ニュースを見ていたら
鎌倉の源義経縁の寺、満福寺が火事でとしていた
このお寺、今は亡き義母と義母の妹の美智子おばさんと三人で行った事があったなぁと
懐かしく思い出す
腰越港の脇道を入った所にあったかな?
義経が頼朝に宛てた手紙を書いたことで有名らしかった
弁慶が腰かけていた石?が庭にあったような?
美智子おばさんは夫のことをとても可愛がってくれたらしい
義母は日本画家で美術年刊なる所にも名前が乗っていた
が、しかし、母性愛に溢れるというタイプではなく、スパルタ的だったようで
思い通りにならないことを息子にぶつけていたらしく、それを感じていた美智子おはさんは、足げく姉の家にきて、義母の攻撃から何とか守ろうとしてくれていたらしいと夫が言っていた
義母は終戦の辺りに中野の女子美術学校に通っていた、その頃美術学校なんて所にいく女子は良家のお嬢様がほとんど
戦争の頃、横須賀に学徒動員されて働かされたと、横須賀に行った事があった
義母が働いたと言う工場跡は様変わりし
団地になっていたように思う
義母の知り合いには
ブリジストンの社長の奥様やどこぞ大学の学長の奥様、弁護士の奥様
それはそれは、上流階級の奥様方がいらした
結婚当初、銀座で個展を開くので
よくお茶だしなどの手伝いに行ってた
銀座の画廊での個展、ポツリポツリと見に来る人がいて
義母の知人の画家さんもきたりしてた
私は美術の才能なし
義母とその友人、女三人で寄れば、なんとやら、とてもエネルギッシュで
そして騒がしい人たちだった
夫はある時を境に
義母や義父と距離をおき
断絶状態を解消することなく
二人とも亡くなった
晩年、夫には内緒で息子を連れて義父や義母に会いに行っていた
いよいよ義父が危篤状態となったとき
夫は絶対に葬式には出ない
さて、私はどうするべきかを考えた
私は夫と結婚をした
夫の親族には特に恨みもなく結婚してからよくしてもらったが
しかし、私は夫の側にいなければならないのではと考えに至った
それから義父が亡くなったと連絡がきたが、葬儀には出なかった
義母も肝臓癌で亡くなったが
義父の危篤以後、義母の葬儀にも行っていない
夫と連れ添って31年、息子に嫁がいて
孫もいて、まあなんとか生きて行けそうだということが義母への親孝行なんだと思っている
断絶した親子関係を理解するのに時間がかかった
断絶するほどの思いを理解できなかった
親が思うより子どもは傷ついており、関係を、たちたいと言うことなのだろ
夫の事があってから
親と不仲とか断絶している人を
少し理解出来るようになった
ちょっと虐待に近いことをされていた夫を気にかけて、可愛がってくれた美智子おばさん、その他にも義母の兄弟や従兄弟がいたので夫は生き延びたらしい
そうした背景が解るまでずいぶん時間がかかった
満福寺の火事で鎌倉を歩いた頃を思い出した
義母が私の年齢の時に手に入れた鎌倉の家は義母亡きあと義父の借金などで人手に渡った
大船からモノレールで二駅くらい
鎌倉市山崎にあった家
義母の描いた油絵が沢山飾ってあった
非常に透明感のあるシュールな絵だった
彫金をしたり絵画教室を開いたり
私が結婚した頃、義母は今の私と同じ年齢ぐらいでエネルギッシュだった
鎌倉と聞くと義母や義父を思い出す