淳和天皇の離宮があったとも伝えられています。
当時の平安京の西に建ったので、「西院」と呼ばれるようになり、それがこの地名の由来のようです。
そんな不気味な・・・否、そういう世の無常を感じさせるような場所を、引退後の生活の場所に定めるとは、一体どういう心境だったのだろうかな、とは思いますが。
まずは本堂に参拝。
淳和天皇と皇后の没後、離宮・淳和院は、仏道道場や尼寺にもなりましたが、その後は荒廃し、焼失。
室町時代になると、室町幕府の創始者・足利尊氏が近江堅田にあった地蔵尊を移し「高西寺」を建立。
さらに後、豊臣秀吉の支配と平安京の大改造が始まると、御土居(おどい)建設に伴い、元は四条御前(しじょうおんまえ)にあった高西寺を現在の場所に移築、寺も「高山寺」と改名されたそうです。
現在も浄土宗の寺院として遺っています。
この本堂に本尊として祀られている子授(こさずけ)地蔵は、‘恵心僧都’こと源信の作だと伝えられています。
源信と言えば、日本人の地獄・極楽のイメージの元となった書物『往生要集』を著した人物であり、羅刹谷の鬼女を撃退した伝説(※その詳細と羅刹谷についてはシリーズ第494回を参照)などで有名な人物ですが、そういう人物が掘った仏像ならば、加護やご利益がありそうです。
事実、この古刹には、子供守護、子宝祈願、病気平癒などのご利益があるとされています。
ただ(実家が先祖の代からの浄土真宗の門徒だから思うのですが)、浄土宗や浄土真宗といえば、来世宗教であり、こういう現世的なご利益を求めるのは、少しヘンなのですが・・・これはまあ、ここが元は天台宗の寺院(※源信作の仏像が祀られているところから、元は比叡山・天台系の寺院だったと思われます)だったことの名残りでしょうか?
なお、「高山寺」と言えば、京都・栂尾(とがのお)にある国宝『鳥獣人物戯画』で有名な同名の寺院がありますが、全く別の寺院なので間違えないように。
境内には無数の地蔵など石仏や道祖神が。
京都各地の古くからある葬送地はたいていそうなのですが。
地蔵と言えば、早死にした子供をお冥福を祈る親の存在というのがその背景にあり、そうした地蔵がたくさん見られます。
昔の死亡率を上げていたのは、老人と子供とだいたい相場が決まっています。
昔は今のように医療技術も発達していたわけでも、医療福祉の制度が確立されていたわけでもありませんから、子供の死亡率というのは高かったわけですね。
そう言えば一般に知られている「賽の河原」伝説は以下の通り。
早死にした子供は、親より先に死んで親を悲しませた罪で、死後も三途の川畔にある「賽の河原」で、石積みをさせられ、それを鬼に壊され、また最初から石積みをさせられるということを延々と繰り返す。最後には地蔵菩薩に救われる。
確か、こんな話だったと思います。
早死にした子供を葬った石塔や石仏が並んでいる河原の光景が、「賽の河原」の伝説と光景を想起させずにはいられなかったのでしょう。
水子地蔵と「水子地蔵和讃」が刻まれた石碑。
昔はいわゆる水子、この世に生まれてくる前に死んでしまった子供も多かったのですね・・・。
境内の石仏の中で最も大きく目立つのが、本堂前に立つこちらの地蔵尊です。
本堂に掲げられている御詠歌。
この御詠歌が示すように、この大きな地蔵尊は元は、洛東にある黒谷(金戒光明寺か?)から移されてきたそうです。
ただ先日、西院の妖怪カフェ「妖怪堂」店主の葛城トオル氏から教えていただいたのですが。
高山寺境内に遺る無数の石仏や道祖神は、かつて「賽の河原」に立ち並んでいたものだと一般には思われているようですが。
実際には、豊臣秀吉支配の時代に創られた「御土居(おどい、京の都を取り囲む様に築かれた土塁)」の跡地から出土したものだそうです。
当時、土塁を築く為の石材として、数多くの石仏や道祖神も使われたそうです。
良く言えば秀吉らしい合理主義的な発想とも言えますが、悪く言えば神仏をも恐れぬ罰当たりなことをやったものです。
おそらく御土居建設と、明治の廃仏毀釈の際には、今で言えばISやタリバンのような暴挙も行われたという痕跡であるとも言えます。なお京都には、他にも「粟田口刑場跡(※シリーズ第18回で紹介)」や、「清水寺・成就院付近の石仏群(※シリーズ第25回で紹介)」や、「方広寺石垣(※シリーズ第685回で紹介)」など、こうした暴挙を今でも伝える遺構が幾つもあります。
で、実際に「賽の河原」が広がっていた場所はどこなのかと言いますと。
現在の蛸薬師通りから佐井(春日)通りにかけての辺りには、かつて川が流れており、その周辺に「賽の河原」(のような光景)が広がっていたそうです。
実際にその辺りも歩いてみました。
まずは西大路四条の交差点から北、西大路通と蛸薬師通りとが交わる交差点(というよりT字路)へ。
蛸薬師取りを西へ。
蛸薬師通りの途中には、シリーズ前回までとりあげました西院の妖怪カフェ「妖怪堂」もあります。
現在の妖怪堂は、それにふさわしい場所に建っていると言えるかもしれません。
さらに蛸薬師通りを西へ。
佐井(春日)通りと交わる交差点へ。
さらに佐井通りを南へ。
この辺りは住宅や店舗が並ぶごく普通の町中といった感じしかしません。
佐井通りの途中に立つ西院春日神社。
この神社は、第53代・淳和天皇の離宮に勧請されていた奈良の春日四座大神を祀ったのが始まりとされています。
先ほど私は、「そんな不気味な・・・否、そういう世の無常を感じさせるような場所を、引退後の生活の場所に定めるとは、一体どういう心境だったのだろうかな」とは申しましたが。
後でよくよく考えてみれば、引退後だったからこそ、いずれ訪れるであろう自らの死期を意識して、あえてこのような死や闇のイメージが強かったこの地を、終の住処に定めたのかもしれない。そんな気もしてきました。
そんな世の無常を感じさせるような葬送地も、今ではごく普通の住宅街だったり、多くの人々や交通の行き交う賑やかな場所となっていたり。
もうほとんど誰も意識しなくなっているようですが、かつて・・・否、今でもこの下には、水子や幼くして死んだ子供を含めた多くの死者が眠っているかもしれない。
しかしそれもまた、世の無常を感じさせずにはいられません。
京都には、高野や嵯峨野、蓮台野などそんな場所が幾つもあって。ここもそうした場所のひとつなのでしょう。
今回はここまで。
また次回。
*京都・妖怪堂の周辺地図はこちら。
*葛城トオル氏のTwitter
https://twitter.com/yokaido
*京都賽院(西院)・妖怪堂のHP
https://www.facebook.com/YaoGuaiTang
*『京都妖怪探訪』シリーズ
https://kyotoyokai.jp/
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