感動は命の肥し

曇りなき眼で、物事を見つめるなら必ずや真実を見極めることができる。覚醒の時を生きた記録として。

亡き母を思う夏の一日

2019-08-06 | 遠い昔の記憶

母が他界してもう15年になる。

生前、私の4人目の子供が生まれる時、母は九州の田舎からこのアメリカまで一人で飛行機に乗って来てくれた。今思うと、相当の勇気がいったことだろう。英語などこれっぽっちも話せないおばあちゃんだ。本当に親とは有り難いものだ。当時はまだ上の子たちも小さくて、3人の子供の送り迎えやら何やらで、どう考えても状況が難しく、来てもらえたら助かると、それとはなしに言ったところ、二つ返事で了解してくれたのだ。

当時は、南米、特にキューバからの移民が多く暮らす、下町のような所にある狭いアパートで暮らしていた。

小学校に通う上の二人は、歩いて10分ほどはかかる学校までの送り迎えをしなければならなく、まだ幼稚園に行ってない3番目もいて、一人で家に残せないので(ここは、12歳くらいまでは、一人で留守番させることができない)毎日の学校の送り迎えが、大変だったわけで、もし、子供が生まれたら、送り迎えすらできなくなると言う事で、母に頼ったのである。

母が来た日は予定日の1週間以上前、翌日は母が子供たちにおもちゃを買ってくれると言う事で、ちょっと離れたニューアークの飛行場の横にあるトイザラスに行ったりした。そうしていると、翌日の明け方に陣痛が始まり、母が来るのを待っていたかの如く、予定日より1週間近くも早く次男が誕生した。

母は、生まれてくる男の子の為に新しいベビー服を日本で買って来てくれたのだが、その服の胸に英語で2文字入っているのが、まさしく、子供につけた名前のイニシャルだったので、何かとても意味を感じたことを覚えている。

母には、日本に4人孫がいて、私の子供を合わせて8人の孫を持ったことになるが、私の4人目が、母にとってはおそらく最後の孫の誕生となるわけで、不自由なアメリカ生活の中でも、孫の誕生を大変喜び、毎日楽しく子守りをしてくれた。

母は強かった。

英語ができない事など全く関係ない。

キューバ移民の営む近くのなんでも屋さんで、学校の生き帰りによく買い物をした。なんでも屋と言っても狭い角の家の1階を使って営業しているのでスーパーのようなわけにはいかないが、それでもないよりまし、ずいぶんと助かった。ある日、学校から母に連れられて帰ってきた長男が、おばあちゃんがそこのお店の店員さんに、「かまぼこはあるかえ?」と日本語でたずねるので、通訳するのに困ったという話だ。通じるとでも思ったのだろうか。

親とはいいものだとつくづく思い返している。

母が、体調を崩し入院したと連絡を受け、日本に帰国した時、

病院を訪ねた私の顔を見るなり、末の息子の名前を呼び、目で探すのだ。連れてこなかったことがわかると、ベッドの中で声をたてずに涙を流した母を覚えている。どれ程に会いたかったものか。そんな事などこれっぽっちも考える事が出来なかった。後悔が残る。

結局、母はその年の秋に他界した。危篤と聞いて再度日本に帰り、葬儀、初七日まで日本にいて帰ってきた。母が会いたがった末の息子を連れて母の初盆に帰国、仏前で、会いたがってた息子を連れて来たよと母に話しかけたものだ。

かあちゃん、ホントにありがとう。もう、あなたに甘える事も、文句を言う事も、その姿を見ることもできないね。15年たった今も、あなたが恋しいです。

苦労かけて、無理ばかり言って、申し訳なかった記憶ばかりが胸に重たく残ります。こんなに感謝していることを、言葉で、形でもっとしっかりと伝えたかったと。

明日は会社が休みで、ワシントンン州に一人暮らす末の息子に送る小包を作りながら、彼の事を愛おしんでくれた母を久しぶりにいろいろと思い時間を過ごした夏の午後でした。


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