いまはハードカバーをあまり読まなくなってしまったので、今もこういう論争があるのかどうかはフォローしていないのですが、高村薫や宮部みゆきが売れるようになった頃から、ミステリーファンの間でちょっとした論争がありました。
あくまで外野からの見方ではありますが、大雑把にその内容は、従来の伝統的な推理(探偵)小説、つまり謎が提示されトリックを解いていく過程が描かれているモノこそミステリーであるとする意見と、そうした推理小説が扱う題材(犯罪、謎、警察、アクションなど)を含んだエンターテインメント小説ならミステリーですよとする意見の対立だったのかなと。
あくまで外野からの見方ではありますが、大雑把にその内容は、従来の伝統的な推理(探偵)小説、つまり謎が提示されトリックを解いていく過程が描かれているモノこそミステリーであるとする意見と、そうした推理小説が扱う題材(犯罪、謎、警察、アクションなど)を含んだエンターテインメント小説ならミステリーですよとする意見の対立だったのかなと。
この論争のひとつの軸だったのが「人間が描かれているかどうか」という点。
これも外野からの見方ですが、前者の立場では謎ときが人間描写に優先し、極端な論者の場合は謎解きが美しければ人間が描かれていなくても良しとする。
逆に後者は、謎があればそれに越したことはないが、感情移入できる人物が登場しなければお話にならない。
これも外野からの見方ですが、前者の立場では謎ときが人間描写に優先し、極端な論者の場合は謎解きが美しければ人間が描かれていなくても良しとする。
逆に後者は、謎があればそれに越したことはないが、感情移入できる人物が登場しなければお話にならない。
私なぞは両方楽しんで読んでましたので、上記論争自体はどうでも良かったのですが、この本を読みながら「人間が描かれているかどうか」という観点を思い出したのでありました。
分断される経済―バブルと不況が共存する時代 日本放送出版協会 このアイテムの詳細を見る |
これの前に読んだ『国家の品格』でも感じたことですが、論理には限界があり、A→B→C・・・とそれが積み重なっていくと妙な結論にたどり着いてしまうことがあったりします。
風が吹けば桶屋が・・・みたいな話です。
たぶん経済学という分野、というかエコノミストの方々にこういうパターンが多いように感じます。
こないだも某経済紙にて「財政赤字が減ると人々が安心し、消費が増えて景気が回復する」という論が展開されていました。
服でも車でも家でもいいが、モノを買うときに、国の財政赤字を念頭に置く人なんているんでしょうか。
そんなやつおらへんやろ~
論理優先の弊害というか、人間不在の典型例のように思えます。
上記経済本の著者の言葉です。
…そうした疑問をぶつけたならば、その教授自身はややこしいデータやら複雑な理論やらを滔々と述べたてて、正当化を図るだろう。それを聞いた人は、そもそもそんな面倒なことを聞きたかったたわけではないし、それを理解しさらに反論するための理論武装をする気もないから、すごすごと退くしかない。実際、経済学者の多くの議論はそんなものであり、それが人々の素朴な疑問に答えずご託宣を行い続ける秘訣となってきた。
(著者のウェブサイトより)
このような言葉を発することができる学者さんの著作というだけで、中身の詳細な検討はかなわないまでも、傾聴すべきという気にはなりますね。
ただ、この方も大学で経済学を教えていらっしゃいます。
構造改革を唱えた学者さんの想定した「人間」が、彼らにとって「想定外」だったこと、つまり間違いであったことを論じたこの本については後日、別エントリにて感想など。。
ただ、この方も大学で経済学を教えていらっしゃいます。
構造改革を唱えた学者さんの想定した「人間」が、彼らにとって「想定外」だったこと、つまり間違いであったことを論じたこの本については後日、別エントリにて感想など。。