どうも、こんにちは。
このところ、オフの多忙や体調不良等でネット活動が滞りがちになっておりますが、それでも頑張ってブログ記事の更新していきたいと思います。
今回は、先月訪れた京都・法金剛院の蓮の光景をお届けします。
そしてこの古刹、本シリーズで何度か取り上げた崇徳上皇の母、“待賢門院”こと藤原璋子(ふじわらのたまこ)だった人が開基した寺院。
崇徳上皇の敗北、流罪、無念の死、怨霊化に至るまで一連の悲劇の原因を生み出した業の深い人が創った寺院でもあったのです。
まずはいつもの通り、アクセスから。
京都市営バス「花園扇野町(はなぞのおうぎのちょう)」停留所。
最寄りの交通機関はこちらです。というより、すぐ目の前です。
JR山陰線「花園」駅から歩いてすぐの場所です。
門から中へ。
ここを訪れたのは7月中頃でしたが、蓮の他にも紫陽花などが咲いていました。
拝観料を払って庭園へと入っていきますが、入り口付近にも可憐な白蓮が。
平日の午前中という時間帯でしたが、境内庭には多くの参拝者が。
やはり蓮を観に来た人が多いようです。
また、蓮は昼頃までには花を閉じていることが多いようですから、午前中という時間帯にも関わらず、多くの人が。
ただ、年配の人や学生風の人がほとんどだったようですね。
本堂前付近から、庭に咲き誇る蓮の花々を観て回ります。
一旦蓮池を離れて、奥の方にも。
これは「青女の滝」。
平安時代末期に、現在の法金剛院を開基した待賢門院(たいけんもんいん)という人の発願により創られ、現存する日本最古の人工の滝だという話です。
もう少し、庭の奥を観て回ります。
“待賢門院(たいけんもんいん)”こと、藤原 璋子(ふじわらのたまこ)に仕えた歌人・「待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)」が創った「長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ」という歌の碑もあります。
この歌は、「小倉百人一首」80番目の歌にも選ばれた名歌でもあります。
この法金剛院は、平安初期の貴族・清原夏野という人の山荘だったのを寺に改めたものがその前身だとされています。
それから300年ほど後、大治5年(1130年)に待賢門院(藤原璋子)により再興・開基された「法金剛院」と号したと伝えられています。
その当時は末法思想が広がり、権力者から一般庶民に至るまで多くの人々が世の乱れに不安を覚え、必死で救いを求めていた時代です。
多くの仏像や極楽浄土をイメージした寺院(宇治の平等院など)が創られたり、後に浄土宗・浄土真宗などの新しい仏教も生みだされていった時期でもあります。
この法金剛院も、そんな時期に開基された為か、極楽浄土をイメージして創られたようです。その為この庭園の池には、極楽浄土に咲くという蓮の花が多く植えられたのでしょう。
ただ、この寺を開基者・“待賢門院(たいけんもんいん)”こと、藤原璋子(ふじわらのたまこ)という人に対して私は、少々複雑な思いを抱かざるを得ないのです。
というのは、『京都妖怪探訪』シリーズで崇徳上皇について調べたことがあるからです。
それによれば、藤原璋子という人は、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟の母親なのですが、「崇徳・後白河の兄弟が争った1156年・保元の乱→崇徳上皇・無念の最期→怨霊化」という後の悲劇を招いた責任者の一人であり、またその後の「平安朝の衰退→貴族政治の終焉」につながるきっかけを創った一人でもあると言えます。
京都妖怪探訪第6回「白峯神宮」で述べたことの繰り返しになりますが、藤原璋子と崇徳上皇との関係についてここでおさらいを。
崇徳上皇は、元永2年5月28日(1119年7月7日)に、鳥羽天皇と藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)との間に生まれました。
第1皇子でしたが、父・鳥羽天皇には疎まれ、冷遇され続けてきました。
何故なら、「実は崇徳天皇は鳥羽天皇の実子ではなく、その祖父で(派手な女性関係でも有名だった)白河法皇と、(白河法皇が後に鳥羽に与えた愛人でもあったという)中宮璋子との間にできた子であった」という噂が、当時からあったからです。
この話は、鎌倉初期の説話集『古事談』にも書かれているそうです。
鳥羽天皇は、その噂を信じたため、崇徳天皇を疎み、冷遇し続けます。
祖父・白川法皇の影響の下、5歳で皇位に就くも、白川法皇の死後は父・鳥羽天皇などから、多くの妨害や嫌がらせを受け続けました(天皇・上皇となったにも関わらず、実質的な権力を持たせてもらえなかったり、実子・重仁親王を皇位から外されたりなど)。
そして、父・鳥羽天皇逝去の際、崇徳上皇は父との対面を拒否されます。さらに、鳥羽法皇の初七日を崇徳上皇の臨幸もないうちに実施したり、検非違使を召集して京中を警備させて崇徳に対する露骨な挑発が行われるなどして、崇徳上皇は追い詰められていきます。
こうして、崇徳上皇側と(鳥羽天皇ら反崇徳側が担いだ)後白河天皇とが武力衝突したのが、1156年の保元の乱です。
この戦いは、崇徳上皇側の敗北に終わり、崇徳上皇は仁和寺に入って髪を下ろし、後白河天皇の下に出頭したものの許されず、讃岐国へと流刑にされました。
果たして、崇徳上皇の父親は鳥羽天皇だったのか。それとも当時の噂通り、白河上皇の子だったのか。
この疑問については、竹田恒泰氏の著書『怨霊になった天皇』(小学館)第四章の序盤にも紹介された、角田文衛著『待賢門院璋子の生涯』(朝日新聞社)の考察が興味深かったです。
当時の記録などから、待賢門院璋子の生理時期を推察。さらにその時の璋子本人の状況や行動などから、「白河上皇と、鳥羽天皇のいずれと関係して懐妊したのか?」を推察する、というもの。
その結果、「受胎可能な期間に璋子と鳥羽天皇が関係した可能性は低い」ということに。
つまり、やはり崇徳上皇は、璋子と白河上皇との間にできた子供ということに。
白河上皇と鳥羽天皇の関係は、上皇と天皇というだけではない。実の祖父とその孫。白河上皇という人は、「孫の妻に手を出した」というか、「自分の元愛人を孫の嫁に出した」という、本当にとんでもないお爺さんだ、と言わざるを得ない。
さらに待賢門院璋子さんにも、「若い孫に嫁いでも、前のパパが忘れられなかったのか。そんなに爺さんの方が好きだったのか?」という下衆な疑問が沸いてくるのですが。
この古刹と美しい光景を創ったのは、こんなにも業の深い人々だったとは……。
庭園の散策に戻ります。
何故、蓮の花が仏教を象徴する花とされるのか。
泥の中(汚れた世の中)から咲くものの、それに染まらない美しさとりりしさが、仏様の御心にたとえられていると言われています。
もしかしたら、この古刹を創った人々も、世の汚さを知り、自らの業の深さも自覚していたからこそ、必死に極楽浄土の救いを求めようとしていたのか。
汚れた泥の中に咲く蓮の花に、何かを求めようとしたのか。
ふと、そんなことを想像してしまいました。
そして、千年前から続く世の興亡と、その背後にあったであろう人間の業も。
それも全て見続けてきたであろう古刹の蓮は、今でも静かに咲き続けて居ました。
今回はここまで。
また次回。
*法金剛院へのアクセス・周辺地図はこちら(「関西花の寺二十五カ所」より)。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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