古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

古代歌謡の分析3

2022-03-06 10:40:55 | 古代の日本語

前回は、応神天皇の時代には、宇、于、紆、禹の4文字がわ行の「う」を表記する漢字だったということを論じました。

そこで今回は、次の仁徳天皇の時代においても、于がわ行の「う」を表記する漢字だったかどうか検証してみました。

次の歌は、仁徳天皇の二十二年に、天皇が、妃をもう一人皇居に住まわせるため、皇后の同意を求めて詠んだとされるものです。

なお、漢字の表記と読みについては『日本紀標註』を、意味については『紀記論究 外篇 古代歌謡(上)』を参照しました。

原文
読み
意味
于磨臂苔能 うまひとの 長老の
多菟屢虛等太氐 たつることだて 建言(によれば)
磋由豆流 さゆづる 予備の弓弦(を必要とする)
多由磨菟餓務珥 たゆまつがむに 途絶えた間を継ぐためには
奈羅陪氐毛餓望 ならべてもがも 並べてみたいものである

ここで、「うさゆづる」とは、弓の弦(つる)が切れた場合に使う予備の弦で、『大日本国語辞典』によると、これは「をさゆづる」とも言うので、于がわ行の「う」を表記する漢字だったことは間違いないでしょう。

うさゆづる
【うさゆづる】(『大日本国語辞典』より)

したがって、仁徳天皇の時代には、わ行の「う」は、まだあ行に移動していなかったと思われるのです。

なお、この歌は、次のように括弧の部分を補って解釈すると、意味がよく理解できるそうです。

【歌の解釈】長老の意見によれば、切れた部分を継ぐためには予備の弦を必要とする。(それと同様に、皇居の空いた寝室をみたすために、妃をもう一人いれて)並べてみたいものである。

次回も古代歌謡の分析です。

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