熊野醉軍

天に導かれるままに、旅紀行を綴っていきまする。

フォトはクリックすると大きくなります。

2007年12月30日 石見・出雲の旅 16 月山富田城 ぱーと2

2008-04-07 21:59:43 | 中国、四国、九州
((旅程))

1.龍御前神社 → 2.石見國一之宮物部神社 

→ 3.出雲國一之宮出雲大社・出雲大社教本部 → 4.美保神社 

→ 5.松江城 → 6.出雲國一之宮熊野大社 → 7.神魂神社

→ 8.月山富田城

〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓★〓

 さて、靴を履きなおして再び月山富田城に突撃。

 まずは、花ノ壇にいく。




★月山富田城花ノ壇★

・花がたくさん植えられていたことから名づけられた。
・花ノ壇は敵の侵入を監視できることや、山中御殿(殿様の居住地)との連絡が
 容易なことから指導力ある武将がいたと思われる。
・発掘調査で、花ノ壇には多くの建物跡が発見された部分(南側)とほとんど
 見つからなかった部分(北側)があり、南は武将の生活の場、北は兵士の待機場
 であったと思われる。
・現在ある二棟の建物は発掘された柱穴を元に復元されたもの。

 まあ、当時は花ノ壇とは呼ばれていなかったのでしょうな。

 では、月山頂上部を目指し登山開始。

 登り始めすぐに親子観音がある。



 これは、慶長十二年富田城内で起こった堀尾家お家騒動の張本人堀尾河内守
とその一子掃部の霊を祀った宝篋印塔。塔身の右側に慶長十三年十二月五日と
彫られているので堀尾河内守父子の墓と思われる。
 松江開府の祖堀尾吉晴の娘の息子(つまり孫)で筆頭家老であった河内守の
 家督横領の陰謀によるもの。

 この辺りは木々でさらに暗く写真ぶれまくり。
 こういうところを登りました。



 しばらく行くと山吹井戸。



 そして、木々を抜け切ると正面には三の丸跡が見えてくる。



 ここを登ると二の丸へとつづく道がある。





 そして、二の丸から降りて本丸へと向かう。

 人気もなくさびしい。霊などもうねっているようなところだが、私は
気にしない。そして、道は本丸へと私を誘う。




 あと十分、二十分遅かったら日没で不気味もいいところだったであろう。



 これはおそらく本丸跡に建てられた尼子家忠臣の山中鹿之助幸盛の供養塔
であろう。さらにおくに行くと、城の鎮護でもある大国主命を祀る勝日高守神社
が鎮座する。築城以前からの鎮座と伝わる。




 100円、少ないですが、おいてきました。
 そして、暗くなりきる前に下りねばいけず来た道を戻る。

 下は本丸から見る二の丸の写真だ。



 すごい雪だねえ、しかし・・・


 最後は、山中御殿でセルフショット。



 ちなみにお祓いなど言うことは好きではないのであるが、死んでいった兵士や
武将たちの魂を天に導くために少しこの地で祈らせていただいた。

 我が産田の神、軻遇突智命、彷徨える魂たち、天に帰ることを望むものたち
を導きたまえ
 
 そして、尼子経久公には、また話をいたしましょう、と。


★月山富田城★ 島根県安来市広瀬町富田

 国史跡

・保元・平治の頃、平家の武将悪七兵衛平景清(正しくは藤原姓)が富田荘に
 来た時、八幡社を移して、築城したとの伝承あり、これが案内板にある
 平家方によって築城云々のくだりの理由であると思われる。
・歴代の出雲国守護職の居城。
・戦国期の大名尼子氏、特に十一州を治めた経久が有名。
・天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも
 呼ばれた。
・慶長5年(1600年)以降、堀尾氏が城主となるが、慶長16年(1611年)、
 堀尾忠晴が松江城に移り廃城。

Comment    この記事についてブログを書く
« 2007年12月30日 石... | TOP | 2007年12月30日 石... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 中国、四国、九州